鼓膜に残る音
ビタービターチョコレイトのつもりです。
薄暗がりは昔からの親しい友人だけれど、完全な暗闇は少し恐ろしい存在。
そうだとするのならば、真夜中の森というのは何処に位置出来るのだろうと考えてみると、一番近しいのは神様という存在なのかもしれなかった。
「やっぱり寒いな」
車体を挟んだ反対側からの声に、同意の声を返す。
「そうだね、この時期だから余計に、かもしれないけど」
下見を兼ねて来た時を含めて、この森に二人で来るのは三回目だった。過去二回は昼間に訪れていた分、温かさが幾分かあったが、この暗がりで見ると、森はさらに静謐さを増しているように感じる。お互いの身じろぎの音が耳障りに思えるほど、静かだ。
二人で心中するには、お誂え向き、最高の舞台である。
「準備、始めてもいいか?」
樹々には葉が生い茂っていて、月光は細々としか地面に届いていない。
「うん。トランクの中に全部入っているんだっけ?」
腐葉土のせいで、一歩踏みしめるたびに不安定に撓む地面は、慣れない歩き心地だった。
ふわふわふわと。地に足をつけているという実感が全く湧かない。なんとも形容しづらい、この世のものではないような感触は、これから逝こうとしている場所を感じさせてならなかった。
「契、どうしたんだ。またぼーっとしているみたいだけど」
開かれたトランクの向こう側から、呼びかける声がする。
「あ、ごめん」
慌ててそちらのほうへ向かうと、ちょうど、真琴が中から七輪を取り出しているところだった。行きがかりにホームセンターで買ってきた、練炭とセットになっているこじんまりしたサイズの七輪。トランクの中には、その他にガムテープやら薬やらが転がっている。
「俺はこっちの準備をしておくから、先にガムテープを頼んでもいいか?」
手渡された茶色いテープはひんやりと冷えていた。
「わかった、やっておくね」
平たい円柱にまとめられた、こんなもので自分たちは窒息死の可能性を高めるのかと思うと、喉元から笑いが込み上げてくる。なんだか愉快な気分だった。
車内に戻り、助手席以外のドアというドア、窓という窓を、丁寧に丁寧に四重ぐらいに目張りしていく。びびびびと、ガムテープを剥がして貼り付けていく音が妙に心地よくて、ついつい作業に鼻歌が混じった。
「ずいぶんとご機嫌だな。こっちの作業は終わったぞ」
不意にした声に首を回転させる。
開け放したままにしておいた助手席側のドア、七輪を抱えた姿が見えた。
「あれ、早いね。もう少しかかると思ってた」
「まぁな。火をつけるだけだしな」
ちょっとどけ、と真琴が低く囁く。
運転席のほうへ退くと、身を縮こませた契の横を、七輪が通っていった。ふわりと煙たい匂いが鼻先を掠める。ずいぶんと軽い死の匂いだった。
「睡眠薬って、意外と効き目が遅いんだね」
真琴はいつもより、少しだけぼおっとしているようだった。
「……そうだな。準備を始める前に飲んでおいて丁度よかった」
口では冷静なことを言っていても、もしかしたら、睡眠薬が回り始めているのかもしれない。水で飲み下したのは自分のほうが後だったから、順番通りといえばそうだが。
助手席に乗り込み、最後の目張りをしている背中を見つめる。見慣れた背中。自分のものより広くて、逞しい背中。つい、手を差し伸べそうになって、慌てて引く。
「死ぬことは不安じゃないか、契」
手探りながら心中を鋭く突かれる。震えた喉が唾を飲み込んだ。
「……そんなこと、ないよ」
返す言葉が少しだけ小さくなってしまう。
不安を全く感じていないといえば嘘なのである。いくら好きな相手と一緒にとはいえ、これから死に逝くことを怖いと考えないほど、自分はお気楽でもなかったし、単純なお花畑思考でもなかった。そうかといってそれをやめようとするほど、思慮深くもなければ、臆病者でもない。この期に及んで中間に浮かんでいるのだ。
そんなどっちつかずの自分が歯痒く、唇を噛みしめると、僅かに血の味がした。
「そうか。俺は少しだけ不安だ」
返答に詰まる。こう言ってはなんだが、とても意外だった。
今までいつだって怖がっていたのは自分のほうで、真琴はそれを宥めてくれていた。怖いと不安だという言葉を漏らしているのは一度たりとも聞いたことがない。この心中を決めた時も、計画を立てて準備を進めているときもそうだった。震える体を宥めてもらっていたのは、契のほうだ。
「だからな、契、少しだけ未来の話をしないか?」
「未来?」
どうにも、この場にそぐわない言葉だった。
自分たちは今まさに、心中しようとしているのである。その死の淵に、二人仲良く手を繋いでやってきているというのに、どうしてまた、未来の話をしようなどというのか。
「いままで、出来なかったからな。仮定の話でしかないが……ダメか?」
ガムテープに縁取られた車窓の向こう側では、木々の影が揺れている。風でも吹いているのだろう。月の光をスポットライトに葉が舞っているのが見えた。
「ううん、しよう。しようよ、未来の話」
練炭の燃える煙たい匂い。エンジン音の切れた車内。好きな人の声。
死後の世界にも未来はあるのだろうか、と契は思った。
ぼんやりと視界は滲み始めていた。
どうやら二人とも体内に睡眠薬が回り始めたらしく、強烈な眠気がくらくらと頭を巡っている。心なしか、隣から聞こえる真琴の声も、呂律が回らなくなっているようだ。
「……もしかして、限界か?」
語調が怪しくなっているのは自分もなのだろう。
ぽつぽつと視界の隅では黒点が乱舞している。酸素が足りない時に出てくる、慣れ親しんだ貧血の前兆だった。右に左に、回って横切って点滅して。
「うん、ちょっとだけ、ちょっとだけ眠いかな」
「そうか」
少しの間だけ、柔らかな沈黙が訪れる。
手足の先は弛緩しきって動かない。身体は重力を失ったかのようにふわふわと軽く、今にもどこかへ飛んで行けそうな気分だった。
「それじゃ、今日はこれでお休み」
今日というのは、文字通り今日のことなのか、それとも今回の生を凝縮させた今日という意味なのだろうか。言葉の裏を探ってしまう。
溶け始めた思考は疑問を投げかけるが、それより先に口は反射的に答えていた。
「うん」
どくりどくりと。ゆっくりとした心音が心地良い。
繋いだ相手の手のひらの体温が混ざって、どちらがどちらのものであったか、わからなくなってくる。契と真琴という個人が消えていく。
「好きだ、契」
「……私もだよ、真琴」
幸せが、割れる音がした。
漂っていた夢の中から、冷たい手で突き落とされる感覚。幸福のまどろみにいた意識が強烈なGに悲鳴を上げる。再び目覚めることはないと信じていたのに。
うっすらと瞼を開いた。
「――ぎり、契、目を覚ましたのね!」
聞きながら、懐かしい声が、涙ながらに自分の名前を呼んでいる。
眩しい光で目が焼け、ようやく焦点を結んだ先に見えたのは、涙で顔をぐちょぐちょにした母親の顔だった。心なしか頬がこけたように感じる。
「よかった、契」
ぽたぽた、と頬に生暖かい感触。母親の落とした涙が契の顔を濡らしていた。
「おか、あさん?」
戸惑う自分の声は他人のそれのようにざらつき、ひび割れている。
さっきまで聞いていたはずの、真琴の甘い声が恋しかった。
眼球を蠢かしあたりを伺ってみると、どうやらここは何処かの病院の個室であるらしかった。白とクリーム色の淡いトーンで揃えられた室内。僅かに開いたカーテンの隙間からは青空がのぞいている。雲一つない、綺麗な群青だった。
「ごめんね、ごめんね。でも、あなただけでも助かってよかった」
ガラス製の透明な花瓶には、色鮮やかなビタミンカラーの花が活けられている。きっと綺麗好きな母親が活けたばかりのものなのだろう。新鮮な花弁はベルベットのようで。
「……私だけ、でも?」
数拍、遅れて理解した脳が、残酷な現実に悲鳴を上げた。
「お母さん、真琴はどうなったの?」
聞くまでもないことだった。
母親が辛そうに目を背ける。部屋に吹き込んだ風がカーテンを揺らす。答えが欲しいとは逃避させない、明確な答えがそこに存在してしまっていた。
「あちらのご両親から、あなたに渡したいものがあるって、先ほど見えられたわ」
現実に竦んでいる契を置いて、母親は棚の奥から茶色い封筒を取り出してきた。
表には達筆な字で、高瀬契様へ、と書かれている。おそらく筆ペンか何かで書いたのだろう、古風で頑固そうな文字には、良く見覚えがあった。
「真琴、の字」
見間違いであって欲しかった。夢であって欲しかった。
自分の名前が書かれたその隣には、大きな文字で遺書と書かれている。
混乱した脳が喚いている。何が、一体どうしたら、心中した相手の遺書を受け取る羽目になるのだろう。一緒に死ぬと約束したのに。一緒に、未来を見ると約束したのに。
契だけ生き残って、目の前には真琴の遺書がある。
「契、私は少し席を外すわね。お医者様を呼んでくるから」
「わかった」
心ここにあらず、の調子で空返事を返す。
遠ざかる足音を聞きながら、私は小さな茶封筒を胸に抱きとめた。
あれから数年の月日が経とうとしている。
幸いなことに契の体には、何一つ後遺症は残らず、無事に社会復帰を果たしていた。
「……そんなことがあったんですか」
「ふふ、まあね。意外でしょう」
バーのカウンター席、隣に座った会社の後輩は目を丸くしてこちらを見ている。
実直そうな瞳は、擦れた感情を取り払った時の真琴の瞳によく似ていた。
薄れない痛みが、きつく胸を締め付ける。
他人に心中の話をするのは、事件以来初めてのことだった。話すたびに今でも心が鮮血を流すこの話題、出来たら触れたくはないのだが、今回は仕方がなかったのだ。
カクテルのグラスを傾けながら、ぼんやりと視線を彷徨わす。
どうして今日、飲みに誘われたのか。この後輩が契を好ましく思っているらしいという噂は前々から耳にしていた。この手の話に疎いわけではないのだ。実直さと素直さは同義であり、後輩を見る限り、その意図は推論が正しいことを肯定している。だから。だから、この話をすることで、先手を打たせてもらったのだ。
高瀬契は、もう二度と誰も、好きになる気はないのだと。言外に伝えるために。
淡い桃色のアルコールの水面に、黒々とした筆ペンの文字が浮かぶ。もうそらんじられるほど目に焼き付けた、真琴の遺書の言葉だった。
君は死なないで、俺を忘れて幸せになって。
なんて優しくて、傲慢な言葉なのだろうか。真琴なりに契のことを思って書いたことだとは理解できていても、その行為をなじらずにはいられない。あの時、あの頃、好きだと言ってくれた気持ちに偽りがないのだとしたら、どうして、あの世へ一緒に連れて行ってくれなかったのだろう。
契を一人だけ現実に残して、自分だけ先に逝ってしまうなんて。
「すみません、先輩」
肩を小さくしている後輩に柔らかく笑いかける。
申し訳なさそうにしているあたり、優しい性格なのは確かのようだった。これならば自分を選ばなくとも、すぐにいい人が見つかるだろう。
「いいのよ、酒の席での話でしょ。気にしないで。過去のことだし」
グラスを持ち上げ、中のカクテルを一気に呷る。少しだけ生ぬるいアルコールが喉を焼くように滑り落ちていくのが小気味よかった。
あぁ、今すぐに会いたい。
思いを馳せると、周りの景色が静かに色を失い、消えていく。
代わりに浮かび上がってくる幻想は、あの時の情景だった。いい雰囲気の店内の代わりに狭い車のシート、酒の匂いは煙たさに、そして隣に座る後輩は真琴の姿に。
「好きだよ、今でも」
炭火が爆ぜる音、君の譫言は未だに鼓膜から離れない。
名前に悩みました。