GENE1-9.兎人の姉妹はここに眠る
私はいつも気付くのが遅い。
兎人族のルルは緑の大地を歩きながら、そう思った。
ただのとりとめもない考えである。幸せなことが続くと苦い経験をふと思い出すことがある。だとしたら、今の自分はきっと幸せなのかもしれない。しかし気を抜いちゃいけないと、ルルは自分を戒めた。
イースタル中央平原。
緑の大地が広がり、無数の丘陵が続く。窪地に溜まるようにできた水場が点々と存在した。水たまりと呼ぶには大きすぎるサイズだ。
「あとちょっと! あとちょっとだから!」
「ううー!」
最近、妹はよく笑う。ルルはそれが嬉しかった。
ルルは草原にできた小さな池に訪れていた。後に妹を連れて、おそろいの母の形見のローブを着ていた。その深い緑色は、草原で捕食者から身を隠す保護色でもある。
目的はシューリアの採取だ。
この植物は水辺にしか生えていない。その根茎を乾燥させると香料の材料や薬の原料となり、高値で売れる。ルル達の貴重な収入源だった。
本来、子供が地上へ出ることは禁止されている。数年前に魔物が出現してから、そのルールはさらに厳しくなった。しかし、苦しい生活の中で孤児が生き抜くには、こうして地上で採取をするしかなかった。
今回は門番に見つかってしまった。しかし、なぜか見逃してくれた。いつもぞんざいに扱っていたので、ルルは少し意外だった。蹴られてもいないし、財布も奪われていない。
「なんでだろう?」
「うーうー」
「そうね、運が良かった。私たちにもようやくツキが回ってきたのかも!」
人生には幸せと不幸せの総量は一対一だとは聞いていたが、そうだとするとルルは自分にはこれから沢山の幸福がやってくるはずだと期待してしまう。
この村には頼れる人はいなかった。優しい人もいなかった。嫌なことばかりだ。ルル達は村から早く出て行きたかった。兎人の村はとても狭くて息苦しく、ジメジメとしたコミュニティしかない。
それは母親と何とかたどり着いた村だった。母親は例の魔物に食べられてしまい、ルル達だけが取り残された。それが辛苦にあえぐ「いつも」の始まりだった。
毛色の違いというだけで虐げられ、多くの人に冷たい視線を向けられる。ちゃんとした日常生活を続けられてきたのが奇跡だ。
「そっちお願い!」
水辺の泥を掘り始め、妹に場所を指示する。妹は指さす方向を見て、視界に目的の場所を捉えると、ルルにわかるように大きく頷いた。
そう、妹の障害が生活をさらに過酷にした。
彼女は耳が聞こえない。喋ることができない。兎人として、それは死を意味した。
この妹を投げ出したいと思ったことはある。一度だけじゃない、何度もだ。
唯一のつながりだった。愛情はもちろんある。それとは別に悪感情を抱いてしまう。どうしようもない、鬱屈とした、否定できない感情だった。
声が聞こえないのだ。いつも妹に付きっきりでないといけない。料理もおつかいも掃除も、日常のコミュニケーションでさえ満足にできない。
しかし、困難の中でも、嬉しい出来事があった。
もともと耳が聞こえないだけで、声帯を失ったわけではない。口の形をまねして、言葉の振動を覚える。妹がこっそりと練習した成果だった。その努力になかなか気付いてやれなかった。妹が成長することなんてないとずっと思っていたのだ。
口と振動数を組み合わせることで、妹は簡単な言葉を伝えられるようになった。
ルルがたった数語を『聞く』ようになって、暮らしの中での会話が大きく改善した。積極的に妹は『話す』ようになっていたのだ。
「ううー」
「はいはい!」
見ると妹が収穫した根っこを掲げている。
よく取れたねと笑顔で伝えると、妹の口角があがり、小さなえくぼができた。
妹は良く笑う。笑顔の可愛い子だった。今までルルは知らなかったのだ。彼女の笑顔が嬉しくて、ルルは何度も何度も会話をするようになった。
たったこれだけのコミュニケーションで、日常の苛立ちはなくなってしまう。
そして、唇の動きなら妹は読み取ることができる。これも初めて気が付いた。それまではむしろ、ルルが『話す』機会を奪っていたのかもしれない。
「変わったのは私かもね……」
妹は視界の変化に敏感で視野も広く、優れた観察眼を持っている。
彼女の長所なんて、知らなかった。何もできないと思っていた。
思い返せば、この薬草を見つけたのも妹だった。草原の隅で揺れていた青い花。ルルは近づくまでわからなかった。
妹のおかげで生活がかなり楽になった。貯金もたまるなんて嘘みたいだ。お金があれば、この村を離れられる。ルル達の希望が膨らんでいく。
この辛い生活ももうお終い
夢みたいな希望だった。嘘じゃないかと疑ってしまう。今でも信じられなかった。
可能な限り採取しようと、泥を掻く手に力を込めたときだった。
ズシン
一瞬、風が吹いた。遅れて、振動が伝わる。
「うー!!」
妹の叫び声。
振り返ると、化物がいた。きっと村で気をつけるように言われていた魔物だろう。この草原に何年も住み着いて、母親を喰った蟲型の魔物。
ルル達よりも何倍も大きい。自分たちの頭は魔物の顎の位置にある。悲しくも、ルル達は食べやすい獲物でしかない。
魔物は、妹に襲いかかろうと両足を挙げていた。その動きはゆっくりとしている。母だけじゃない、妹まで喰われてたまるかと、ルルは叫びそうになる。
「っ!??」
ルルは、その捕食者としての禍々しい姿を見て驚いて、それを見て走り出した自分自身にも驚いてしまう。
本当なら足がすくんでしまうはずなのに。
真っ先に逃げ出してしまいそうなのに。
これも変わった結果なのだろうか。ルルはちゃんと反応できた。
お願いだから、間に合って。
妹のフードを力いっぱい掴んで、後方へ力の限り投げ出した。そして、魔物に背を向けた状態で、その大きな口の前に飛び出してしまう。
妹と目が合った。唇が震えていた。ルルは後悔していなかった。これまで、あまり姉らしい行動をしてこなかったから。
そして、気がついた。
妹の背後にある丘に奇妙な服を着た人がいて、こっちに向かってものすごい速さで向かってくる。妹は助かるかもしれない。そう思うとルルは少し気が抜けてしまった。
大きな顎が鼻先に迫る。
死ぬ直前なのに思ったよりも冷静だった。シューリアの独特な香りのせいかもしれなかった。
視界は闇に包まれた。
******
「お姉ちゃんは不器用な人だったんです」
「リサの話ではないな」
「ええ、お姉様ではありません。以前の私の実の姉のことです」
ここはランの屋敷の裏にあるククリの森である。鬱蒼と木々が広がっていた。
「それにしてもお姉様は、まだ起きませんね。でもおかげでだいぶ顔色が良くなってきました」
「あと数日で目を覚ますじゃろうな」
ランとスーは真っ直ぐと伸びる林道を進む。リサはまだ目が覚めていなくて、屋敷の中で寝たっきりだった。
「だが、懐かしい。植えるのは燕子花じゃな。お主どうしてずっと持っておったのじゃ?」
「これはシューリアですよ? お金になれば良いかなと思って、持ってきたのです。でも、もうこれはいりませんね。ずっと持っていると、匂いがなかなか取れなくて」
「良い香りじゃよ。友人を思い出す」
ランの声は凜として森に響く。持っている風呂敷の包みには、赤くて小さな鬼灯がいくつも描かれていた。
二人が楽しそうに話をしていると、ぽっかりと開けた空間にたどり着いた。そこは木が生い茂る森の中に取り残された水辺だった。
スーは水辺に近づいて、その人間の指で地面の湿り気を確かめる。
「ここで良いか?」
「はい、問題ありません」
「よし、そろそろ始めるかのう」
ランが柏手を打つと白い光が瞬いて、木製のスコップが現れた。パシリと掴んでスーに渡すと、同じような動作で椅子を出してゆったりと腰掛ける。
「すいません、そのまま待っていて下さい」
「構わん。好きなだけやれば良い」
「ありがとうございます。お姉様が起きないうちにやりたかったのです。どうしても。どうしても、私とお姉ちゃんのお墓をつくりたくて」
水辺の泥は、足が沈むほどではない。しかし、水気を含んでしっとりと柔らかい。小さな穴を掘る動作と共にスーは、淡々と言葉を紡いでいく。
「しかし、ここ数日で良く喋るようになったのう」
「思っていたことが口に出るようになっただけですよ」
「それにだいぶ雰囲気が落ち着いた。最初は殺すだのなんだの言っておったのに……」
「そっそれは……申し訳ありませんでした」
「いや、あっちの尖っている方が好きじゃったよ?」
「やめてください!」
スコップを地面に突き刺した。どうやら目的の深さに達したようだ。
「うむ、そろそろじゃの」とランは手元の包みの結び目をほどき始めた。
「スー、頼まれたものじゃよ」
「ありがとうございます」
ランは風呂敷の包みから取り出したのは小さな日本人形だった。ウサギの耳が生えていて、白い装束を着ている。そして、それは二体あった。
「能力でつくらないのですか?」
「こういうものは手でつくる物じゃよ。この世界の理は、はっきり言って嫌いでの」
掘った穴に人形をゆっくりと入れる。スーは泥だらけの腕で目元を拭う。
そして、持っていた根茎も入れる。それはあの薬草のものだった。土を被せながら、スーはまた淡淡と喋り出した。
「私には姉がいました。不器用で、どうしようもなくて、いつも小さなことでケンカばかりして。でも、虫に食べられて死にました。しかも、私をかばって死にました。本当にどうしようもない人です」
泥を被せる毎に、スーの語気が強くなる。その穴を埋める手は重い。
「私は生き残った理由がわからないんです。私はこの世界が嫌いです。心の底から憎んでいます。笑っちゃいますよね。兎人なのに耳が聞こえないんですよ?」
「……」
「母も殺され、残ったのはお姉ちゃんだけだった。彼女が私の全てだった。彼女がいなかったら、自分から殺されていたでしょう。彼女が目の前で食べられて、私の世界も消えてなくなったんです」
「……」
「本当はお姉ちゃんが生き残るべきだった」
ランは椅子に座ったまま、スーの言葉をしっかりと聞いていた。
「刺された時だって、やっと死ねると思ったんですよ。残されたあの人が気がかりでしたけど――」
「だが、お主は死んでいない」
「――そうなんです。本当に理不尽です。どうしようもなく憎いんです。でも、だから私にどうすることができるんでしょう。私が死んでも、お姉様が死んでも、勝手に流れていくだけ。そこに悪意や善意なんてものはないんです」
スコップを持つ手に力が入る。
「でも! でも! それでも、どうしようもなく憎いんです。どうしようもないんです。私があの人達を殺したかった。今にも爆発しそうなんです。だから、こうしてお墓をつくりたかった」
埋める手が止まる。一呼吸して、ゆっくりと動き出した。
「私はあの時死んだのです」
穴は八割ほど埋まっただろうか。スーの埋めるペースがゆっくりになる。
「これで終わりです。もう――」
スーは一度深く呼吸をする。
「もう、私は生まれ変わったのです。一度死んで、姿が変って、あの方と同じ血が流れているのがわかります」
彼女の埋める手は止まらない。
「私は嬉しいんです。それは本当に嬉しいんです。まるで姉妹のような姿になりました。私は生まれ変わって、別人になってしまったのです。もう昔の私じゃないんです。寂しい気持がないわけではありません」
ランは椅子にもたれかけている。その体勢は動かない。
「だから、この話はこれで終わりです。哀しいですけど、お姉ちゃんの体はありません。この行為の半分くらいは自分のためなんですけどね」
「そういうもんじゃよ」
土を被せて、穴を完全に埋め終わる。そして、スーの視線が冷たくなる。スコップを片手に、言葉をまるで凶器のように突きだして、彼女はランを睨み付けた。
「ランさん。助けていただいてありがとうございます。本当に感謝しています。でも、あの人に何かあれば、私は絶対許しません。貴方の首を切り落とします」
「はは、恐いのう。安心しろ。妾は味方側じゃ。最初から全部あげるつもりじゃよ。どれだけ待ちわびたか」
そして、ルルとスーのお墓ができた。
埋め終わって、スーは水辺から離れる。その表情は晴れやかだった。ランは目をつぶって、ゆっくりと頷いた。そして、立ち上がり、煙のように椅子が消えた。林道に向かって、二人は歩き出す。
「さぁ、帰るぞ。あいつはまだ寝ているがのう」
「はい!」
「どうもしんみりとした空気は苦手でのう」
「私もです! お姉様が早く起きると良いです!」
肉無き彼女は待ち続けた。
第二章 世界の食べ方