その欠片と憧憬 Ⅳ
【ライアークルーク(賢い嘘つき)】が、再び最深層を目指し潜行するという噂が街中でまことしやかに囁かれ始めていた。前回潜ったばかりだというのに、時間を置かずにまた潜行するという暴挙とも思える行為が、街を行き交う人間達の口を滑らかにさせ、驚愕と嘲笑が渦巻く。
その噂は、ダンジョンを良く知る人間であればあるほど、無謀だと眉間に皺を寄せる。
この短期間で良く準備をしたなと、【ライアークルーク】を称賛する声は少なく、街の声と同様に嘲笑する潜行者が大多数を占めていた。
その噂は報せとなって【クラウスファミリア(クラウスの家族)】、【ノーヴァアザリア(新星のアザリア)】の両陣営にも届いたが、さほど関心は示さない。特に【ノーヴァアザリア】が、関心を示さなかった事を耳にした【ライアークルーク】のリーダー、リオンの口元から笑みは消えていった。
□■□■
「師匠、20階への潜行いつにしましょう?」
「ああ? 好きにすれば⋯⋯いや、今、二番手が潜っているのか」
「二番手⋯⋯あ、【ライアークルーク】⋯⋯そうですね。潜っているのか、もうそろそろって感じじゃないですかねぇ」
興味の薄いサーラに、グリアムは居間のソファーに体を預け、面倒だと天井を仰ぐ。
「面倒臭い事になるのは避けてえ。【ライアークルーク】が落ち着いてからでいいんじゃねえか?」
「そうですね。みんなもそれで異論はないかと思います。リーダーやオッタさん達が上層に行っていますけど、それは大丈夫ですよね?」
「上層なら問題ないだろ」
【ライアークルーク】の動きのせいで、こっちの動きが制限されているみたいで気に入らんが、まぁ、今は仕方ねえ。危うきに近寄らずってやつだよな。
「戻った」
噂をすれば、上層の潜行から、オッタ達が戻って来た。オッタは居間でだれているグリアムを見つけると、片付けもせずにそのまま向かいのソファーへ腰を下ろした。
「どうした? 怖え顔して」
グリアムの言葉に、オッタは表情を少しばかり崩して見せるが、シリアスな雰囲気が崩れる事はなかった。
「なんと言うか、関係のない話と言えばそうなんだが⋯⋯」
「煮え切らねえな」
何だか要領を得ないオッタの物言いに、グリアムは天井を見上げたまま視線だけをオッタに向ける。
「15階でヤバめの薬が蔓延しつつある。いや、もうしているのか」
「そうかい。ヤバいって分かっているなら、手を出すなよ」
「ああ、分かってる。酒と一緒にとんでもない値段で売ってやがるんだ」
「うん? そうか」
煮え切らないオッタの物言いに、グリアムは怪訝な表情で体を起こす。
「なぁ、グリアム。一介の店が、そんなヤバいものをどうやって手に入れていると思う?」
「知るかよ。昔から興奮剤の類はあるんだ、それと何が違う? 買うヤツらも、気晴らしに使ってるだけだろう? 別に放っておけばいい。まぁ、金に目がくらむヤツらってのは、いつの時代でもいるもんだ。そいつらが組んで、ひと儲けしようって腹だろう。今に始まった話じゃねえさ」
「⋯⋯そうだな」
何とも煮え切らない返事で、オッタは片付けのために居間をあとにする。すると入れ替わるようにルカスとパオラが現れた。
「オッタのやつ、片付けもせず真っ直ぐにこっちか」
「ああ。なんか、緩衝地帯で薬が流行ってるんだってな。酔っ払っているだけなんだろ? 放っておきゃあいい」
「でも、グリアム様、酔っ払っているだけって感じではありませんでした。何だか変な感じでしたのです」
「変?」
パオラの言葉に、グリアムは体を起こし、訝し気な視線をパオラに向けると、ルカスもパオラの言葉に同意して見せた。
「確かにな。あれは酔っ払いっていうより、廃人って感じだったぜ」
「廃人ね⋯⋯」
「でもよ、オレ達がどうこう出来る話じゃねえだろう? 変に首は突っ込まねえほうがいいんだよ」
「だな。オレ達は、正義の味方でもねえし、好き好んで廃人になっているヤツらなんざぁ、放っておきゃあいい」
グリアムはそう言って、またソファーに体を預け、天井を仰ぐ。
「グリアム様、ギルドに報告はしないのですか?」
「ギルドは、緩衝地帯にノータッチだ。言ったところでどうにもならんさ」
パオラは、グリアムの言葉を聞いて少し間を置き、口を開く。
「地上で流行る事はないのでしょうか? グリアム様の話を聞く限り、お金を儲けたいのですよね? なら、緩衝地帯で流行らせるより、セラタで流行らせた方が、儲かりますよね?」
パオラの純粋な疑問に、グリアムも少し間を置いて答えた。
「あれだ⋯⋯地上だと守衛隊が動いて、お縄になる可能性があるからな」
「悪い人達はお金より、安全策を取っている。という事ですか」
パオラはグリアムの答えにスッキリした表情を見せ、ひとりで何度も頷いて見せる。だが、グリアムは少しだけ自分の言葉に引っ掛かりを感じていた。
金の亡者が守衛隊にビビッて、儲けを捨てるか⋯⋯?
ま、そういう事もあるか⋯⋯。
グリアムは無理矢理納得して、考えるのを止めてしまった。
□■□■
違う⋯⋯違う⋯⋯こんなはずじゃない⋯⋯。
「おい! てめえら! ぼさっとしてねえで、突っ込めや!」
左目に大きな傷を持つ犬人が、小柄な犬人を蹴り飛ばす。ゴロゴロと無様に転がる先に、人喰い蜂の群れが、今にも獲物を食い散らかそうと低い羽音を鳴らしていた。
小柄な犬人はすでに傷だらけで、こめかみから流れ落ちる血を拭う事すら忘れ、目の前でカチカチと顎を鳴らす巨大な毒蜂の恐怖に呑まれてしまっている。顔面から血の気は引き、隣に並んでいる男の顔も恐怖で歪んでいた。
剣を握る手が震える。
体中の震えは止まらず、カチカチと鳴り続ける奥歯を止める事さえ出来ない。
「ぅ、うわぁぁああー!」
隣の男が顔面蒼白で、人喰い蜂の群れへと飛び込んで行く。無謀な飛び込みは、人喰い蜂の腹を満たすだけだった。人喰いが一斉に男に群がると、その強靭な顎が人の頭をかみ砕いていく。頭蓋を噛み砕く破砕音と、クチュクチュと肉を食む音。地面に跪く男の頭は一瞬でなくなり、自身の血を浴びた男の体も、みるみる小さくなっていった。
どこを見ているのか分からない蜂の複眼が、小柄な犬人に向き始める。恐怖は呼吸を乱し、視界を狭める。蜂の羽音は消え、自分の呼吸音だけが、耳の奥で繰り返されるだけだった。
「⋯⋯ニコ⋯⋯! ニコラ!!」
自分の名を叫ぶ声と共に肩口を強く引かれ、ニコラはゆっくりと振り返る。大柄な男の太腕が力いっぱいニコラの腕を引き、後方へと引き寄せた。
「⋯⋯ジョフリー」
「落ち着け。前に立ってはダメだ」
ジョフリーは、周りを警戒しながらニコラの耳元で囁く。前線に立たされた者達の断末魔が、低い羽音と共に届き、ニコラはゆっくりと視線を前に向けた。
次々に巨大な蜂の餌食になる潜行者の姿が自分と重なっていく。恐怖は自我を呑み込み、冷静な判断など出来る訳がない。
「ひ、ひぃいい!」
恐怖に呑み込まれた者達が、ひとり、またひとりと前線から逃げ出してしまう。だが、後方に控えるパーティーの刃がそのひとりを切り捨てた。
「チッ! 使えねえな」
剣に付いた血を面倒くさそうに振り払い、逃げ出そうとする潜行者達を、左目の大きな傷を歪めながら睨みつけると、蛇に睨まれた蛙のように逃げ出した潜行者達の足は止まった。
退路を断たれた者達は前へ飛び込み、その命を簡単に削っていく。
断末魔が木霊する17階。
ニコラとジョフリーの視線は激しく泳ぎ、命の灯の激しい揺れを感じる。
これは地獄だ。
ニコラには、後方のパーティーが身に纏う吟遊詩人の顔が、自分達をせせら笑っているかのように見えた。