第二話 桃の実
「こりゃあ、だめかもしれん。今夜が峠じゃな」
老婆は桶の水で手をすすぎながら言った。
「どうにかならんのか? 婆さま」
「無理言うな、富三。できる限りの処置はしたが、これ以上はどうにもならん。わしゃ薬師でも治療師でもないのじゃぞ」
そして老婆は「明日の朝、また来る」と言い残し、月明かりの中を帰っていった。
富三は囲炉裏の前に腰を下ろし、粗末な蒲団に横たわる男に目をやる。薄暗い部屋の中でもわかるほど顔色は悪く、高熱のせいか息は荒い。その枕元には男の様子をじっと見つめる若い女の姿があった。長く伸ばした黒髪が顔半分を覆っていて、目鼻立ちは整っているのにどこか陰のようなものが感じられる。
「お爺。この人、助からないの?」
女は呟くように富三に問い掛けた。
「わからん。イセ婆さんはそう言っとった」
女は悲しげな様子で手拭を絞り、男の額にそっとのせる。
「すまんな、妙。見ず知らずの男とはいえ、お前には辛かろう」
そう言って視線を落とす富三の瞳に、囲炉裏の火が赤く映り込んだ。
「ううん、平気よ」
気丈に答える妙だったが、その表情は硬い。
「わたしより、その子が不憫で……」
彼女が見つめる先には、白い布に包まれて眠る赤子の姿があった。富三は何も言えずに押し黙る。彼には、妙が赤子に己の境遇を重ね合わせているように感じられた。
ぱちぱちと囲炉裏の音だけが響く中、不意に男が呻き声を上げる。
「辛そうじゃな。せめて何か口にできればいいのじゃが……」
富三の言葉に、妙は突然何かを思い出したように立ち上がった。
「そうだわ。今日、川で桃を拾ったのよ」
彼女は土間におりると、棚の上の器を手に取る。中には桃が一つ。拾ったときは石のように堅かった実は、少しの間に瑞々しく変化していた。
布で包み、欠けた茶碗に果汁を絞り出す。その溢れ出る様は、まるで水気だけでできているかのようであった。
「ほう、桃の汁か。そりゃええ」
そう言いながら、富三はある可能性に気付く。長いこと村で生活しているが、川で桃の実を拾ったという話は聞いたことがない。ひょっとするとあれは、赤子の手から落ちた桃ではないだろうか。
「さあ、これを飲んで」
妙は男の頭を持ち上げると、そっと桃の汁を口に流し込む。辛うじて意識はあるようで、男はそれをごくりと飲み込んだ。
「おお、飲んだ。飲んだぞ!」
富三が微笑むと、妙も嬉しそうな表情を浮かべた。気休めでしかないことはわかっている。だがそれでも生きようとする男の意志が、二人にとって救いであった。
それからしばらくして、思いも寄らぬ変化が起きた。土気色だった男の顔は徐々に血の気を取り戻し、あれほど高かった熱も下がり始めたのだ。
「なんと、これはどうしたことじゃ」
何も特別なことはしていない。口にしたものといえば、桃の汁とわずかな水だけ。驚く富三の隣で、妙もただ呆気に取られていた。
翌朝、空が薄っすらと明るむ頃、イセが再び富三の家を訪ねてきた。
「なに! 生きておるじゃと?」
早朝の庭先に、イセの声が響き渡る。
「静かにせんか。孫娘が看病疲れで寝とるんじゃ」
富三は足元の草をむしりながら、一部始終を老婆に話して聞かせた。
「桃の汁とな? そんなものであれほどの大怪我が治ったというのか? そんな話、聞いたことがないわ」
「わしだって信じられん。じゃが、他には思い当たらんしな」
「うーむ……」
「それに、完全に治ったわけではないぞ。命は取り留めたが、まだ意識は戻らん」
「ふむ。で、どうするつもりじゃ?」
「別にどうもせんわい」
「このまま家に置くつもりか? まさか妙の婿になどと考えておらんじゃろうな?」
「そんな大それたことは考えておらん。相手の都合だってあるじゃろう。とにかく動けるようになるまでは、うちで面倒を見る。それで構わんか?」
「なぜ、わしに訊く?」
「そりゃあ、村長じゃからな」
「ふん、好きでやっとるわけじゃないわ。まあ、無理に追い出して悪い噂が立ってもつまらんし、仕方ないじゃろう。にしても、相変わらず物好きな奴よ」
「よし。じゃあ、そういうことで頼むぞ。手間を掛けてすまんかった」
富三は手の土を払いながら、立ち上がった。
「別に構わん。さあて、飯じゃ、飯」
イセはそう言って来た道を戻っていく。富三はそれを見送った後で、隣の家の大きな柿の木に目を向けた。
「弥助、それで隠れとるつもりか?」
木の幹からはみ出た尻がびくりと動く。
「よ、よう、富爺。どうやら無事だったみてえだな」
「まったく、盗み聞きなんぞしおって。まあ、お前も無関係ではないからのう。聞いての通り、あの男は無事じゃよ。今のところは心配いらん」
「いや、男じゃなくてあんたの方だ」
「む、何を言うとる? 寝ぼけておるのか?」
「いや、その。おらぁてっきり、化物に食われたんじゃねえかと――」
「なんじゃと?」
富三の動きがぴたりと止まる。
「何のつもりじゃ? 縁起でもないことを言いおって!」
いつもは落ち着きのある穏やかな声に、はっきりと怒気が含まれていた。弥助は己の発言が配慮を欠いていたことにようやく気付いたのか、おろおろと辺りを見回す。化物に食われるなどという話はだれでも良い気分はしないが、ことさら富三には禁句であった。なぜなら彼の息子夫婦――即ち妙の両親は、化物の手によって命を落としているからである。
「す、すまねえ、わるかった。でもよぉ、禁域の近くに倒れてた男だろ? 本当に人間かどうか疑わしいじゃねえか。だから、おらぁ心配で……」
たじろぎながら必死に言い訳をする弥助に、富三は大きなため息をつく。
「やれやれ、お前はあの男の服に気付かんかったのか?」
「は? 服?」
「陰陽勾玉巴の紋が刺繍されておった。ありゃあ都の陰陽師じゃ」
「本当かよ? そんなお偉いさんが、なんであんな所に?」
「わしにもわからん」
「いや、でもよぉ。男の素性がそうだとしても、赤子の方は怪しいじゃねえか」
「あの子は大丈夫じゃ。人に害を及ぼすような存在ではない」
「なんでそう言い切れるんだ?」
「あの赤子からは何というか、温かいものを感じる。まあ、わしの勘じゃ」
「はあ? なんだ、そりゃあ」
弥助は不満そうに口を尖らせながらも、それ以上は言及しなかった。富三とは長い付き合いである。彼は隣に住むこの老人が、村人のだれよりも人を見抜く才に長けていることを知っていた。
「まあ、心配してくれるのは有り難いが、間違っても妙には言わんでくれ」
「当たりめぇだ。お妙ちゃんが悲しむようなことなんてするもんか。そんなことしたら、実代に怒られちまう」
「相変わらず尻に敷かれておるようじゃな」
「う、うるせえ。余計な心配かけたくねえだけだ。娘の世話で忙しいからよ」
その時、富三の頭にある考えが浮かんだ。
「そういえばお前さんとこ、乳飲み子がおったな」
「ん? おうよ」
「乳はちゃんと出とるのか?」
「なっ、何言ってやがる! なんでそんなこと――」
「勘違いするな。あの男が連れていた赤子のために尋ねとるだけじゃ」
「あ、ああ、なんだ。そういうことか」
富三の発言は、実代に乳母としての手助けを期待してのものだった。そのことに気付いた弥助は、己の早とちりを少し恥じ入るような顔をしつつ、「後で訊いといてやらぁ」と言い残し家の中へと戻っていった。