その入り混じる不安と望み Ⅰ
「ケッ、逃げやがって」
「ルカス、そう焦るな。今は大蜘蛛の情報が無さすぎる」
ルカスの逸る心を諭すかのように、グリアムはゆっくりと言葉を掛けた。
「私も初めて見たよ」
ラウラも少しばかり驚いた表情を見せると、グリアムもそれに頷いて見せた。
「オレもだ。おい、サーラ、大蜘蛛について教えろ」
「は、はい。大蜘蛛は、ダンジョン内で繁殖する数少ない⋯⋯というか他にいるのか分かりませんが、希少なモンスターとなります。繁殖期以外はどこで何をしているのか不明。強力な神経毒を持ち、標的を弱らせて捕食すると言われています」
「神経毒持ちかぁ~厄介だなぁ~」
ラウラは渋い表情を浮かべながら、頭を掻いた。遭遇経験のない未知のモンスターに、軽妙な口調とは裏腹に警戒を強める。
「ですね。繁殖期になると餌を求めて、潜行者、モンスター関係なく襲うと言われています⋯⋯他にも何かあった気がするのですが、いかんせん遭遇する事はないだろうと思ってしまいうろ覚えです、すいません。また何か思い出したらお教えします」
サーラは申し訳なさそうに軽く頭を下げた。
「食い散らかしは、全部大蜘蛛の仕業と見て間違いなさそうだな」
「なぁ、グリアム。あの蜘蛛のデカさだと、狭い穴にでも逃げ込めば助かるんじゃないか?」
オッタは願望とも言える、僅かな希望を口にする。
「どうかな⋯⋯あの細長い手足が届かないほど穴が深ければ、ワンチャンあるかもな」
グリアムの言葉にラウラは、怪訝な表情を作った。
「それってさ、逆に言うと普通の休憩所だと、手足が届いちゃう?? でも、あの細い手足で人間を掻き出せるかな?」
「分からんが、モンスターも食い散らかすって事は、この階層での頂点の存在な訳だ。そんなモンスターが非力だとは思えんよな」
「そっか⋯⋯だよね」
「ただ、やつらが大蜘蛛とエンカウントしたと決まった訳じゃねえ。探そう」
グリアムが歩き出そうとすると、ヴィヴィは考え込みながら足を止めてしまう。
「ねえ、さっき私が魔法を撃とうとしたら、何で逃げたの?」
ヴィヴィが魔法を放つ素振りをしながら、首を傾げて見せた。
その言葉に、動き出そうとしたパーティーの足も止まる。
「確かに。ヴィヴィの魔法に反応したように見えたな」
ヴィヴィの手に魔法が集約し始めると、大蜘蛛はすぐに逃げ出した。
魔法が弱点? だが、この階層⋯⋯深層の頂点だぞ。厄介なやつと思ったなら、まっさきにヴィヴィを狙い撃ちにしそうなものだ。なぜそうしなかった?
グリアムの経験からは図れない大蜘蛛の行動に、表情はみるみる険しくなってしまう。
「魔力に反応したのかな? もう魔法撃てないかな? グリアム? どうしたの?」
考え込むグリアムをヴィヴィは、不思議そうに見つめる。ヴィヴィの言葉は耳に届いていないのか、グリアムはそのまま考え込んでいた。
「でもさ、ヴィヴィちゃんが構えるだけで逃げてくれるなら、考えようによっては楽な相手じゃない?」
「お! そうだね。次来たらすぐに魔法の準備をするよ」
ラウラが親指を立て、ニッコリと笑顔を作ると、ヴィヴィは手を前にかざし、また魔法を放つ素振りを見せた。
「パオラ、さっきの籠手を見せてくれ」
「はい⋯⋯オッタ様、ちょっと待ってくださいね⋯⋯どうぞ」
パオラは背負子からジョフリーの籠手を取り出し、オッタに渡す。オッタはそれをまじまじと眺め、隅から隅まで見回す。
「見てくれ。この籠手には、血はほとんど付いていない」
「それが何だよ?」
ルカスはそれが何だとばかりに、籠手を見ようともしない。
「腕を引き千切られるような事にはなっていないって事だ。この籠手を落とした段階で、腕だけではなく、大きな出血を伴う怪我は負っていない⋯⋯」
「オッタさん、それって! まだ生きてる⋯⋯」
「ギヨーム、早とちりするな。あくまでこの籠手を落とした段階だ。その後は分からん」
ギヨームの感情はオッタの言葉に揺さぶられ、その表情は乱高下を繰り返す。
「でも、ギヨームさんのお仲間は大蜘蛛とエンカウントした可能性は高いですよね。そして上手く逃げ延びた⋯⋯かも?」
サーラの語尾から自信はすり抜けてしまい、すっかり足の止まってしまったパーティーは、だれもが逡巡していた。
生きているのか?
もうすでにどこかで死んでいるのか?
ギヨームを前にして口に出す者はいない。だが、暗黙の内で思いは共有されていた。
「行くぞ」
そんな思いを断ち切ろうとグリアムが乱暴に言い放つ。パーティーはまたニコラとジョフリー、ふたりの残滓を求め動き始めた。
押し黙るパーティーは黙々と足を動かし、些細なものも見落とすなと集中を上げる。転がる残骸からふたりの残滓は得られない。それが吉報なのか、凶報なのか、だれも知るすべを持っていなかった。
もしも、大蜘蛛がふたりを喰い散らかしたなら、やつらの残骸はどこかに転がっているはずだ。
グリアムは大蜘蛛とのエンカウント以降、そんな思いが占める。諦めに似た境地にさせる圧を、あの大蜘蛛は放っていた。S級でさえ躊躇を覚えるあの圧に、経験の浅いふたりが対処できるとは到底思えない。助かる見込みなどないと思うのは、必然だった。
だが、あの時イヴァンは生きていた。
同じような絶望的な状況で、生き延びていたイヴァンの事を思い出す。あの時と同じように、ラウラまでいるというよく似た状況に僅かな希望はまだ燻っていた。
「あっ!」
パーティーの視線が、突然立ち止まったサーラに向けられる。その視線に、サーラはバツが悪そうに少し照れて見せた。
「すいません、思い出しました。大蜘蛛ですが、休憩所に巣を作って、潜行者や、モンスターを生きたまま巣に持ち帰り、糸でグルグル巻きにして、餌として保存する習性があると言われています。ただ、未確認情報の多いモンスターですので、真偽のほどは確かではありませんが⋯⋯この情報が本当であれば、もしかしたらおふたりが、巣に捕らわれている可能性、まだ生存している可能性もあるのではないかと⋯⋯」
サーラの言葉にグリアムはすぐに頭の中で地図を広げる。
あのデカさで、巣を作れる休憩所となると、それなりに広さが必要だ。てことは、単純に一番デカい所⋯⋯最奥の休憩所か!
「急ぐぞ!」
グリアムはすぐに動き出し、パーティーもそれに続く。サーラの情報は、ニコラとジョフリーの残滓が見つからない理由と符合する。希望の燻りが大きくなり、生存の望みは膨らんでいく。パーティーの足は、無意識のうちに速くなり、最奥の休憩所を最短で目指した。
休憩所の入口が見えてくると、先頭を行くグリアムは足を緩め、慎重な足取りを見せる。
「⋯⋯オッタ」
グリアムが小声で入口を顎で指した。パーティーは足を止め、オッタはひとり、気配を消しながら中の様子を探っていく。オッタが入口へ顔を近づけると、カサカサと微かに蠢く音を、その長い耳が捉えた。オッタはグリアムに軽く頷き、何かが間違いなくいる事を伝える。それが大蜘蛛の可能性が高いであろう事は、否が応にも強く感じてしまう。自然に己の武器に手はいき、パーティーの緊張は一気に高まった。
オッタがそっと中を覗く、その目に映る光景に思わず顔をしかめそうになってしまう。
大蜘蛛の胃袋へと流し込まれるのを待つだけの存在であろう大きな繭が、広間の奥に無数に並んでいた。その大きさからサーラの言う通り、人、モンスター関係なく、白い糸でグルグルと巻かれているに違いない。
「どうなってる⋯⋯?」
グリアムの声掛けに、オッタは待てと手をかざし、中を覗き続けた。
ゴソゴソと微かに動く繭が散見出来る。サーラの言った通り、生きたまま捕らえられた者がいるのだろう。ただそれが、人なのかモンスターなのか、今の状況で分かる術はない。
あの動いた中にふたりはいるのだろうか⋯⋯。
不安と希望が入り混じる光景から目を逸らし、オッタはパーティーに向き直した。