35話
「まぁちゃん教えて。ツバサくんは、自分で忘れることを望んだの?」
「そーだとしたら、リンゴたんは、どーしますかぁ?」
質問を質問で返すのはやめて。
たまに似てるんだよね、ツバサくんとまぁちゃん。
そこまで考えて、思考が停止する。
ツバサくんの記憶がリセットされるということは、こういうやり取りも、すべてなくなるということだ。
私達が付き合っていた時の、苦い思い出だけじゃない。
図書館で出会ってからの楽しかった思い出もすべて、なくなるということだ。
ツバサくんが望んでいるかは、私にとっては問題ではない、のかもしれない。
察するのは、考えなければならないのは、そこではない、のかもしれない。
「私は嫌だ。絶対に、嫌だ」
なくしたくない、なくしてほしくない。
だって。だって私は。
「まぁちゃん、ツバサくんの記憶がリセットしないで済む方法はないの?!」
まぁちゃんに詰め寄ったその時だった。
「リンゴ、いいんだ」
その優しい声に思わず振り向く。
先ほどの幼児と同じ声なのに、全然違う。
優しい優しい、私が知っているツバサくんの声だ。
「これは、俺がしてきたことの報いだ」
「ツバサ…くん」
私は、ツバサくんに初めて自分から抱きついていた。
人目もはばからず、精一杯の力を込めた。
いなくならないで、どこにも行かないで。
声にならない想いを、精一杯腕に込めた。
涙が止まらない。どうしたらいいのかわからない。
自分で自分の気持ちに歯止めが効かなくなるのは、初めての経験だった。
「リンゴ、家に帰ろう」
優しく髪を撫でる感触に、心が揺らいだ。
この優しい感触も、なくす日が来るのだろうか。
「大丈夫、まだ、大丈夫だ」
頭をポンポンと、優しく叩くツバサくんの言葉に、ようやく私は腕の力をゆるめ、ツバサくんに向き直る。
ぐしゃぐしゃに泣いている私と目が合って、ツバサくんは眉間に皺を寄せながら、笑った。
「ようやく、目が合ったな」
私の涙を拭きながら、優しく笑うツバサくんに、また涙が止まらなくなった。
私が最後にツバサくんと目を合わせたのは、あの展望台だった。
どれだけ傷つけていたのだろう。どれだけ逃げてしまっていたのだろう。
「ごめんなさい、私」
ツバサくんは静かに首を横に振る。
「振られたのに出て行かなかった、俺も悪いんだ。どうしても、リンゴと一緒にいたかった」
「ちがう、そうじゃない。私が…」
私が出て行けと言わなかった。本当は言わなくてはいけなかった。
逃げたくせに、ツバサくんの優しさに甘えたのだ。
「最後の記憶は、リンゴと一緒がいいって、俺が思ってしまったんだ」
「最後の…」
この話は、現実なんだ。
ツバサくんの記憶はなくなるんだ。
「立って、リンゴ。見せたいものがある」
私の両手を握って、ツバサくんは私を立たせる。
いつものように手を繋いで、ゆっくりと歩き出す。
いつの間にか陽が落ちてしまった帰り道は、私達が図書館で出会ったあの日の帰り道に似ていた。




