第二十二話 恵那の峡谷
桃太郎は歓喜した。鳥は毎日こんな景色を眺めて暮らしているのかと。きっと地に縛られた我らなど、ちっぽけな存在と感じているに違いない。そんな驕りすら覚えてしまう。こうして見下ろすことで、改めて自然の美しさにも気付かされる。いや、自然だけではない。人の造り出す田畑や道、家並みさえも美しい。
「桃太郎、気分は大丈夫かい?」
そう声を掛けたのは雉子であった。風に乗って悠々と空を舞う彼女は、地上を歩く時よりも活き活きとして見える。思い通りに大空を舞うというのはどんな気分だろう? 桃太郎は彼女を羨ましく思った。
顔を上げると、青い空に雲が浮かんでいる。てっきり手が届くものと考えていたが、あれに触れるためにはもっと高く飛ぶ必要があるらしい。それとも、あの青い空や白い雲には、近付くと見えなくなる性質でもあるのだろうか? そういえば禁域の霧もそうだ。遠くからは白く見えるのに、近付くとわからなくなる。それと同じかもしれない。そんな風にあれこれ考えながら忙しなく見回している内に、時間はあっという間に過ぎていった。
やがて日が暮れかかる頃、一行は恵那の峡谷と呼ばれる禁域に到着した。鳥人族の集落は険しい崖の中ほどにあり、岩壁に打ち込んだ杭や岩の出っ張りで建物や足場が支えられている。空を飛ぶか、崖を伝う以外に辿り着く手段はなく、そういった天然の守りが外敵の侵入を防いでいるのだと桃太郎は感じた。
四方を崖に囲まれた巨大な奇岩の上に降り立った一行は、そこに建つ大きな建物の中へと招かれた。聞けば、この集落の長は雉子の親戚にあたるという。そのおかげもあってか、桃太郎は客人として一族総出の手厚い歓迎を受けることとなった。
彼のような客はよほど珍しいのか、宴の席では子供から大人まで何人もの鳥人族が桃太郎に近づき挨拶をしていく。中には酒を勧める者までいて、不慣れな桃太郎には断るのもひと苦労であった。
そんな人々を見て、桃太郎は思った。亜人は人間を嫌うと聞いていたが、それは人間側の一方的な思い込みではないだろうかと。自分がそうであるように、彼らも人間に興味があるのだ。それでも距離を置かざるを得ないのは、何か別の理由があるからに違いない。もしかするとそれは、人間が時折見せる苛烈な排他的感情のせいかもしれない。桃太郎はそんな気がした。人間は自分と異なる存在を恐れる生き物、それが己よりも強い力を持つとなれば尚更のこと。彼らは互いに関りを断つことで、無用な争いを避けているのだ。
夜も更け、あてがわれた部屋へと下がった桃太郎は、すっかり疲れ果てていた。寝床に横たわるとすぐに睡魔が襲ってくる。そして彼は、あっという間に深い眠りへと落ちていった。
その夜、桃太郎は夢を見た。白一色の服に身を包んだ剣士が刀を振る夢。男のように見えるが、女だと言われればそうとも思える。
周囲には桃の花が咲き乱れ、刀を振るう度に花びらが舞う。最初はゆっくりと振られる刀。その輝く刀身が、刹那に白い光跡を残す。あれは金時が見せてくれた神器の技だと桃太郎は思った。歪みのない美しい光の筋が、現れては消えていく。それが繰り返される度、刀は徐々に速度を増していった。
やがて光が消える間を失いかけた瞬間、桃太郎の意識は現実へと引き戻される。上体を起こし、夢の内容を思い出す。それは金時の下で刀を振るうようになってから、幾度となく見た夢であった。
花頭窓から外を眺めると、まだ日の出前らしく薄暗い。桃太郎は枕元の木刀を手に取り、部屋を出た。
人気のない廊下を進んでいくと、どこからか朝餉の匂いが漂ってくる。玄関で履物を履き、建物を出た桃太郎は目を見張った。その広く平らな奇岩の上からは、遠くの景色がよく見渡せたからだ。昨日は暗くて気付かなかったが、この場所は禁域の中にありながら霧がほとんどない。それは高さの影響らしく、眼下を望めばやはり霧が雲海のように立ち込めていた。
桃太郎は木刀を構えると、それに気を流し込む。だがやはり、木刀は光を発することはなかった。彼は息を吐くと、気持ちを切り替えるように木刀をゆっくりと振り下ろす。夢に出てきた剣士と同じ剣筋。何度も繰り返し、少しずつ速度を上げていく。それに伴い、空気を切り裂く音も高く変化していった。
ひと頻り振った後で、今度は別の動きの中にその型を組み込む。流れるような動きの中、様々な技が繰り出されていった。それらのひとつひとつは、桃太郎が金時や夢の剣士から学んだもの。彼は夢を見る度に、それを己の技として身に付けていたのだ。
どのくらい経っただろうか。気が付くと遠く山の陰から日が昇り始めていた。桃太郎は細く息を吐き出すと、木刀を腰帯に収める。それと同時に背後から声が聞こえた。
「なかなか良い剣筋ですな」
桃太郎は驚いて振り返る。そこには岩に腰かけた小柄な老人の姿があった。髪や髭の色は白いが、背中の翼は漆黒。長く伸びた眉が瞼に覆いかぶさっている。
「気付きませんでした。いつからそこに?」
「素振りを始めた時からおりましたぞ」
見事な気の消し方だと桃太郎は感心した。かなりの腕前に違いない。
「初めて見る型ですが、師はどなたかな?」
「坂田金時、それと夢の中の剣士に教わりました」
「ほほう、それはまた珍しい流派だ」
桃太郎は記憶を遡る。昨夜の宴で見た覚えはない。おそらく初対面だろう。
「桃太郎と申します。雉子さんたちと一緒に都に向かう途中で、こちらに立ち寄らせていただきました。色々とお世話になります」
お辞儀をする桃太郎に会釈を返すと、老人はこう名乗った。
「烏樹といいます。雉子の祖父の弟、つまり彼女の叔祖父にあたる者です」
「では、鞍馬天狗の?」
「これは懐かしい。若い頃は人間たちからそう呼ばれてました」
なるほど、彼自身も鞍馬天狗の一人ということか。どうりで腕が立つわけだと桃太郎は納得した。それと同時に、なぜ彼は宴の席にいなかったのだろうと疑問を感じた。
「昨晩、宴の席におられませんでしたね」
「このところ病に伏しておりましてな。だが、今朝は調子がいい。昨夜から感じていた不思議な気の流れに誘われ、ふらりと来てしまいました」
「神気と呼ぶものです。私の体には半分だけ神族の血が流れておりまして」
「ほう。ひょっとして、それには癒しの効果があるのではありませんか? 体調がいいのは、そのおかげのように感じる」
「癒しの術なら知っていますが、そのような効果があるかどうかは……」
「あ、いや、そこまでの意味ではありません。何というか気持ちが安らぐというか、気分が良くなるのです」
桃太郎はふと思い出した。そういえば両親や咲にも似たようなことを言われたことがある。この烏樹という老人の主張は正しいのかもしれない。
「仰る通りかもしれません。化物や妖には毒でも人には逆の効果、不思議なものです」
「ほう、奴らには毒になりますか?」
「そのようです」
「うむ、それは至極当然のことかもしれませんな。ようするに人は神族寄り、化物や妖は鬼神寄りの生き物ということ」
「鬼神?」
「そう。神族の対極にある者たちのことです」
「初めて聞く言葉です。対極というと、神族と同等の力を持っているのですか?」
「おそらくはそうでしょうな。性質は真逆ながら、力は同等。この世はそういった均衡によって成り立っておるのです」
「我が師、金時は若い頃に酒呑童子という鬼を討ちました。それはつまり、神に匹敵する存在を倒したことになると?」
「いや、違うでしょうな」
「えっ、違うのですか?」
意外な答えに桃太郎は驚く。
「世の言い伝えに残る鬼の多くは人鬼、つまり人が鬼と化したものです」
「人が鬼に? 年経た獣が化物に変化するのと似たようなものでしょうか?」
「おそらくはそれに近い存在かと。対して鬼神というのは生まれながらの鬼のこと。ゆえにその力は人鬼を超える」
「そのようなものが存在するとは、思いも寄らぬことです」
「まあ、神族と同様、人の世に姿を見せることは滅多にありますまい。少しはお役に立てましたかな?」
「実に興味深い話でした。どこでこの話を?」
「これは我が一族に伝わる話でしてな。亜人の中でも、もはや我々だけが知る伝承となりました」
「そうでしたか。烏樹殿は物知りですね」
「ほっほ、長く生きておればこそですな」
この人なら、ずっと疑問に思っていたことに答えてくれるかもしれない。桃太郎はそう考え、遠慮がちに質問を投げ掛けた。
「あの、ひとつ伺っても?」
「私にわかることでしたら」
「烏樹殿に訊くのは筋違いかもしれませんが、術とは何でしょう?」
「ほほう、これはまた難解な問いだ」
尋ねた内容が漠然とし過ぎていたと思い、桃太郎はさらにこう補足する。
「あれの源は霊力、つまり気です。私もある程度は気を操ることができますが、術は使えません。術を使える者とそうでない者、その違いがよくわからなくて」
「気が火や水に姿を変えたり、怪我を治したりする理屈は私にもわかりません。また、人によって術に違いがある理由も知らない。ですが、あなたが術を使えないという解釈は間違っているように思えます」
「えっ?」
「気を操る者の幾人かは、それにより体の一部を強化する。あなたもできるのではありませんか? 私に言わせれば、それも立派な術です」
「では、気を操れる者は誰しも、何らかの形で術を使えるということですね」
「私はそう考えております。まあ、例外がないとは言い切れませんが」
「うーん、なるほど」
話し込む内にすっかり時が過ぎていたようで、建物の方から朝食の準備ができたと声が掛かった。桃太郎は烏樹にお礼を言って、建物内へと戻る。
「武運長久を祈っておりますぞ」
老人はそう言って桃太郎を見送ってくれた。白昼夢でも見ていたかのような不思議な感覚を覚え、入口の所で振り返ったが、既に彼の姿はどこにも見当たらなかった。