その懸念の真相 Ⅰ
呼吸を整える時間さえ与えて貰えない。
イヴァンは、次々に襲い掛かってくるモンスターを倒し、傷を負い、そして『逃げる』を選択する。
上へと向かう回廊も、呼吸を整えるための休憩所も一向に現れず、永遠とも思えるダンジョンを彷徨していた。
この階層は強すぎる⋯⋯20階より下なのは間違いないね。
エンカウントしたモンスターのうち、倒したのは半分ほど。体力の温存も兼ねて、逃げられるものとはすぐに距離を置いた。どこも似たようなダンジョンの構造は方向感覚を麻痺させ、自分がどこにいるのか、以前に通ったところなのか、皆目見当もつかない。
「ハァ、ハァ、ハァ⋯⋯ん? あれ?」
口元の水筒を必死に傾けるが、水の雫がわずかに唇を湿らすだけで、水分を欲している喉には何も落ちてこなかった。
マズイな、いつの間にか全部飲んじゃったのか。
焦りが体力を削っている自覚すら持てないでいる。危うい状況からの脱却は、ダンジョンが許してはくれない。
自問しているイヴァンの背後に、異様に飛び出した黄色の大きな眼球が迫っていた。気配を感じて振り返るイヴァンの目に、今一番出会いたくないモンスターが映る。
また、バジリスク! 罠とセットなの?
でも、距離はまだある。逃げられる。
イヴァンは、バジリスクから距離を置こうと地面を蹴った。
距離のマージンは確保されている。
イヴァンは逃げおおせると十字路を曲がって行く。
逃げられた⋯⋯かな?
だが、遠ざかることのない背後の気配に振り返る。その慢心を突くかのようにバジリスクはすぐ背後に迫っていった。
速過ぎる!
イヴァンは覚悟を決めると足を止め、剣を構える。
バジリスクは大きな体をくねらせながら、ありえないスピードでイヴァンを強襲した。
抗うことすらできず、イヴァンの体は木の葉のように舞い上がり、地面に体を激しく打ち付け、勢いのまま壁まで転がって行く。ギロリと黄色い眼球が、倒れているイヴァンに向けられる。意識が朦朧とする中、自身を喰らわんとする生臭い口が迫っていた。
□■□■
【クラウスファミリア(クラウスの家族)】の本拠地では、軽くない衝撃が走っていた。オッタとギヨームの報告からカロルの裏切りが明らかになり、ヴィヴィとサーラはあまりの衝撃に、事態を飲み込むまで時間が掛かっていた。
「あんたの読みが当たっちまったな」
やはり冴えない表情を見せるグリアムに、オッタが言葉を掛ける。
「当たっても、まったく嬉しくねえ。答えとしては、最悪だ」
【レプティルアンビション(爬虫類の野心)】との決闘の件。あの時、こちらの情報はカロルを通じて【ライアークルーク(賢い噓つき)】に筒抜けだったわけだ。どうもしようがねえよな、あの状況で情報漏洩を抑えることなんて出来るわけがねえ。
心の片隅にあった釈然としなかったものに答えが出ても、スッキリした心持ちにはなれない。
「で、どうするんだ?」
「どうもこうもねえ。【ノーヴァアザリア(新星のアザリア)】の問題だ。オレたちが口を出すことじゃねえさ」
グリアムはソファーに乱暴に体を投げ出し、やるせない思いを体現した。
「本当なんだよね⋯⋯カロルが⋯⋯裏切っていたって。一緒にダンジョンに潜った時も⋯⋯」
「そのようです。私もまだちょっと信じられません⋯⋯」
茫然自失ぎみのふたりは、やりきれない気持ちの落としどころに苦慮していた。
「グダグダ言ってても仕方ねえ。こっちより【ノーヴァアザリア】の方が、大変なことになってんだ。切り替えていくしかあるまい」
「ですよね⋯⋯」
「大変って、どう大変なの? クビにしたんでしょう? それで終わりじゃないの?」
「他にも密偵がいないか、メンバーの洗い直しをしなきゃならんだろう。メンバーも多いし、中心に近かった人間が密偵だったんだ、メンバー同士疑心暗鬼にならなきゃいいが⋯⋯」
グリアムがヴィヴィに答えながら、表情を曇らせる。
「アザリアさん達なら、きっと大丈夫ですよ」
「ま、そうだよな。あ! そうだ、サーラ、おまえB級に上がれ。ヴィヴィとオッタ、パオラもだ。【クラウスファミリア】をB級パーティーに格上げしてこい」
「え?! 一気にみんな上がっていいのですか?」
今まで、昇級に慎重な姿勢を見せていたグリアムの唐突の申し出に、サーラは戸惑いを隠せない。嬉しさと困惑が入り混じり、少しばかり疑惑の混じる瞳をグリアムに向けてしまう。
「自衛も兼ねてだ。C級パーティーだと、どうしても舐められる。B級ならそうそう舐められねえ。そうなれば、【ライアークルーク】も手を出しづらくなるはずだ」
「なるほど、自衛も兼ねてということですね。わかりました、すぐに手続きしてきます⋯⋯が、昇級アイテムはどうするのですか?」
「この間の大蜘蛛の糸でいけるらしい。まだアホほど余ってるだろう、少しだけ持って行けば事足りる」
「分かりました」
サーラはすぐに納得を見せる。
「そういや、パオラのやつは何やってんだ? 最近見ねえな」
「パオラさんは、自宅で薬の研究をされていますよ。もっと効果の高い薬を作りたいっておっしゃっていました。少量で効果が見込めれば、それだけ数多く携帯できますし、解毒薬の効果は見直しが必要だと。根を詰めすぎないといいのですが」
「ついでに様子を見てこい」
「ですね。では、みなさんパオラさんの家経由でギルドに向かいましょう」
サーラが立ち上がると、ヴィヴィとオッタも立ち上がった。
パオラのやつ、ラウラのことを気にしているのか。
大蜘蛛のような強力な神経毒にも対抗できる解毒薬が必須と考えてのパオラの行動だと理解する。あの時、もっと早く解毒出来れば、あそこまで危険な状況にはならなかったのは容易に想像がついた。
「あいつはもう次に向けて動いているのか⋯⋯」
だれもいない居間でグリアムはひとり、静かに言葉を零していた。
□■□■
【ノーヴァアザリア】の体育館のように広い大広間に集められたすべての関係者が一瞬静まり返った。
アザリアの口から聞かされた、カロルという密偵の存在。大広間に集められた者達は互いに顔を見合わせ、信じられないという驚愕に言葉を失い、密偵がいたという事実にざわつき始める。
理解の範疇を超えれば、勝手な想像に尾ひれがつき、噂は一人歩きを始めてしまう。
『ちょっと静かに、静かにしてー!』
怒号に近いざわめきに、アザリアは声を荒らげた。
伝声管を通したアザリアの厳しい声に、ざわつきは一旦落ち着きを見せる。
『今回は、彼女を信用した私のミスです。ごめんなさい』
頭を下げるアザリアに、一同はまた耳を傾けていく。
『密偵はもういません。もし、いたとしたら、それはその人物を見極めることができなかった私のミスです。私はここにいるみなさんを信頼します』
アザリアがきっぱりと言い切ると、ひとりの犬人の女がおずおずと手を上げる。
『どうぞ』
「もし、密偵がいたら、どうするのですか?」
少し言い辛そうに、みんな意見を代弁する。アザリアは、いつものように快活な笑みを見せ、伝声管に口を寄せた。
『だよね、それ思うよね。もしそのようなことがあったら⋯⋯【ノーヴァアザリア】は解散します。人の見極めが出来ない人間が、パーティーなんて作っちゃダメでしょう』
この言葉には、ラウラ達エースパーティーのメンバーも驚きを隠せない。大広間はまたざわつき始め、困惑と混乱を見せ始めた。
『ちょっと、ちょっと、今すぐ解散しようって話じゃないからね。もし、密偵がいたらって話だよ。私はね、いるわけがないと思っているんだ。みんなもそう思わない?』
アザリアの表情は柔らかく、余裕さえ感じさせる。その表情は集う者達に安堵を運び、落ち着きをもたらした。そんな中、一番後ろで静かに話を聞いていたアリーチェは、だれに気付かれることもなく大広間をあとにした。