その欠片と情景 Ⅷ
ルカスの細身の剣が、人食い蜂の首を一閃。斬り落とされた首が地面に転がった。その横をオッタの槍が、蜂の頭を串刺しにすると、耳障りな羽音は消えて地面へ落ちて行く。
「どいて! 【炎槍】!」
ヴィヴィの詠唱を合図に、ルカスとオッタが左右に分かれる。その間を無数の炎の槍が、蜂の群れを消し炭にした。黒い炭と化した人食い蜂は、原型をぎりぎり止めながら、地面を埋め尽くしていった。
「大丈夫ですか?」
イヴァンは蜂の顎に腕を噛み切られた、痛々しい姿の壮年の潜行者を気遣う。その年恰好から、ニコラでもジョフリーでもないのは一目瞭然だったのだが、このパーティーに彼を救う以外の選択肢はなかった。
「触るな!」
イヴァンの差し出した手を、壮年の潜行者は手で払いのけた。頭から血を流し、よろよろとおぼつかない足取りで、15階に繋がる回廊へと向かう背中をイヴァンは寂しげな瞳で見送る事しか出来ない。
「んだよ、助けてやったのによう。礼のひとつでも言えってんだ」
ルカスは去って行く背中を睨み、苛立ちを隠さない。
「あの方、大丈夫でしょうか? 無理にでも回復を落とした方が良かったのでしょうか⋯⋯」
パオラも大きな背負子を背負い直しながら、小さくなっていく背中を見つめている。
「本人がいいって言っているんで、放っておくしかないよ。それに、ひとりやり始めたらキリがないしね」
イヴァンがそう言った矢先、足を引き摺る猫人の二人組が、【クラウスファミリア(クラウスの家族)】の横を通り抜けて行った。すれ違いざま、【クラウスファミリア】を見つめる猫人の目に力はなく、戦意はとうにこと切れている。無事に緩衝地帯へと、辿り着くのを願う事しか出来ないイヴァンの心は晴れない。だが、今は仕方がないと割り切るしかなかった。
「ここで、デカめの戦闘があったのは間違いないな。今のヤツらも【フォルスアンビシオン(強さと大志)】と同じように、【ライアークルーク(賢い噓つき)】に掻き集められたヤツらだよな?」
オッタがイヴァンの横に並び立ち、弱々しい猫人の背中を睨む。
「紋章も持っていないし、きっとそうだろうね。ただ、死体はまだ見ていないから、ニコラくんも、ジョフリーくんもきっと大丈夫だよ」
イヴァンは、前を向いたままオッタに答える。希望は、結果が出るまで持ち続けるべきだと、イヴァンは自身の経験則で学んでいた。
「そいつを願うよ」
オッタの言葉は本心だろう。イヴァンほど楽観的な思いに至れないのは、現実主義者だからだろう。とは言え、イヴァンの言葉に勇気を貰っているのも事実で、オッタの前を向く原動力となっていた。
「あそこに見えているのが、待ち合わせの休憩所です」
サーラは、先に見える洞口を指差すと、パーティーは休憩所を目指し、ゆっくり歩き始める。
□■□■
グリアムの背中から、激しい息遣いが届く。緊張と、未知の恐怖と戦うギヨームの激しい息遣いが、静かな坑道に響いていた。
心構えも準備もなく、いきなり初めての深層か⋯⋯そらぁ、ビビるよな。
グリアムはギヨームに、余計な言葉を掛ける事もなく、【クラウスファミリア】の後を追う。上層、下層に比べると、各段に進行速度は落ちていた。すれ違ったボロボロの潜行者の姿は、ギヨームを更に緊張へと誘う。
「止まれ⋯⋯」
グリアムは何かの気配を感じ、待てと手を上げ足を止めた。耳を澄まし、視線を忙しなく動かす。ギヨームも、グリアムの背中から緊張が伝わり、剣に手を掛けた。首と視線を落ち着きなく動かし続け、グリアムの感じている気配を求めようと必死になった。手の平に滲む汗と動悸は止まず、張り詰めていく空気が、ギヨームの拍動を上げていく。
「な、何かいます?」
「しっ⋯⋯」
グリアムは、人差し指を口に当て集中を上げる。
グリアムは前方を睨み、ナイフを抜いた。ギヨームもそれに倣い、震えそうな手で抜刀した。
「⋯⋯来るぞ」
グリアムの静かな物言い、そして上層、下層では見せなかったグリアムの集中に、ギヨームの緊張は更に煽られた。ギヨームの耳にも足音が届く。まだ小さいながらも、重さを感じられるその足音にギヨームは生唾を飲み込んだ。
クソ⋯⋯まだ16階だぞ。
グリアムはモンスターの姿が目に映ると、心の中で悪態をつく。近づく重い足取りといくつもの赤い瞳。その視線から、狙いは明らかにグリアム達へと向いている。ギヨームはそのモンスターの姿に、目を剥き、驚きと緊張で体を強張らせる。
グリアム達とは、相性の悪いモンスター。
そしてそれが群れを成し、襲い掛かかって来た。
「大猪の群れ?! 16階は単体じゃ⋯⋯」
「思うようにいかねえのが、ダンジョンだ。正面からまともに受けるなよ。横に回って逃げ回れ!」
「逃げ回れって⋯⋯」
「来るぞ!」
三頭の大猪が、一直線にグリアム達を狙う。ギリギリのところでグリアムはヒラリと躱し、脇腹にナイフを突き立てる。
チッ! 浅い⋯⋯。
大猪の皮が裂け、血が滲む。ギヨームは、無様な姿で地面を転がり、剣を振る余裕など皆無だった。大猪の赤い瞳が鈍い光を放ちながら、通路を転がるギヨームに向けられる。転がる餌に群がろうと、大猪達の足が一斉にギヨームへ向けられた。地面を削るほどの、重い足音と共に迫り来るいくつもの巨体は、ギヨームを恐怖へ陥れる。
「バカ! 止まるな! 動け!」
「ぅ、うわぁああああ!」
ギヨームは、地面を這いつくばりながら体を起こした。
だが、大猪の牙の方が一歩早く、ギヨームの体を宙へと舞い上げる。
宙へ舞い上げられた体は、バタバタと手足を無意味に動かし、失われた体の自由を取り戻そうと足掻いた。
大猪の薄汚れた牙は、ギヨームの体を突き刺そうと顎を引く。その牙が自分の体を貫き、腹に大きな穴が開く姿しか想像出来ない。ギヨームは足掻くのを止め、静かに目を閉じて落下に身を任せた。
「諦めんな!」
グリアムの叫びに、ギヨームは目を見開く。
「なめるなよ!」
グリアムのナイフが顎を引く大猪の赤い目に突き刺さる。
『ブボォオオオオオオオ!!』
血の涙を流す大猪が暴れ出し、狙いを定めていたはずの牙も狂ったように暴れ始めた。
「ぐはぁっ!!」
暴れる牙がギヨームの脇腹を肉ごと抉る。一命をとりとめたとはいえ、ギヨームの脇腹からは激しい出血が止まらない。
「ぐぅぅう⋯⋯」
脇腹を押さえたまま、地面にうずくまってしまうギヨームに大猪の二の矢が放たれた。暴れ狂っている大猪の横を、頭を下げた大猪が、ギヨーム目掛け地面を蹴り上げ突進する。
「止まるなって言ってんだろうが!」
クソ! クソ! クソ!
ここでこのエンカウントかよ!
苛立ちの混じるグリアムの叫びには、ギヨームへの焦りともどかしさが入り混じる。グリアムは、暴れ狂う大猪の横をすり抜け、ギヨームに迫る牙を最速で追う。グリアムは、右手に握るナイフを必死に伸ばした。
届け!
グリアムの速さをもってしても、そのナイフは届かない。よろよろと脇腹を押さえながらなんとか立ち上がるギヨーム。ショックと出血で、ギヨームの体から力は抜け落ち、抗う気力は消えている。だが、その容赦ない牙は、ギヨームの眼前へと迫るが、意識が朦朧としている状態で自身の危険など理解出来る訳がなかった。
「⋯⋯ギヨーム!」
グリアムは、地面を蹴りながらその名を叫ぶ。
しまった⋯⋯。
ミシっと、グリアムのあばら骨が軋む。
視界の隅にグリアムを狙う大猪の姿を捉えた時には、グリアムの体は壁へと吹き飛んで行く。
「くっ!」
激しく打ち付けた左肩が、一気に腫れあがるのが分かる。
ギヨームの動きにばかり気を取られ、自身に迫る危機に気が付けなかった。
ぬかった。
ギヨーム⋯⋯。
痛みが体中を駆け巡りながらも、グリアムの視線はギヨームに向く。眼前へと迫る大猪の牙に、恐怖で身動きの取れなくなっているギヨームの姿が、グリアムの表情を険しくさせた。