GENE7-2.長閑な前日 part1
事象の深遠に位置する、隙間空間に形成された箱庭世界は神秘と脅威で溢れている。
血肉の飢えを一般的な食事で誤魔化せる住人は意外と多く、箱庭で一番人気のある場所は食堂だった。
入口の立て看板には、誰も頼まない料理長のオススメが置かれ、入口をくぐると高級材と厨房から漂う香りに鼻を奪われる。高いアーチ状の天井にランプは吊され、大中小のサイズであり、形式も刻まれた文様もバラバラであったが、温もりのある光がフロアに満ち満ちと降り注いでいた。
「また広くなった? 内装も変わった気がする」
「人も増えましたし、改築したのでしょう」
「ほんと、ここの理屈は意味不明だわ。ていうか、うちにこんなに人がいたのね」
「私も驚きです。名前の知らない人ばっかり。あの人達はどこから連れてこられたのでしょう」
「興味もないし、知りたくもないわよ」
過去最高の賑わいで料理長のビリーは息を継ぐ余裕はない。受け渡し口では、彼の手から客のトレイへ大量の食事が次々と手渡され、魑魅魍魎の波の中へ呑まれて一瞬で消化されていく。
名無しの怪物達が群がる机の海から距離をとって、食堂の隅にあるカウンターに、スーとメアが二人仲良く並んでいた。椅子が身体の大きさに見合っておらず、彼女達の革靴は床に着かずに揺れていた。五月蠅いわね、落ち着いて話もできないじゃない、とメアは悪態をつく。
「それでお姉様がですね!」
「さっき聞いたから! 飼い主のリサに一番忠誠心があるのに、アンタが一番酷いじゃない。リサは災難ね。ていうか、怒られたなら反省しなさいよ、常識よ常識。アンタ、なんで喜んでんのよ」
「そ! そんなことはないですよー! 誤解です、喜んでるわけないじゃないですか」
スーは両手を頬に当てて、口元が動かないように押さえつけた。メアは極端な愛情を冷めた目で見つめ、珈琲を一口含んでそっぽを向いた。先日の聖女の休息地の事件から、彼女の喉の渇きが収まらず、捉えがたい喪失感に悩まされていたのだ。
「――ったく。ほんと。どうしようもない。あー、なんだか疲れちゃったわ-、何か面白いことないかしら」
「あれ? 何かあったんですか、いつもよりキレがありませんね?」
「何も! 何もないわよ。それよりなにか言うことがあるでしょ?」
「大人の時は眼鏡をかけるようになったんですね。似合ってます」
メアは過酷な修行に付き合わされた報酬を手に入れたのだ。一つは師から押しつけられた丸眼鏡であった。
「ありがと、スー。あのアホな師に捨てたら呪われそうでね」
「確かに。着けてる時点で驚きです」
「メアは変わりました」とスーは手元のホットミルクを飲み干した。荒野で彷徨う人間を贄として捕獲して、出荷していた彼女とは大違いである。そして、スーとの狩るか狩られるかの捕食関係から、ここまで親密な友人関係になるとは、本人達が一番予想していなかっただろう。
「アンタは全く変わらないわね。それで用件は? 頼みたいことがあったんでしょ」
「ええ、話が早くて助かります。今、必要なものがあって。最近、メア新しい玩具を手に入れたでしょう? そこからですね……」
新しい玩具とは、師に連れ回されて得た二つ目の報酬である、大量の聖遺物のことだろう。過去の神様の代理人達の所縁のある、思い出の品とも言えるが、実質は殺戮兵器だった。
「はあ? 何に使うのよ? 誰かを木っ端微塵にでもするの? 使わなくてもスーなら素手でできるでしょ? ほら、去年の冬だっけ、リサに手を出そうとした馬鹿な傭兵いたじゃない。あんときみたいにさ」
「あれ? 全く記憶にないですね。そんなことありましたっけ? 違います。優しい私はそんなことはしません。もちろん、お姉様に言い寄る人が居れば確殺ですが。不思議なことにそんな人はいないんです。アルルがお祭りをやりたいんですって。ああ、いつもの悪巧みです」
「へぇ。いいじゃない」
投げやりな心持ちでメアは同意してしまった。
箱庭が創造されてから、内側の光景も人も大きく変化した。住人で一番変わったのがアルルであり、それを体感しているのはリサやランを始め、箱庭でも屈指の戦闘力を持つ、彼女達である。
二年前、実験獣人から管理人の分身に囚われ、リサの能力によった結果、今のアルルが誕生した。最初数ヶ月は箱庭もまだできた当初であり、アルルの能力、地獄少女も、精神も不安定だったこともあって、彼女は何度となく箱庭を崩壊させかけたのだ。
その最恐の怪物であるアルルの教育係を、実力者である彼女達が交代し担当した、悲惨な記憶はまだ新しい。
「いいじゃない! いいじゃない!! なんだか身体が怠けて来ちゃって。それも全部あの人のせい。あの馬鹿な師に連れ回されて、私本当に大変だったんだから!!」
しかし、最近は小康状態で、誰かがアルルに手を出さなければ、もう本部が崩壊するほどの危機が訪れない。それが二人の共通認識だった。
そして、何もない平凡な日常を楽しくしたい気持ちも一緒である。
リサが本部に帰ってきて数ヶ月が経過し、着々と大戦の準備をする緊張した空気が続き、息苦しさはピークに達していたのだ。
「ねぇ聞いてよ、スー」
「はいはい、その分私の話も聞いてくださいねー」
「どうせするのはリサの話でしょ、アンタもずっと話してて飽きないわねー。私は聞き飽きたわよ」
「そんな! もう今日のお姉様は、昨日と全く違って――」
彼女の偏愛の蓋を開いてしまったメアは、押しとどめることができずに、リサの話を聞かされる。自分の辛い思い出を愚痴にする機会が、また遠くなってしまった。
******
企画者であり、箱庭の主と他称される箱庭の路地を駆け抜ける。建物と建物の間を通り抜け、時たま跳躍して屋根伝いに、最短距離で移動をしていた。箱庭の特殊装置である「真っ赤な公衆電話」も駆使して、もう誰も彼女から逃げられなかった。
路地裏の隅から街頭の先までの住民とコミュニケーションを取れるのは彼女くらいで、手当たり次第に参加を呼び掛ける。
今は道端で捕まえたモアと交渉中だった。唯一無二の普通の人間であり、教育者である彼女は休日の散歩中だった。勉強をないがしろにしていたアルルは、学業を優先しろと諭されると思った。しかし、案外とすんなり参加を承諾されて気が抜けてしまう。
「アルル、頑張ってね。何か手伝うことある?」
「うん、じゃあ子供達に声掛けをできる?」
「わかった。アルル、無理しない程度にね、早めに仕事を振るのも大事」
「ありがとうー! モアさん!! なんだかいつもより優しいのは気のせい? かな? うん、私もいろいろ学んだんです。それで、これからお祖母ちゃんのところ行ってきます!」
「アルルがやりたいことがあるなら応援するわよ。あらら、それは大変」
今から会うのは、この街の最重要人物である。
彼女は住民にとって神様と言っても過言ではなく、同時に誰もが怯える脅威であった。
空間を埋めるだけの雑居ビルの一つ。箱庭の建物群のほとんどが、ハリボテ構造であるが、機能の余白を感じさせない造りだ。階段の裏、部屋と部屋の隙間と、意識の裏にあるスペースを省力化しているのに、表世界の灰色の街よりも重厚な外見である。
しかし、そこには訪問者を惑わす意思が込められている。創造主のラン特製の迷宮だった。アルルが立ち入った建物の一階の正面ドアは、隣接するビルの七階に繋がっており、そこの|昇降機〈エレベーター〉に入って、ボタンと向き合い複雑な数列を一瞬で入力する。
第一関門は無事に突破したようだった。次は第二の障壁である。子供一人いない中庭に出て、一度も使われていないブランコを横目に、ドアベルの着いた扉に仁王立ちをした。
「よっし! こっからが腕の見せ所」
この扉の向こうに、箱庭の住民が滅多に捕まえることのできない彼女がいる。アルルだけが知っている、秘密の出入り口だった。
ドアノブに接触して、体内の世界の断片を注ぎ込み、クラッキングを開始する。
目の前の扉の色相が、その量と質で彩られてゆく。アルルは十秒ほど格闘して、勢いよく開けると、日陰の中庭から爽やかな日向へ移動する。青空が広がって、澄み切った空気は切れ味の良い寒さである。
「開いた。私って天才!」
お気に入りのベレー帽をもらったのもここだった。今までの来訪客は彼女しかいないのだろう。時計塔は四時の方向に見え、箱庭の一部であるのは確実である。しかし、本部を知り尽くしたアルルでも、どこの位置するのか全く掴めない、神様を捕まえられる屋上である。
「ねぇ、いる? お祖母ちゃん」
「いつも思うのじゃがどうやってここに来ているのじゃ? 誰も来れないように設計しておるのに」
アルルの背後に浮かび上がる、緋色の着物はいつ見ても鮮烈だった。絶世の美女が時間を止められたまま生きているようで、ランの立ち姿は見た人が凍り付くほどの艶やかさである。
「どうって、特定のドアに能力で干渉して、こう。なんとなく?――かな」
「ほう? いや、感覚でできることじゃあないぞ。その力は妾達の中でも読めん。神の代理人と管理人の情報が混合された結果か。馬鹿は馬鹿でもただの馬鹿じゃない。以前の双子も確か――ならそろそろ――ああ、褒めてる。もちろんじゃ! 誇っていい!」
「ほんと!? やったね! 嬉しい!!」
誰にも見られない空間で、アルルにしか見せない、無償の愛が溢れる彼女の表情を前にすれば、泣く子も黙る、箱庭の人外な住民達は恐怖で泣き出してしまうだろう。
「ちょっと頼みたいことあって」
「ああ、いいぞ」
「えへへ。まだ内容も言ってないよ。あと聞きたいことも一つだけあるんだ。あの、エアさんのことをね。エアさんって、昔の私も知ってた人なの? どんな人だったの?」
「一つだけと言ったろう」
「ああ、ごめんなさい! もう一つだけ! お願い! ね?」
昔の肉体に入っていたのは、どんな中身なのだろう。
過去の、アルルの素材になった彼女について、アルルは全く知らなかったのだ。それも当然で、構成していた物質をランの子から引き継いでも、そこに入っていた自我を受け継いだわけではない。
「リオンは、あの子は特にエアと仲が良かった。しかし、アルルはリオンではない、気にすることでは――」
「ううん、知りたいんだ。私、記憶がなくて、もっと昔の話を聞きたくて! ああでも今は準備が先。先で――先なの!」
「そうか。そうだな。わかった。また今度話してやる。気が向いたらここに来い。いつもみたいにのう。ただ、またセキュリティーをあげとくとしよう。本来ここは誰も辿り着けない場所なのじゃぞ」
「ええっ!? そんなー」
「実力を上げてこい。これは準備しておこう。とびっきりのをつくっておく。妾も祭りは嫌いじゃない」
力を貸してほしいことを、箇条書きにしたリストをアルルから受け取って、ランは紙切れを袖にしまって満面の笑顔になる。
「ははっ! しかし、誰も死なないとよいの!」
「だからなんでみんなして!」
「毎回、フォローする身にもなってみろ。屍人を出さないだけで手一杯だ。まぁ、それでも性懲りもなく付き合う、ここの連中の頭がおかしいのも、その原因なんじゃがな。どいつもこいつも頭がイカれとる。ただ――」
「ただ?」
ランはアルルの頭に手を伸ばす。そのまま鷲掴みにされて、空に向かって投擲されると覚悟したが違ったようだ。優しく頭を撫でられて、戸惑いで顔を下に向けてしまう。全く予想をしていなかった、不意打ちを喰らって目が泳いでしまう。
「やるならやりとおせ。アルル? 強大な力を加減するのは勿体ない。制御こそすれ、出しきる、皆殺しにする心意気が大事なのじゃよ。いいか? 二度は言わんぞ?」
「あれれ。なんだか、間違ってない? 間違ってるよね?」
「いいや、全く、これっぽっちも間違ってはいない。行けるとこまで行けば、きっといつか役に立つことがある」
アルルが褒められる機会は少なかった。だからこそ、秘密の屋上へは道のりは、会う度に厳重になるのに、何度も来たいと思ってしまうのだ。
「えへへ、そうかな?」
「ああ、そうじゃよ」
「それで、エアさんの話をね」と振り替えると、神の代理人は既に消えていた。多忙なランが現われてくれる時間は短いのだ。言いたいことだけを伝えて、話をちょっとだけ聞いて、火種を可能な限り大きくして立ち去ったようだった。