第十七話 土蜘蛛
「出てこい、化物! そこにいることはわかっているぞ!」
森に桃太郎の声が響き渡る。直後、土蜘蛛の気配が消えた。
「へえ、一応は気を操れるらしい。思った通り、少しはやりそうだぜ」
犬十郎はそう言うと、数間先の大きな穴をじっと見据えた。しばらく待つが、土蜘蛛はなかなか姿を見せない。
「おいおい。まさか、恐れをなして別の穴から逃げたりしねえよな?」
動きがないことに不安を感じたのか、犬十郎がそう呟く。
「気を抑えていれば、こちらの力量は悟られないはずだ。仮に逃げたとしても、穴からおびき出せさえすればそれでいいさ」
そのとき、桃太郎の耳が地鳴りのような音を捉えた。
「なあ、何か聞こえないか?」
「ああ、聞こえるぜ。なんだか、少しずつ大きくなって……」
次の瞬間、二人の足元が小刻みに揺れ始める。
「おお、何だ? 地震かよ?」
「いや、この揺れは……、下だ!」
二人が地面を蹴った直後、地中から大きな蜘蛛の脚が数本飛び出した。脚先の爪は鋭く尖り、一歩遅れていれば無事では済まなかったことが見て取れる。桃太郎と犬十郎は空中で木の幹を蹴り飛ばして軌道を変えると、少し離れた場所へと降り立った。
「むざむざ食われに来たか、愚か者どもめ!」
地中から姿を見せた土蜘蛛の声は、思ったよりも甲高い。
「へっ、本当に喋りやがった」
そう話す犬十郎をよそに、桃太郎は腰の木刀を素早く引き抜き、土蜘蛛に襲い掛かった。着地と同時に踏み出した足は、瞬時に間合いを詰める。だが木刀が鋭く薙ぎ払われた瞬間、すでに土蜘蛛の体は空中にあった。まるで何かに引っ張られ、浮き上がったかのような動き。そのまま吸い込まれるように、大木の上部へとへばりつく。
空を切った木刀を構え直しながら、桃太郎は何が起きたか考える。土蜘蛛に地面を蹴るような動きはなかった。まさかこの妖は、宙を舞う術でも使うというのか? そのとき、横から犬十郎が叫んだ。
「糸だ、桃太郎! 奴は糸で自分の体を引き上げた!」
「そういうことか」
そんな二人を見下ろしながら、土蜘蛛は木から木へと立て続けに跳躍を始める。まるで、木々の間を縫うような動き。それが意味するところを二人はすぐに理解した。
「ちっ、あの野郎! 網を張ってやがる!」
あっという間に、頭上に巨大な円網が形作られていく。
「上がるぞ、犬十郎。距離を取られては手も足も出せなくなる」
桃太郎は足元の落ち葉をひと掴みすると、二本の大木を交互に足蹴にしながら跳び上がった。犬十郎も後に続く。
そうして網を越えた先の枝にぶら下がった桃太郎は、手にした落ち葉を糸の上に舞い散らせた。
「やはり……」
見れば、一部の糸だけに落ち葉が付着している。彼は蜘蛛の巣には粘着性のある糸とそうでない糸とがあることを知っていた。それを教えてくれたのは、子供の頃よく一緒に遊んだ茂吉である。
「犬十郎、木と木を繋ぐ縦糸に下りろ! 横糸は罠だ! 粘り気がある!」
そう叫びつつ、桃太郎は一本の縦糸の上に降り立った。地面と比べると遥かに不安定で、踏ん張りが効かない。だが弾力はある。重心を落とせばわずかに歪み、戻る勢いで体がふわりと浮く。普通であれば立つこともままならない綱の上だが、二人は天性の運動能力によって即座にこの足場に順応していた。
「折角の罠も無意味だったな。追い詰めたぜ」
そう言ってじりじりと間合いを詰める犬十郎。土蜘蛛は取り乱した様子で激しく爪を振り動かしながら後退していく。桃太郎はその行動に違和感を覚えた。横糸を回避されたとはいえ、網の上での優位性はいまだ土蜘蛛にある。普通なら一気に襲い掛かり、毒牙と糸でこちらの動きを封じようとするはず。きっと何か別の狙いがあるに違いない。彼はそう直感した。
「気を付けろ、犬十郎!」
警告が発せられたのは、犬十郎が間合いを詰めるのとほぼ同時であった。糸の上という状況を鑑みれば素早い動き、だがやはり地面のようにはいかない。踏み込みが精彩を欠く中で、土蜘蛛は狙い定めたように袋状の腹部を何度も激しく振り動かした。その意味に気付く間もなく、何かが犬十郎に襲い掛かる。
「犬十郎!」
呻き声と共に地面へと落下していく犬十郎を、桃太郎は受け止めることができなかった。なぜなら、土蜘蛛が放った正体不明の攻撃が彼の身にも迫っていたからである。
桃太郎は糸の弾力を利用して、鋭く宙を舞う。直後、背後の木に何かが音を立てて突き刺さった。それは油断すれば見逃してしまいそうなほど細く透明な、針状の物体。長さは桃太郎の背丈ほどもあり、形を崩すことなく大木の幹を貫いている。激しく揺れる視界の中で、彼の目はそれを瞬時に捉えていた。
おそらくは、気を練り込んで硬質化させた糸。別の縦糸に着地しながら、桃太郎は針の正体をそう結論付ける。しかし、意識はそのことだけに囚われない。着地の際、彼は既に次の行動へと移っていた。戦いにおいて、ひとつの動きは次への布石。それを連ならせ、絶え間ない攻防の流れを作るべし。これは金時の教えであり、桃太郎が十年の修行で会得した技能のひとつでもある。
桃太郎は着地の勢いを殺すことなく、意図的に糸を撓らせた。反動で反対側へと飛ばされた彼は、続けざまに木の幹を蹴り飛ばす。そうして方向を変え、また別の縦糸へと勢いよく着地する。
「そんな曲芸に惑わされるとでも思うたか?」
土蜘蛛の挑発をよそに、桃太郎は跳躍を繰り返す。徐々に速度が増していく中で、その身は淡い光を放ち始めた。全身を覆い尽くさんばかりの神気の発動。大木と網を激しく揺らしながら、光の筋が乱れ飛ぶ。
「こ、この光は……!」
土蜘蛛は明らかな動揺を見せた。それは、犬十郎を誘い出した時のような偽りのものではない。慌てて針を飛ばすが、眩んだ目で闇雲に放たれたそれが飛び回る標的に当たるはずもなかった。
大木の撓りが限界に達する寸前、ついに桃太郎の木刀が土蜘蛛を襲う。勢いのまま振り抜かれたそれは、頭胸部を一撃で粉砕。肉塊と化したその体は、静かに地表へと落下していく。それが鈍い音を立てるよりも早く、桃太郎は地面へと降り立っていた。
「無事か、犬十郎?」
走り寄る桃太郎に、犬十郎は顔をしかめながら答える。
「大したことはねえ。数本刺さっただけだ」
見れば腕の数か所に赤い血が滲んでいる。服もあちこちが鋭く切り裂かれ、隙間から赤い色が見え隠れしていた。
出血がそれほど多くないのは、糸の細さが幸いしたといえるだろう。致命傷でなかったことに、桃太郎は安堵する。土蜘蛛の邪気が消えたせいか、針のような形状は失われ、傷口からは長い糸がだらりと垂れていた。
「こんなもの、手で引き抜いちまえば……」
「待て、犬十郎。念のため、父上に診てもらった方がいい」
「なに、俺を村に連れていく気か? 冗談じゃねえ」
「安心しろ。お前の家に父上を連れて行くつもりだ」
「へっ、ならいいけどよ」
桃太郎はゆっくりと立ち上がり、穴の入口に目を向けた。
「では、砂紋殿を呼んでくる。後の始末は、彼に任せよう」