第十八話 善と悪
翌日、大穿の島にある小高い岩山の上に、桃太郎と犬十郎、そして金時の姿があった。
「気を集中させんか、未熟者め!」
ふらふらと揺れ動く二つの大岩の前で、金時の声が響く。十人がかりでも持ち上がりそうもないその岩の一方は桃太郎、もう一方は犬十郎によって支えられていた。人並み外れた力を持つ彼らとはいえ、これほどの大岩を担ぎ上げるには相当な気を練り上げなければならない。
「ぐっ、重てえ……」
苦しそうに呻く犬十郎だが、持ち上げた大岩を安定させるのに手間取ることは彼にとってはいつものことであった。むしろ様子が変なのは桃太郎の方で、普段ならぴたりと止まるはずの大岩がなかなか収まりを見せない。なぜ彼の気がこのように乱れているのか、その原因は土蜘蛛の一件にあった。あの出来事をきっかけに、彼の中でひとつの価値観が揺らぎ始めていたのだ。
「ふん。では、昼までそうしておれ」
そう言って金時は二人に背を向ける。通常より明らかに長い鍛錬に、桃太郎と犬十郎はこれが罰であることを理解した。
「待てよ、金爺」
「何だ、犬っころ? この期に及んで言い訳か?」
「いや、俺は仕方ねえが、なんで桃太郎まで罰を受ける? こいつはちゃんと土蜘蛛を退治しただろうが」
「理由は本人が一番わかっておる。そうだな、小童?」
「はい」
「よし、では続けろ。わしがいいと言うまで、くれぐれも気を抜くでないぞ」
金時が霧の向こうに消えた後で、二人はようやく大岩を安定させた。犬十郎は長く息を吐き出すと、こう問い掛けた。
「なあ、桃太郎。金爺が言ってたのは、どういう意味だ?」
「罰を受ける理由か? お前と同じだよ。言い付けを破ったからさ」
「確かに俺はそうだ。思考や観察より先に手が出る癖を直せと言われているのに、それを忘れてまんまと誘いに乗っちまった。でもお前は違うだろ?」
「いや、同じさ。ああいう神気の使い方は禁じられていたんだ」
「使い方だと?」
「全身から発散させるような気の発動、あれは禁じ手なんだよ。本来なら今しているように、必要な部分にだけ気を集中させるべきなんだ」
「別にいいじゃねえか。全身に気を纏えるなら、それに越したことはねえ。俺だって、できるならそうするぜ」
犬十郎の言葉に、桃太郎は首を横に振った。
「理由は二つある。一つは効率の問題。全身に気を纏えば当然消耗も激しくなるし、効果も分散される。それを必要な時に、必要な部分にだけ集中させたらどうだ?」
「消耗を抑えつつ、効果を高めることができるって話だろ?」
「その通り。わかっているじゃないか」
「理屈はわかるが、反射的にできなきゃ意味がねえ。間に合わなかったら、生身で攻撃を受けることになるんだぜ」
「だから毎日修行しているのさ。成果だってちゃんと出ている。土蜘蛛の攻撃を受けた時、何本かは気の力で防げたんだろ?」
「そうだけどよ……。全身に気を纏ってたら、全部防げたかもしれねえ」
「きっと、金爺もその有効性を否定しているわけじゃない。上達させるために禁じているだけさ。最初から楽な方法に頼っていたら、修行にならないからな」
「ちぇ、楽には強くなれねえってことか」
残念そうに嘆く犬十郎に、桃太郎は「相変わらずだな」と笑った。
「話の続きだが、もう一つは神気特有の問題。犬十郎には当てはまらない理由だ」
「何だ、そりゃ?」
「神気というのは強さゆえにひとつの危険性を秘めている。過剰に発動し続けると暴走し、限界以上に力が増幅されてしまうんだ。自身を形作る肉や骨の機能を極限まで高め、本来は一生かけて消費するはずのものをわずかな時間で燃やし尽くしてしまう。その結果、肉体は生命力を失い、石と化す」
「げっ、本当かよ?」
「現にそういう半神半人がいたという話を金爺から聞いたことがある」
「……だったら、桃太郎。もう二度とやるんじゃねえぞ。俺が怪我したくらいで、そんな危険を冒してたらきりがねえ」
怒ったように言う犬十郎に、桃太郎は苦笑いを浮かべながら答えた。
「ああ、そうだな。悪かった、反省している」
「しかし、本当に馬鹿正直だぜ。言い付けを破ったことなんて、黙っておけばいいのによ」
「お前だって、素直に白状したじゃないか」
「俺は怪我をしたからな。隠し通せねえと思っただけだ」
「そうか。まあ、これも修行の内さ」
「やれやれ。馬鹿正直じゃ飽き足らず、修行馬鹿ときたもんだ」
ため息と同時に姿勢を崩しそうになり、犬十郎は慌てて気を練り直す。こんなやり取りをしながらも、桃太郎の心にはあることが引っ掛かり続けていた。
やがて数刻が過ぎた頃、ようやく金時が二人の前に姿を見せた。
「ようし、そこまで!」
地響きと共に大岩から解放された犬十郎は、手足を伸ばし仰向けに倒れ込む。そうしてそのまますうすうと寝息を立て始めた。桃太郎は滴り落ちる汗を拭おうともせず、その場にぐったりと座り込んでいた。
「小童、何を悩んでおる?」
金時の問い掛けに、桃太郎は項垂れたまま答える。
「……お気付きでしたか」
「当然よ。気の乱れは心の乱れ。迷いがあるから、気が安定せぬのだ。もしや、砂紋とかいう男と妻の身を案じておるのか?」
金時の指摘は見当違いだが、まったくの誤りというわけでもない。犬十郎が怪我をしたことで早々にあの場を切り上げてきた桃太郎には、砂紋たちの安否が気掛かりだった。彼らは無事に子供を村に返し、都に戻ることができただろうか? そんな不安が頭をよぎる。だが、今の彼を悩ませているのはそれとは別の問題であった。
「確かにそれも気掛かりですが……」
「他にあるのか?」
「実は、土蜘蛛の巣穴には卵があったのです」
「ふん、奴が次々に人を食らったのはそういう訳か。それがどうした?」
「それを見た時、ふと思ったのです。あの化物は、ただ当たり前に生きていただけではないのかと。つまり我々と同じように獲物を狩り、それを食し、子を育てようとしていただけかと……」
「当たり前だ。そこに善悪などない」
桃太郎は驚き、顔を上げた。
「お前は土蜘蛛が悪で、それを退治する自分は善などと考えていたのか?」
「しかし、人を食うのは悪いことではないのですか?」
「ならば問う。なぜ人が他の生き物を食すことは許される? 命に差があるとでも言うのか? 人であろうとなかろうと、命の重みは同じ。お前の考えは、人だけの勝手な理屈よ」
愕然とする桃太郎を、金時はさらに諭す。
「生きるために食うは自然の摂理。そこに善悪の尺度を持ち込むこと自体、誤りなのだ」
「では、私たちが行ったことは何だったのですか?」
「ただ心の声に従い、目の前の困っている者を助けただけのこと。それ以上でも、それ以下でもない」
「わからない……。悪でないにせよ、見過ごせぬ事だと感じます。だがそんな個人的な感覚は捨て、もっと大局的に物事を見るべきということでしょうか?」
「そうではない。物事の善悪というのは一概に決められぬということだ。それを知った上で、己の信念を貫けばよい。その結果、お前の行為で救われる者もいれば、逆の者もいるだろう。命のやり取りを伴うのなら、尚更のこと。自分だけが正義だとか、全てを良い方向に収めようなどとは努々考えぬことだ」
「己が成すことの意味を歪めずに受け止めろと?」
「まあ、そんなところだ。絶対的な善や悪など存在せぬ。そんな妄想に耽って現実から目を逸らすのは、卑怯者のやることよ」