第十二話 犬人族の親子
上流に向かって川岸を歩いていくと、すぐに激しい水音が聞こえてきた。音は徐々に大きくなり、やがて霧の向こうに大きな滝が薄っすらと姿を現す。
「父上、滝です。滝があります」
桃太郎は、初めて見る滝に心躍らせている様子であった。余市はそんな我が子の姿に改めて気付かされる。思えば周囲の目を気にする余り、ずっとこの子を村の外に連れ出さずにいた。自分は父親失格かもしれない。ひょっとすると他人に預けずとも、こういう自然の中で自由にさせてあげるだけでいいのではないか。そう感じ始める。そしてこのことは、桃太郎の身に宿る化物を退ける力の存在を知った今だからこそ言えることであった。
「桃太郎、いまさらだが止めてもいいのだぞ。坂田殿の下へ行かずとも、人目を気にせず力一杯動き回れる環境がここにある」
桃太郎は少し考え込むような仕草を見せた後、きっぱりとこう言った。
「いえ、父上。つい先刻わがままを言っておきながらおかしな話ですが、私はひい爺さまに誓ったのです。二度とあのような悲劇を繰り返さぬよう、強くなると」
「ここでは強くなれぬか?」
「おそらくは難しいでしょう。ひとりで野山を駆け回ったところで、鍛えられる程度は知れています。私には師と仰ぐ人物が必要なのだと思います」
「そうか……。わかった、お前が望むようにしよう」
余市は感じ入った。この子はどんどん成長している。肉体の強さも然ることながら、心の強さにも目を見張るものがある。しかもそれに慢心せず、常に向上心を忘れない。果たしてこの先どんな運命が待ち受けているのか、今はわからない。だが、桃太郎ならどんな苦難も乗り越えられるだろう。余市はそう確信した。
「では、行くか」
「はい」
そうして二人は再び歩き出す。滝の近くまで来ると、今度は明らかに自然の造形ではない物体が目に留まった。崖の中ほどに大きな横穴がぽっかりと開いていて、そこから崖下に向かって階段状に丸太が組まれている。さらにその周りには、外敵の侵入を阻むかのように何本もの尖った杭が斜めに突き刺さっていた。
「父上、あそこですか?」
「そのようだな」
桃太郎たちが足を踏み出そうとした瞬間、横穴から石のようなものが飛び出した。それは目の前の岩にぶつかると、乾いた音を響かせた。
「それ以上、寄るな!」
滝の音にも負けない大きな声。余市は両手を上げ、敵意がないことを示す。
「私たちは、富三の家族の者です! 今日は彼の代わりに参りました!」
余市が叫ぶと、穴の奥から子供が姿を現した。白銀の毛並み。人間と同じように二足歩行で服も着ているが、その顔は犬や狼に近い。彼はしばらく余市と桃太郎をじっと見た後、再び穴の奥へと引っ込んでしまった。
「父上、あの者は服を着ています」
「ん? 当然だろう。我々も服を着るではないか」
「でも、シロは服を着ません。それは全身が毛で覆われているからだと、ひい爺さまが言ってました。見たところ、彼の体も毛で覆われています」
「そうだな……。彼らの場合、防具という意味合いが強いのかもしれん」
「防具とは、何ですか?」
「ようするに、身を守るためのものだ。遠目なので断定はできないが、おそらくあの子の服は獣の皮。つまり布よりも丈夫な材質でできている」
「なるほど……。化物のいる禁域では、そういう備えが必要になるのですね」
「うん、まあそんなところだ」
桃太郎はこれまで、ほとんど怪我をしたことがない。全身傷だらけになった経験など、猿神に体当たりをした時が初めてといってよいくらいである。それゆえ、彼は身を守るために何かを着るということを意識したことがないのだ。そう余市は思った。
しばらくすると、再び穴から犬人族の子供が姿を見せた。彼はひょいひょいと数段飛ばしに階段を降りると、最後に大きく跳躍して余市たちの前方に着地した。桃太郎はそれを見て嬉しそうな表情を浮かべた。見たところ背格好は桃太郎と同じくらい、おそらく年齢もそんなに変わらない。そんな相手がこれほどの身のこなしを見せたことに、桃太郎の心躍らせたに違いない。やっと対等の遊び友達が見つかった。きっとそんな心持ちなのだと余市は感じた。
犬人族の子供は桃太郎を一瞥した後、余市に向かってこう尋ねた。
「富三爺さんの家族だと証明できるのか?」
その態度は実に堂々としている。余市は少し困った表情を浮かべながら、肩に掛けていた弓を差し出した。
「これは彼の弓です。今はこれくらいしか……」
すると子供は弓に鼻を近づけ、くんくんと匂いを嗅ぎ始めた。
「……確かに富三爺さんの匂いだ」
そうして余市に鋭い眼光を向ける。
「まさか、盗んだものじゃねえだろうな?」
「とんでもない。富三さんは大事な商売道具を易々と盗られるような人じゃありません。何より、そうまでしてあなた方を騙す理由が我々にはない」
否定する余市をしばらく睨んだ後で、彼は脅すような口調で言った。
「ふん……。嘘だったらただじゃおかねえからな」
そして踵を返すと、変わらぬ身軽さで穴の方へと戻っていく。彼は段上で振り返ると、余市と桃太郎に上がってくるよう促した。
「父上、行きましょう!」
桃太郎は楽しそうに、犬人族の子供に劣らぬ跳躍を見せる。余市はそんな我が子の様子を嬉しく思いつつ、尖った杭を慎重に避けながら階段へと向かった。
穴の中は思ったよりも広く、外と比べて少し暖かい。壁や天井には、組んだ木材により崩落を防ぐための補強が施されている。足元には細かく砕いた木片が敷かれていて、柔らかく、いい香りがした。中央には台の代わりに平坦な岩が置かれ、それを取り囲むように輪切りの木材が並べられている。壁際の石を積み上げた竈では火にくべた薪がぱちぱちと音を立て、すぐ近くにはおそらく水が入っていると思われる大きな樽が二つ置かれていた。
「かような場所に、よくお越し下された」
歓迎の言葉と共に奥から姿を現したのは、背の高い犬人族の男であった。均整の取れた体つきをしているが、足を引きずるように歩いている。どこか怪我をしているのだろう、余市はそう思った。
「突然に、申し訳ありません」
余市は丁寧に頭を下げ、桃太郎もそれに倣う。
「いやなに、構いませぬ。富三殿のご家族とか?」
「はい、私は義理の孫の余市と申します。この子はひ孫の――」
「桃太郎です」
桃太郎は自ら名乗る。男はお辞儀をすると、二人に名乗り返した。
「それがしは犬心と申す。そっちはせがれの犬十郎」
桃太郎は笑顔で犬十郎を見る。竈の前にいた犬十郎は、ちらりと桃太郎を見るが、すぐに素っ気なく目を逸らした。
「それで、本日はどのようなご用向きで?」
「ええ、実は――」
余市は猿神との戦いで富三が命を落としたことを告げた。
「そうですか……。あの方がお亡くなりに……」
犬心は気を落とした様子で、しばらく目を瞑り俯いていた。
「これは、富三から生前に言い使っていたものです」
そう言って余市は背負っていた食糧を犬心に差し出す。
「いや、これは受け取れませぬ」
「しかし……」
「余市殿。それがしが富三殿と知り合った経緯、聞いておいでか?」
「あ、いえ。聞いておりません」
「では、お聞かせしよう。どうぞ、お掛けくだされ」
犬心は余市と桃太郎に輪切りの椅子に座るよう促し、自分も腰を下ろす。すると、犬十郎が竹筒のようなものを運んで来て、目の前の台の上に置いた。お茶の代わりだろうか、中には薄く色のついた液体が注がれ湯気を立てている。余市も桃太郎も礼を述べたが、犬十郎は相変わらず不愛想だった。
「それがしが富三殿と弥助殿に出会ったのは、五年ほど前」
犬心は飲み物を勧めながら、そう話し始める。五年前となると、ちょうど自分たちが村に来た頃だと余市は思った。
「その頃はまだ、我らもここに移り住んだばかりで……。不慣れな土地ゆえ、追い立てた大猪を仕留めるのに桃李の樹海の外に出てしまった」
「桃李の樹海?」
「ああ、人間の言葉では禁域と言うのでしたな」
「そこで富三さんたちに出会ったと?」
「その通り。お二人は、化物に襲われそうになったところを助けられたと勘違いなされた」
「なるほど、そういうことでしたか」
「事情を説明して誤解は解けたのだが、それでも富三殿は毎年この時期になると食糧を持って訪ねてきてくれた。おそらくは、それがしの体を気遣ってのこと」
「そういえば、脚を悪くされているようですが?」
「まあ、悪いというか何というか……」
犬心はそう言って、左脚に巻いた布を解き始める。
「こ、これは?」
布の下から現れた脚を見て、桃太郎と余市は驚きの声を上げた。彼の左脚は、ふくらはぎから先がまるで石のように黒く変化していたのである。
「石妖という妖をご存じか?」
「聞いたことがあります。確か、人の姿に化けて近づき、油断した相手を食らうと」
「奴らは人に限らず、様々なものに化ける。それがしが目にした石妖はごつごつとした岩の怪物だった。そして奴らの呪いの爪は、傷つけた相手を徐々に石に変えてしまう」
「では、それが原因で?」
「さよう。以前、暮らしていた集落が石妖の群れに襲われましてな。これはその時に受けた傷」
余市は猿神の事件を思い出す。ああいった惨劇は、何も禁域の外に限った話ではないようだ。国中で一体どれほどの者がこのような脅威に晒されているのか。そう感じたのは彼だけではなかったようで、桃太郎も沈痛な面持ちで犬心の足をじっと見つめていた。余市はそんな息子の頭をひと撫ですると、話を続けた。
「ひとりで禁域の獣を仕留めるのは容易なことではありません。それほどの腕前でも、傷を負わされるとは……。石妖はそれほどまでに手強いのですか?」
「いや、通常はそこまでの相手ではない。しかし、群れを率いる黒い石妖だけは別格だった。この脚も奴にやられたもの」
「なるほど。それで脚が黒く……」
「この呪いは厄介でしてな。傷口付近はすぐ石になるが、瞬時に全身を石に変えるわけではない。石化は長い年月を掛け、じわじわと体を蝕んでいく」
犬心は竈で火の番をしている犬十郎を見ると、こう続けた。
「富三殿は、それがしがやがて歩けなくなることを心配し、毎年食糧を届けてくださった。だが犬十郎も大きくなり、もう一人で狩りをできる年頃。ゆえに、これ以上のお気遣いはご無用」
「そうでしたか。ですが、これは富三さんがあなた方のために用意したもの。どうかお受け取りください」
頭を下げて頼む余市に、桃太郎も倣う。
「承知した。では、今回だけということで」
犬心は礼を言いながら深く頭を下げる。すると突然、それまで黙っていた桃太郎が口を開いた。
「父上、この方の脚は癒しの術で治せないのですか?」
「どうかな。試してみる価値はあるかもしれない」
それを聞いた犬心は興味深そうに身を乗り出す。
「ほう、余市殿は術をお使いに?」
「はい。以前は都で陰陽師をしておりました」
「ふむ、お子さんの力もその影響か。しかし、この気は……」
その言葉に、余市と桃太郎は驚く。
「お気付きでしたか」
「それはもう、姿を見る前から全身の毛が逆立つほどに。だがこれは、それがしや余市殿が纏う気とは違う。ましてや化物や妖が放つ邪気とも異なる。おそらくは神気と呼ばれる類のもの」
「神気?」
桃太郎は食い入るように犬心を見つめた。その様子を見た余市は、彼が生みの親に強い関心を寄せていることに気付く。それは同時に、自身が何者なのか知ることでもある。犬心の話す神気というものが、答えを探す糸口になるかもしれない。桃太郎はそう期待しているのだと余市は感じた。
「うむ。神気とは神族だけが持ち得る気のこと。そなたは神の血を引いている可能性が高い」
「神族というのは、猿神のような者たちを指す言葉ですか?」
桃太郎の問い掛けに、犬心は首を横に振る。
「いや、富三殿から聞いた限りでは、人間の言う猿神は違う。我々の間では、あれは狒々と呼ばれている。なぜなら、あれは神ではないからだ」
「では、熊神も?」
「さよう。つまりは人間が神と呼ぶ生き物の多くは神族ではなく、年経た動物が変化したもの。まことの猿神や熊神は、もっと別の存在なのだ」
これには桃太郎のみならず、余市も驚きを隠せなかった。犬心はお茶をひと口すすると、話を続けた。
「それがしが出会った中で、神気を持つ人物はこれで二人目。一人目は坂田金時殿だった」
余市は雷に打たれたような衝撃を受ける。
「坂田殿をご存じなのですか?」
「それは無論のこと。大江山の鬼退治といえば、犬人族の間でも有名な話だ」
「いえ、そうではなくて――」
余市は逸る気持ちを抑えようと、目の前の竹筒の茶をごくりと飲み込む。そうしてひと息ついた彼は、こう話を切り出した。
「実は、本日こちらに参ったのは、もうひとつ別の用件があったからです」
「ほう、用件とは?」
余市はこれまでの経緯を掻い摘んで話した。夢のお告げに従い禁域に入り、桃太郎を連れ出したこと。その後、富三の家で暮らすようになり、やがて猿神の事件が起きたこと。桃太郎が抱える悩みや問題を織り交ぜながら、それらを淡々と説明していく。いつの間にか犬十郎も、こちらを向いて話に聞き入っていた。
「――なるほど、合点がいった。あなた方がここに来られたのも、その夢に出てきた女の導きに違いない」
この言い回しに、余市は犬心が何か知っていると感じた。
「何かご存じなのですね?」
余市の問いに彼は頷き、こう答える。
「大穿というのは、この近くの湖のこと。遥か昔、山の神が穿った穴に水が溜まってできたという言い伝えのある湖だ」
「では、大穿の島というのは……」
「そう、湖に浮かぶ島のこと。金時殿はそこにおられる。犬十郎に案内をさせましょう」
すると、なぜか余市はそれを引き止めた。
「お待ちください。その前に、まずは治療を」
「お気持ちは嬉しいが、癒しの術は効きませぬ」
「え?」
「ここに来て間もない頃、鳥人族の集落を訪ねたことがありましてな。癒しの術はそのとき既に」
鳥人族といえば高い霊力を持つことで知られる種族、おそらく自分の術でも結果は同じだろうと余市は思った。桃太郎も残念そうに肩を落とす。
「そうでしたか。お役に立てず申し訳ありません」
「いや、有り難いことだ。富三殿があなた方に目を掛けた理由、わかる気がする。お心遣い感謝いたす」
ほら穴を出てすぐの場所に、縄梯子が下ろされていた。犬十郎に続き、余市と桃太郎もそれを登っていく。そうして崖を登り切った先には、相変わらず霧深い森が広がっていた。
「犬十郎くんは、坂田殿に会ったことがあるのかい?」
森の小道を歩きながら、余市は犬十郎にそう話しかけた。
「まあな」
前を向いたままぶっきらぼうな返事をする犬十郎に、余市はさらに問い掛ける。
「どんな人なんだい?」
「親父より背がでかい。顔は爺さんのくせに、体つきは牛人族みてえだ」
「はは、なるほど」
余市の問い掛けは内面に関するものであったが、犬十郎の答えが富三に聞いた通りのものだったことで、彼の口元は自然と緩んだ。それにしても、まさか今日の内にこんな機会に恵まれようとは。余市は己の想定の甘さを悔やんだ。手土産も持たずに会うことになるが、さてどうしたものか。いやそれ以前に、この霧の中をどうやって島まで渡るのだろう?
そんな風にあれこれと思い悩む彼をよそに、前を行く桃太郎が犬十郎に尋ねた。
「牛人族とは、どんな方々ですか?」
「何だ、お前? そんなことも知らねえのか?」
犬十郎は呆れた様子でこう続ける。
「図体がでかくて、頭が牛みてえな連中だよ。馬鹿力だけど、動きは鈍い」
「禁域には色んな種族が暮らしているのですね」
「へっ、ひ弱な人間族はいねえけどな」
そうしている内に、木々の間から湖岸が姿を現した。霧で遠くまでは見通せないが、初めて見る湖に桃太郎の目は輝く。
「すごい……。父上、こんなにたくさんの水は初めてです」
「そうだな。だが海はもっとすごいぞ、桃太郎」
すると、近くの茂みの中から舟を引きずり出していた犬十郎が口を挟んだ。
「へえ、おじさんは海を見たことがあるのか?」
「若い頃に一度だけね。打ち寄せる波に、塩辛い水。水平線の先には何があるのだろうと心躍らせたのを覚えているよ」
「ふーん」
そんな犬十郎を手伝いながら、桃太郎が尋ねる。
「犬十郎は、海を見たことがありますか?」
呼び捨てにされたことが気に障ったのか、彼は一瞬表情を強張らせた。そしてすぐに視線を逸らし、こう言った。
「……俺は、この樹海から出たことがねえ」
「私もつい先日まで村を出たことがありませんでした。外の世界を歩いたのは、今日が初めてです」
そう話しながら舟を押す二人を、余市は少し奇妙な感覚で眺めていた。おそらく大人数人掛かりでもこうはいかないという具合に、舟はするすると地面の上を動いていく。船底が押しのける砂や石の量を見ればかなりの抵抗のはずだが、彼らに力んでいる様子は感じられなかった。
そんな余市の視線を気にも掛けず、桃太郎はさらに話を続ける。
「ところで、これは舟ですよね?」
「当たり前だ。まさか、また初めてとか言うんじゃねえだろうな?」
「小川で笹舟を流したことはあります。でも、本物は見るのも乗るのも初めてで」
犬十郎はため息をついた後、こう言った。
「まあ、安心しな。大人が三、四人乗っても沈まねえからよ」
犬十郎は二人を先に乗せると、湖面へと舟を押し出す。そうして自分も飛び乗ると、船尾で櫂を漕ぎ始めた。そんな犬十郎に、今度は余市の質問が飛ぶ。
「この霧で、島の方向がわかるのかい?」
それを聞いた桃太郎と犬十郎は、不思議そうに余市を見つめた。
「ん? 二人とも、どうした?」
「父上は感じませんか? あっちから強い気配が漂って来ます」
そう言って桃太郎は舟の舳先の方角を指し示す。
「何? ちょっと待ってくれ」
余市は目を閉じて深呼吸をすると、神経を研ぎ澄ました。前方から微かに漂う、桃太郎によく似た温かな気配。おそらくこれが犬心の言っていた神気というものだろう。そう彼は理解した。
「確かに。意識を集中すれば、私にもどうにか感じ取ることができる」
「それに向かって進めば島があるってことさ」
犬十郎はそう言うと、力強く舟を漕ぎ出した。しばらくは舟の縁から物珍しそうに湖を覗き込んでいた桃太郎だが、やがて彼の関心は再び犬十郎へと向けられた。
「犬十郎はいくつですか?」
「……そういうお前は何歳なんだよ?」
「私は五つです」
それを聞いた犬十郎は、ほっとした様子でこう答える。
「けっ、まだそんな年かよ。俺は十二だ」
桃太郎は驚いて余市を見た。村で十二歳といえば茂吉よりも年上だが、目の前の犬十郎の背格好は桃太郎とさほど変わらない。その意を察した余市は、彼にこう説明した。
「亜人の多くは人間より長生きなのだ。その分、成長もゆっくりとしている。犬十郎くんは我々でいえば七、八歳くらいだろう」
そう話した後で、余市ははたと考えた。そういえば、なぜ桃太郎は成長が人間並みなのだろう? 金時と同じなら、寿命も相当長いはず。それとも神族の場合、成長速度は亜人のように遅くはならないのか? いや、それでは人生のほとんどを老人として過ごすことになってしまう。そんな風に頭を悩ませる余市をよそに、犬十郎は桃太郎にこう釘を刺した。
「ふん、それでも俺の方が年上だからな」
桃太郎は微笑むと、今度は余市に質問を投げる。
「ところで父上、犬十郎の父君の脚を治す手段はないのでしょうか?」
「うーん、そうだな。正直、私にもよくもわからない。都で学んだ知識の中に、石化に関するものはなかったからな」
「そうですか……」
残念そうに俯く桃太郎を横目に、犬十郎がぼそっと呟く。
「ある」
「えっ?」
「方法ならある」
「どうすればいいのですか?」
「呪いの元を断てばいい」
その言葉に、余市がぽんと手を打ち鳴らす。
「そうか。つまり、呪いをかけた石妖を打ち滅ぼせばよいということだね?」
「ああ、そうだ」
「なるほど、そういうものか」
深く頷く余市に、犬十郎はこう続ける。
「方法は単純だが、成し遂げるのは容易じゃねえ。親父は村一番の拳士だった。その親父が手こずる相手だ」
「けんし? 刀を使って戦う者のことですね?」
桃太郎が尋ねると、彼は面倒くさそうに答えた。
「違う。刀なんか使うものか。俺たちの武器はこれだ」
そう言って犬十郎は顔の前に鋭い爪を突き出す。
「俺は強くなる。そしていつか、親父に呪いをかけた石妖をぶっ倒すのさ」
そう宣言した矢先、舟が大きく揺れた。余市は犬十郎が櫂から手を離したせいかと思ったが、二人の様子を見てそうではないと気付く。並んで同じ方向を凝視する桃太郎と犬十郎。余市がその視線の先を見定めようとした瞬間、水中から黒い影がしぶきを上げて飛び出した。
「なっ、何だ?」
それは再び水の中へ落ちると、水面付近で激しく暴れ出す。ぐらぐらと大きく揺れる舟の縁を、余市は必死に掴んだ。
「ただの魚だ。かなりの大物だけどな」
あっさりとそう言い切る犬十郎。すぐ隣では桃太郎が、足元の揺れをものともせず嬉しそうに叫ぶ。
「すごいですよ、父上! あんな大きな魚、見たことがない」
「う、うん。そうか」
とりあえず返事はしたものの、余市には魚を見る余裕などない。その顔が船酔いで青ざめ始めた頃、ようやく魚は勢いを失い、波も緩やかになった。水面に浮いた魚は三人が乗る舟に引けを取らないほど巨大で、その胴体は太い銛のようなもので貫かれている。
「ふう、まいった。なぜ、あの魚はあのように……?」
事態を飲み込めない余市に、犬十郎がこう説明する。
「金爺の仕業だ。下にいるぞ」
身を乗り出して水中を覗き込む三人の前に、褌姿の大きな老人が浮かび上がった。