第一話 拾われた赤子
薄暗い森の中、富三は藪に身を隠し獲物が現れるのをじっと待っていた。齢六十を過ぎたが、長年培ってきた狩りの感覚は未だ衰えを見せていない。その証拠に、彼は風上から近づく獲物の気配をひしひしと感じていた。
やがて、猟犬に追われた獲物が森の中を走る音が聞こえ始める。富三は耳を澄ますと、音を頼りに方向を探った。
次の瞬間、その澄んだ瞳が枝葉の揺れを捉えた。明らかに風による動きではない。一気に弓を引き絞り、狙いをつける。茂みから飛び出してきたのは、立派な角を生やした一頭の牡鹿。見るや否や、彼は番えていた矢を鋭く放った。
直後、富三は的中を予感した。何十年という経験がもたらす熟練の勘。だが信じられないことに、胸元に向かって飛んだはずの矢が突如として不自然な軌道を描く。それは鹿の脇腹をかすめ、後ろ脚へと突き刺さった。
驚きのあまり、富三の動きが止まる。強風が吹いたわけでも、障害物に当たったわけでもない。飛んだ矢が生き物のような挙動を見せるなど、長い猟師生活の中で初めての経験だった。そうしている間にも鹿は立ち上がり、森の奥へと逃げていく。
「富爺、獲物が逃げちまう!」
叫んだのは、背後に控えていた中年の男であった。名は弥助。年は三十半ばで、富三よりもずっと若い。
「追うぞ、弥助」
富三は慣れた手つきで指笛を鳴らす。すると茂みから一匹の猟犬が飛び出し、鹿の後を追って走り出した。怪我を負いながらも必死に逃げる獲物を追い、彼らは森の中を走り続ける。そうして半時ほどが過ぎた頃、一行はようやく獲物を仕留めることに成功した。
「よしよし。よくやったな、シロ」
猟犬を労う富三の傍らで、弥助は鹿の血抜きに取り掛かろうとしていた。
「へへ、まさか富爺が仕留め損なうとはなぁ。村一番の弓の名手も、寄る年波には勝てねえらしい」
そう悪態をつくと、弥助は不揃いな歯を見せてけらけらと笑った。屈託のない笑顔のせいか、不思議と嫌みには感じない。
富三は軽くあしらいながら、先刻の不思議な出来事を思い返していた。一体あれは何だったのだろう? ただの見間違いか、それとも何か得体のしれない力が働いたのか。だが、いくら考えたところで答えは出そうもない。彼はそれを頭から振り払うと、立ち上がって周囲を見渡した。
「いつの間にかこんな所まで来とったか」
その言葉に弥助も顔を上げる。富三が見つめる先には、不気味な霧が立ち込める森が広がっていた。
「ひぃ! くわばら、くわばら」
弥助は何かを拝むかのように、両手をこすり合わせる。手負いの鹿を追うのに夢中だった彼らは、気付かない内に山の奥深く、禁域と呼ばれる場所の近くまで来てしまっていたのだ。そこは人知の及ばぬ生き物たちが棲む領域。不用意に立ち入れば、まず無事に帰ってくることはできないといわれる場所である。
「おい、富爺。とっとと帰ろう」
弥助が不安そうに言った時、何かが富三の鼓膜を揺らした。近くに流れる川のせせらぎに混じって聞こえたそれは、何かの泣き声のようであった。
「待て、弥助。何か聞こえんか?」
「な、何だよ?」
「あれは……、赤子の声?」
それを聞いた弥助は、ぶるっと身体を震わせた。
「冗談は止してくれ。こんなところに赤子なんて――」
そう言いかけた弥助の耳にも、今度はしっかりと泣き声が届く。
「ひぃっ! 物の怪だ。物の怪に決まってる! おらたちを食おうとしてるんだ!」
弥助は目を瞑り、両手で耳を塞いだ。そんな彼をよそに、富三は考え込む。確かに弥助の言う通り、禁域には人を食らう妖や化物がいるといわれている。だが彼にはなぜか、今聞こえた声がそういう類のものには思えなかった。
「シロ、お前はここにおれ。弥助、行くぞ」
猟犬に指示を送り、声のする方へと歩き出す富三を弥助は慌てて止める。
「待て、富爺! あんた命知らずにも程がある!」
「そう心配せんでも大丈夫じゃ」
臆することなく、富三は声の方へと歩いていく。それを見た弥助は、行きたくないが置いてきぼりはもっと困るとばかりに渋々後に続いた。前を行く老人の背に隠れ、びくびくと歩く弥助。そんな彼に、富三の叱責が飛ぶ。
「しゃんとせんか! いっぱしの男が情けない」
「うぅ、そんなこと言ってもよぅ」
眉尻の下がった情けない表情に、富三の口からはため息しか出なかった。
禁域の境界に沿うように進んでいくと、すぐに穏やかな流れの川に出た。見れば、川岸を覚束ない足取りで歩く男がいる。身に纏った狩衣はあちこちが破れ、滲んだ染みはまるで乾いた血痕のよう。男の腕には汚れた身なりとは対照的な純白の布が抱きかかえられ、その隙間から赤子の小さな手が覗いていた。
「なんだ、ありゃあ? 何かに襲われたんか?」
弥助は不安そうに辺りを見回す。富三も勘を頼りに周囲を探った。
「生き物の気配は感じられんが……」
すると突然、男が力尽きたように両膝をついた。辛うじて赤子を落とさずにいるが、今にも倒れこみそうな様子である。
「む、いかん!」
富三は弥助の制止も聞かず、川辺へと飛び出した。慌てて駆け寄るが間に合わず、男は赤子を庇うように地面に倒れ込む。その拍子に赤子の手から何かが転げ落ち、斜面を下って川の中へと姿を消した。
やがて水面にぷっかりと浮かびあがったそれは、優しい色味の桃の実であった。