その惨劇の代償 Ⅲ
ライカンスロープの真っ赤な瞳が、パーティーをじっと見つめた。刹那、激しい衝撃が、オッタとルカスを襲う。目が合った次の瞬間、距離のマージンは消滅し、ふたりは通路を転がっていた。
速すぎる。
気が付けばライカンスロープとの距離はゼロになっている。
反射的に突き出したナイフと剣が、ふたりを引き裂こうと振り抜かれた鋭利な爪をかろうじて弾く。無様に転がるオッタとルカスに、感情の見えない赤い瞳がジロリと向き、ふたりは立ち上がりながらそれに睨み返した。
「ハァーッ!」
サーラの鉄の拳が、ライカンスロープと立ち上がるふたりの間に割って入る。だが、鉄の拳は、簡単に躱されてしまい、邪魔者が現れた苛立ちなのか、感情の見えない赤い瞳はゆっくりとサーラに向けられた。
「シッ!」
死角からグリアムの切っ先が、ライカンスロープの眉間を襲う。突然の強襲にライカンスロープは避ける事が出来ない。
「チッ⋯⋯」
浅い。
ライカンスロープは首を傾け、グリアムの刃を躱す。頬に付いた傷から血が流れ落ちると、ライカンスロープはグリアムへと跳ねた。右から左から、グリアムの首を刈ろうと鋭い爪が、襲い続ける。グリアムのナイフからは、鋭利な爪とぶつかり合う度に火花が飛び、その爪から自分の首を守るので精一杯となっていた。
オッタが背後から両手のナイフで、ライカンスロープの首を狩ろうと飛び込む。
ルカスも細く長い切っ先を、ライカンスロープの後頭部へ突き刺そうと踏み込んだ。
いける⋯⋯。
ふたりの刃が、ライカンスロープの背後へ迫る。手応えを十分に感じながら、ふたりは切っ先を向けた。
だが、ふたりの切っ先からは何の感触も感じられない。その刃は勢い良く空を切っただけだった。まるで後ろに目でもあるかのように、ライカンスロープは前方へ高々と飛んでいた。呆気に取られているふたりに、踵を返したライカンスロープが突っ込んでくる。
「こんのぉおお!」
サーラの蹴りがその勢いを止めようと、ライカンスロープを襲う。
だが、ガツ! っと、鈍い衝撃音と共に薙ぎ払われてしまった。サーラはそのまま地面を滑って行く。体中に細かい擦過傷を作りながらも、すぐに起き上がった。
「いたたた⋯⋯」
「大丈夫か?」
グリアムはライカンスロープを睨みながら、盛大に吹き飛ばされたサーラに声を掛けた。
「大丈夫です、問題ありません。そんなに大きくないのに大猪以上のパワーですよ」
人より頭ひとつほどしか出ていない、ライカンスロープをサーラは睨んだ。
「猪公より軽い分、スピードがえげつねえ。全身がバネみたいなもので、軽さをスピードの鋭さで補っている。異常に発達している足を見てみろ、体長から考えて異常にデカい。あのデカさが、太腿やふくらはぎの力を余すことなく地面に伝え、蹴り上げているんだ。だが、これが最深層の速さだ」
「さ、最深層?! 今、師匠、最深層って⋯⋯」
「おしゃべりは、ここまでだ! 来るぞ!」
ライカンスロープは自分の邪魔ばかりするサーラに赤い瞳を向ける。だらしなく開いた長い口から、涎を垂れ流し、異常に発達した犬歯が、骨まで嚙み砕こうとしていた。
ライカンスロープの大きな足が地面を蹴る。
え?! うそ!
それは、まばたきの間。
吐く息がかかるほど、サーラの眼前にライカスロープの犬歯が迫っていた。目を見開くサーラに、ライカンスロープは大きな口を開き、頭から喰らわんと襲い掛かる。サーラは無様な姿で後ろへと転がると、ガチンと大きな音を立てながらライカンスロープの口は閉じられた。
しまった! 届かねえ⋯⋯。
グリアムが、再びサーラを狙うライカンスロープへ手を伸ばす。オッタとルカスもグリアムに続くように、次々と飛び込んで行く。だが、ゴロゴロと転がるサーラに無情な爪が振り抜かれた。
「がはっ!」
サーラの背中が、斬り裂かれた。ハイミスリルの胸当てに守られ、辛うじて致命傷を逃れたが、背中からはじわじわと血が流れ落ちている。
「サーラ、ベアトリのところまで下がれ!」
グリアムは、ライカンスロープを睨みながら叫ぶ。
「クッ⋯⋯」
悔しさと痛みからサーラの顔は歪み、しばらくライカンスロープを睨んでいたが、素直の後ろへと下がっていった。
ここで一番パワーのあるサーラの一時離脱はキツイな。
イヴァンを前に上げるか⋯⋯。
オッタとルカスが、ライカンスロープの鋭利な爪と切り結んでいる姿を見つめ、グリアムも飛び込んで行く。
こいつを跳ねさせちゃダメだ。スピードに乗せるな。
グリアムのナイフが乱撃を見せる。オッタは背後から襲い掛かり、ルカスも休むことなく剣を突き続けた。辛うじてライカンスロープに細かな傷を付けるものの、それ以上に襲い続ける鋭い爪がグリアム達の肉を削いでいく。
「ハァ、ハァ、ハァ⋯⋯おっさん、あの爪の赤い色って、血か?」
「あ?」
肩で息するルカスが、鋭利な爪を睨みながら囁いた。グリアムも爪を注視する。その爪は、根もとまで赤黒く染まっており、あきらかに血で染まっているのが分かった。
「⋯⋯あ⋯⋯あぁ⋯⋯あいつだ」
「もうダメだ⋯⋯助からねえ⋯⋯」
後ろで戦況を見守っていた男とドワーフの女が、がっくりと膝を落としてしまう。サーラが体を引きずるように下がって来ると、男とドワーフの女は絶望に飲み込まれ、生きる希望を失っていた。
「どういう事ですか?」
後ろを警戒しながらイヴァンは、ふたりのあまりの変容ぶりに困惑を隠せない。
「あ、あれはダメなんだよ⋯⋯無理なんだ⋯⋯」
「あの狼に、一瞬でみんなやられちまった⋯⋯」
「ちょっと! 勝手に絶望しないでくれる。私達があんな狼一匹に負けるわけないでしょう!」
ヴィヴィが口を尖らせると、サーラにヒールを落とし終わったベアトリが笑みを見せる。
「さすが~ヴィヴィちゃん! ま、そうよね。あれ一匹に負けるほど、このパーティーは脆弱じゃないわよ」
「ですです。ベアトリさん、ありがとうございます! 行って来ます!」
傷の癒えたサーラが、また前線へと飛び出した。
「僕も行った方がいいですかね?」
後ろで控えているイヴァンは、もどかしさを募らせている。今にも前に飛び出しそうな勢いで、前線を睨んでいた。
「そこまで劣勢じゃないわよ。仲間を信じなさい。それに今、後ろから厄介なのが来たら、あなた頼みなのよ。あの坊やが、あなたをここに残した意味を考えれば、分るでしょう?」
「⋯⋯はい」
「ベアトリ、私は行っていい?」
「あの狼はヴィヴィちゃんと相性が良くないの。あの狼ってば、魔法があまり効かないのよ。だから、ヴィヴィちゃんもリーダーくんと一緒に、後ろを守ってね」
「はーい」
ヴィヴィもふてくされながらも、納得して見せた。
「すまん。下手こいた」
オッタが腕から血を垂れ流しながら、後方へ戻って来た。その尋常ではない血の量に、傷の深さは見て取れた。
「【癒光】」
ベアトリのかざした手が緑光を帯びる。オッタの受けた傷がみるみる塞がり、緑光が消えると、オッタはぐるぐると軽く腕を回し、その感触を確かめた。
「助かった」
「お安い御用よ」
「オッタ、任せてすまない。頑張って」
オッタは、イヴァンの檄に大きく頷く。
「あんた達が後ろに控えているから、思い切り行けるんだ」
オッタはそれだけ言い残し、地面を蹴って行った。
「ベアトリさん、治療師がいるというのは、戦い方が変わりますね」
「そう? リーダー君ってば、褒めてくれちゃってる」
「はい、もちろん」
「あら、嬉しい⋯⋯」
軽い言葉のやり取りとは裏腹に、戦況を見つめるベアトリの瞳は真剣そのもの。致命傷を与える事の出来ていない前線組の疲労が蓄積している。あきらかに動きのキレが落ちており、敵に傷を付けるより、自分に傷を作る場面が増えていた。
「ぐはぁっ!」
ルカスの叫びが木霊する。ライカンスロープの鋭利な爪が、ルカスの腕を斬り落とそうと振り抜かれていた。ゆらゆらと所在なく揺れているルカスの腕は、今にも千切れ落ちそうになっている。追撃の手を休めないライカンスロープに、ルカスは腕を押さえる事も出来ない。力の入らないルカスの切っ先は、簡単に薙ぎ払われ、鋭利な爪がルカスに迫る。
「こんのぉおお!」
サーラの雄叫びを合図にして、オッタとグリアムもライカンスロープへと飛び込んで行く。
「ルカスくん! 下がって! ヴィヴィ、連れて来て!」
「う、うん」
ヴィヴィは前線へと駆け出し、嫌がるルカスを後方へと引っ張った。
「クソ! クソ! クソ! まただ!」
「落ち着きなさい。ヴィヴィちゃん、この腕を押さえてくれる」
前回同様に負傷した自分の情けなさに、ルカスは憤る。
「うん、分かった」
ヴィヴィは恐る恐る、千切れかけているルカスの腕を、繋ぐように手にした。
「しっかり持っててね。【癒白光】」
大きな緑白光の球が、ルカスの腕へと落ちていく。ルカスは悔しさと、もどかしさを押し殺すかのように、その緑白の光を見つめていた。