キス魔と仮面と覗く瞳
思わず玄関に引っかかってしまいそうになりながら、靴を脱ぎ捨てて自分の部屋に急いで走る。
スマホを大事に抱えている。不思議とこのスマホには代えがたい魅力があった。今朝、さっきの瞬間まではなかった付加価値。
キスをするのには様々な理由があって、もう理由がなくてもしてしまうくらいの習慣になってしまっているけれど。
でも、顔が一番近づくのは大きな理由だ。キスする時に覗ける表情が好きだ。
あの先輩の、顔が見たいのが理由だと思う。
闇。夜闇よりも昏き光の届かない世界。ブラックホールのように吸い込まれそうな瞳。
まがい物の幽霊の目とは比肩にならないあの瞳に吸い込まれてキスしたいと思っている気がした。
十五年間で一番、特別な相手だと思っている。
偽物がいるのもそのためかもしれない。
私のキス人生において最高の相手、たった一度でいいからマウストゥマウスをしてみたい相手。
このスマホはそのための準備段階で、そこに至るための必須アイテム。
キスできない焦燥感はなく、スマホをお守りみたいに握っていると期待感が高まる。
――ブブブブブ……
「うわっ」
早速、バイブレーションと共に画面に夜行月の名前が表示されていた。メッセージではなく直接話すという緊張感を持ちながら、応答を始める。
「……神崎美空だ」
『夜行です。家には着きましたか?』
「うむ。そちらは」
『帰ってるよ~、ホシちゃんの声は聞こえてる? どうどう?』
「あ~、聞こえている」
この声が夜行月にも聞こえている以上、返事をすることにした。
ただ幽霊と会話をした経験はないため、警戒はする。昔何度かひどい目に遭って祖母に迷惑をかけたものだ。
『電話越しでも聞こえるんですね、幽霊の声』
「私も初めての経験で少し戸惑っているよ。……それで、ご用件は?」
『妹について、色々知っておきたい』
『えぇ~? それならホシちゃんが直接教えてあげるのに~』
『幽霊はどうして生まれるのか、成仏させられるのか、永遠にこのままなのか』
霊現象に触れて、疑問をいっぱいぶつけてきた月に、確かに答えられることは少ない。
というかない。
「知らん。全部わからない」
『……霊能力者、と聞いた気がするけれど』
「能力があって、見ることはできる。けど訓練も何もしていない以上、それまでだ。知識もない。ただ目を逸らしていた」
幽霊が見えることに利点など、何もない。だからずっと無視してきた。
祖母曰く、私には力があるそうだが、誰も無理強いをしなかった以上、そちらの世界からは離れた。
触らぬ神に祟りなしということだ。ホシちゃんに間違えてキスしてしまったのも霊が見えて被った損だ。
無責任な返事だと思ったけれど、夜行月はしばらく静かにしてから、呟いた。
『……あなたの考えは?』
「……月並みなことしか言えないが、ふむ……
幽霊になるのは未練があるか、反対に生者が強く思い入れがあるためこの世に縛っているという話は聞いたことがある。
だから、成仏は可能だろう。死者か生者の未練を晴らしてやればいいのだから。
逆に、未練が残っていれば一生このままかもしれない。都市伝説のような話だけれど」
『面白い話だとは思います。……星、何か未練はある?』
『そんなの急に言われても分かんないよ~』
『……ともかく、ありがとう。また学校で話そう』
「あ、はい。失礼」
電話が程なくして切れる。私の雑な意見を真摯に聞いてくれたらしい。
彼女の目的は霊を成仏させることなのだろう。
あれだけなついている血の分けた肉親だろう存在を成仏させる。そういうこともあるだろう。
……全然キスの話できなかった。せがめばよかった。
「ということで、褒美にキスが欲しい」
『わざわざかけ直す必要がある内容ですか?』
「大事なことだ」
『却下します。そもそも星の未練を聞いて叶えるだけならあなたの助けは必要ありません』
「う、そうですね……」
この人、頭いいかもしれない。私のドキワク学生生活は早くも先行きが怪しくなってきた。
また、軽い挨拶を交わして電話が切られる。音の出ないスマホはさっきよりも重く感じられた。
「ねえちょっと美海キスさせて~」
「黙れクソ野郎」
隣の部屋から聞こえてくるつれない声を黙らせるために、私は妹の部屋に入るのであった。
――――――――――――――――――――
それから、夜行月としばらくの間連絡はなかった。
「なに、恋してんの?」
「……これはこれは異なことを言う。従野にはそう見える?」
「私が言ったキャラ、別に私にまでしなくていいじゃん? なんかズレてるし」
「恋じゃないって、たぶん」
スマホを見ている私の顔がそんなに暗そうだったのか、従野はむしろ嬉しそうな顔をして尋ねてくる。
夜行月から連絡がないのは当然として、学校ですれ違っても、軽く会釈されるくらいだ。
冷たくされることに慣れっこの私もこれは応えた。
私を無視する相手はだいたい嫌悪とか恐怖とか、そういうのが透けて見える。霊能力なんてなくたって自分に向けられる感情っていうのはわかりやすいものだ。
夜行月にはそれすらない。世の中の全てがどうでもいいような態度で、彼女が私を見る目は、他の誰に対してのものと同じに見える。
連絡先を交換したのに、あの幽霊が見える唯一の存在なのに、他の人と全く同じなんてありえるだろうか。
「恋っていうより……興味かな」
「興味でキスする女は言うことが違うね。ヤバ」
「夜行先輩って笑ったことある?」
「聞いた話だと普通だって。普通の子。笑いも怒りもするふっつ~の人」
「それは……嘘だろうな」
あの先輩の笑う顔や怒る顔を想像してみた。けれどどうにも、くだらない欺瞞しか思い浮かばない。
本気で笑ったり怒ったり、そんなのがこの学校生活であるはずがないと思った。
「ってかキスしたいだけなら、強引にすればいいじゃん。幽霊がいるってわかったんならもう失敗しないでしょ」
「……本当だ! 流石従野は賢いな! どうして気付かなかったんだろう。行ってくる!」
「あ、ヤバ。私がアドバイスしたって言わないでよね。そんな犯罪の片棒を担ぐみたいな……」
従野がまだ何か言っているのを無視して、私は先輩のもとに向かう。
第一、準備や経緯を気にするだけ意味がない。
したいからする、単純明快だ。求めているのはただ一つの結果に過ぎない。
あの目を覗きたいだけだ。
「夜行先輩はいるか?」
「ん? 月~、なんか一年生来てるけど」
クラスメイトが声をかけるまでもなく、二年の教室で座っている夜行月を見つけて、私はかけよった。
「つーちゃんにキスしに来たんだね。そうはさせないよ」
「……星、幽霊のお前に何ができる」
夜行月が立ち上がるが、遅い。私は急いで近づいて、早速唇を……。
むちゅう、と触れた時に見えたのは、キラキラとした瞳だった。
「邪魔だ」
「邪魔してるんだよ~ん」
キス、キス、キス。
キラキラ。
「何してるんですか?」
「いや、この女が」
「つーちゃんは私が守るからね~!」
見えない壁に阻まれるように夜行月に近づけない。この霊体のせいで……。
「……ってか神崎美空じゃん」
「え、あの噂の!?」
「夜行を襲いにわざわざ来たのか?」
その場の雲行きが怪しくなってくる。ひとたびキスできれば満足なのに……この霊!
けど、もう夜行月と私の間に他の生徒まで集まってきた。先生を呼ぼうとする人まで出てくる始末。
「くっそこの悪霊! 祖母ちゃんに頼んで成仏させる方法聞き出してやる!」
「へへ~ん絶対消えませ~んよ~! 一昨日来やがれーっ!」
「……ちょっと待って、成仏させる方法?」
突然、夜行月が生徒をかき分けて、星さえかき分けて、私の方に近づいてきた。
「その話、聞いてない」
「え、いや私は知らないってだけで、おばあちゃんなら知ってるかなって……」
「……隠し事はなしにしてください」
有無を言わさぬ迫力に息を飲む。私より小さな体なのに、異様な緊張感で動くことができない。
「つ、つーちゃん?」
「……彼女を成仏させてくれたら、キスしてもいいですよ」
「っ! わかりました!」
思わずガッツポーズ! 邪魔な悪霊を消してキスをする約束を取り付けて結果オーライだ。
悪霊だとか、キス魔だとかで騒いでいたクラスメイトも、先輩があっという間に宥めてくれた。
「神崎さんは私の後輩で、ちょっとした知り合いなんです。騒がせてしまってごめんなさい」
彼女がいかに信頼されているかが理解できる。一言だけで場の空気が収まっていくし、私に対する疑いの目さえ晴れる。
ただ、気にかかったことはある。
表情が嘘か本当かなんてわからない。顔の形なんて演技かどうかなんて区別できないから。
でも彼女の表情の切り替え方は、あまりに早いように感じた。
従野みたいだ。
「……人たらし」
「神崎さん、何か?」
「いえ、失礼します」
入学式にしか、夜行月を見ていなかったから。
確かに普通だ。最初から警戒していないと、普通の人だと見逃していたかもしれない。
入学式でその瞳の暗さを知らなければ。幽霊と出会って夜行月と話さなければ。
彼女が同級生だったら気付けなかったかもしれない――
否。
あの目がある限り、私はきっと見逃さない。
今回の総括
神崎美空の妹は柄が悪い。
神崎美空の霊能力は中途半端。