GENE7-1.瓶詰の秋
外部の無秩序な世界と比較すると、シンプルな美しさだけで成立する想像の世界である。規律のある白色直方体の建物群と青空。この箱庭空間の染められた天井を支えるようにそびえ立つ、一本の時計塔。
残り僅かな時間を噛み締めるように、長針が振れ、十四時を示し鐘が鳴る。時計塔の最上階に、神様の権利を得た彼女達と、その下僕達が机を囲んで、談笑する談話室があった。いつもは誰かが誰かと友好を深めるこのスペースも、普段の雰囲気から一変している。
神妙な顔をして座り、対面するリサとラン、そしてリサの隣にはメイド姿のスーが立っていた。
テラスから吹き込んだ風は、純白のカーテンを揺らして、十人ほどが囲める大きさのテーブルまで届く。
テーブルの上にある、機械仕掛けの楽器筺の傷は生々しい。もう演奏できる力はない。蓋がだらしなく開いたまま、真っ赤な内側の、小物を入れる凹部をさらけ出していた。ただの脱け殻で、その中には誰の精神も閉じ込められていない。もう器ですらなかった。
「それで――」
目の前の木匣を指先で触り、リサはランを睨み付ける。空気は硬度はさらに増し、時計塔内にある巨大な振り子が風を切る。長い長い話が終わってランの語り継ぐ言葉が途切れてから、リサがようやく言葉を発した。
「エアさんは死んだのですね」
「ああ、あのエアはな」
「ああ、そうですか」とリサは天井を向いて、煙草の煙を吐き出した。綿雲のような白が口から立ち上がった。息の塊は濃密で、複雑な感情が混ざっていた。リサは深く吐き続けて、一頻り肺の空気を入れ換えた後、灰皿に叩きつけるように煙草を押し付けた。
「っくそ」
「なぁ、落ち着け」
「は? はあ!? 師匠はどうして落ち着いていられるんですか! だって師匠が一番。一番っ!」
「そう憤るな。慣れじゃよ、慣れ」
「師匠が怒らないから私が怒るしかないじゃないですか!! 慣れだなんて嘘!! そんな!!どうしてそんなに!!」
気持ちを殺しきれずにリサは立ち上がり、射殺すような視線を突きつける。ランは眼をそらし、淡々とした返答を繰り返す。なだめる素振りも止めて、業務内容を報告する作業員のように、心情を圧し殺す素振りすら見せないままに報告を続けた。そしてまだ話は終わっていない。リサに確認しなければならないことがあった。
「リサ。残された時間じゃが」
「そんなこと――きっとあの人達は世界を軽くしようとしているのでしょう。最後に簡単に処理できるように」
リサはどうでもいい、と言おうとして口をつぐんだ。彼等の現在や未来を省みないやり方は、リサは具体的に説明できなかったが、全くもって気に入らなかった。メリットもあるかもしれないが、喉奥から苦みが湧くような拒絶感が生じるのだ。
「師匠だって手を組みたいとは思えないでしょう?」
「お主は帰れることもできるんだぞ? それをお主が望んでいるなら、協力することだって構わない」
「勝手なこと言わないで!! 信用できるわけないのはわかってるでしょ!? 組むつもりなんてない。向こうだってそう! 私が喧嘩を売ったのは話しましたよね! 師匠だって、喧嘩を売られて、それで失って……」
「お姉様、それでお姉様が帰れるのなら――」
「スー。貴方まで!! その言葉の意味をわかってるの!? そしたら貴方達がどうなるか!! わかってるの!? 巫山戯ないでよ!!」
絶叫に近い、甲高い声が張り上がり、室内に木霊した。攻撃的な視線で見つめられ、スーの兎耳の先端は下を向いていく。冷たくも火傷するほど熱い沈黙に陥って、遂にこの空気の中では誰も口を開けなかった。
「……ごめんなさい、スー、師匠。頭を冷やしてきます」
リサの足音だけは静かで、昂ぶった感情を読み取らせいように噛み殺していたが、時計塔の時間を刻む音より鋭利である。
がちゃりと扉が閉まり、残されたのはスーとランの二人だけ。リサが普通の女の子であったことを知っている、長い付き合いの二人は目が合って、苦笑してしまった。
「優しいのう」
「優しいです。優しすぎます。私達なんて捨てて置いていけばいいのです」
スーは一つ息をついて、リサが座っていた席に腰掛けた。頬杖をついて、ランの空いたティーカップに紅茶を注ぎ、リサのティーカップに紅茶を継ぎ足して、自分のコップにしてしまう。リサの齧りかけのスコーンをおもむろに取って、ランに奪われないか警戒した後、一口で頬張った。
「ふふ、久しぶりに怒られちゃいました。最近は私が叱ることが多かったので、これはこれでご褒美です」
「お主、本当に性格悪いのう。最後まで口を開かなければ良いのに」
「そんなこと言わないで下さい。あの人は言わなきゃわかりません。言ってもわかってくるとは思いませんけどね。私はあの人が全てです。私達とは関係のない、元の平和な場所に帰れるのなら、もちろんその方が良いに決まってます。お姉様にとっては、この世界に来ない方が、巻き込まれない方が良かったのです」
スーの紡ぎ出した言葉に肯定しながら、ランも喉を潤した。思ったよりも長い話になってしまった。まだ伝えきれていない、彼女との昔話を話しても良かったのだが、終わった話よりも、これからの話をするべきなのだ。自分の過去のしがらみは、今のゲームの主役であるリサを束縛する鎖でしかなかった。
「それで、お姉様は本当に帰れるのですか?」
「十中八九な。アイツは噓はつかん。いや、つけないと言った方が正解じゃのう」
「私もお世話になりました」
「ああ、それも全てアイツのためじゃよ」
「ええ、お姉様にはこんな終わった世界から脱出してほしいんですけどね」
「ここもアイツを帰すためだけの場所なのにのう」
時の流れを切り裂くように、箱庭の喧噪が激しくなる。ランの物語で飼うことになった六頭犬は、アルルの能力にずっと呑まれていた。彼女の地獄のような、悪魔が泣き出すほどの能力の発動が終わったようで、時計塔からも能力解除時に放たれる、竜巻のような黒蝶の渦が見えて、それが談話室の窓に映る。
「それよりもお孫さんの被害者増えましたよ?」
「大丈夫じゃ――おそらくの」
黒い蝶の渦が収束し、千切れた羽がばらまかれ、力の中心に仁王立ちしているのは一人の少女、アルルである。
彼女の正面には、六頭犬が項垂れている。もう鳴き叫ぶ気力も奪われているようだった。その傍らで、能力の発動している様子を眺めていた、新人の双子は怯えているようだった。何が起きたのか、唯一把握していないアルルは目を点にして、首を傾げるばかりであった。
******
リサ達の住む、「箱庭」はいたって地味な街の裏側にある。コンクリートが敷き詰められて、格子状に通り道が交差する。人が住むという機能しか満たしていない、灰色の街
という街を、アルルは大変気に入っていた。この街の住民に言っても、きっと誰一人信じてくれないと思うが、何度歩いても新しい発見に巡り合う。
アルルは箱庭の外の世界を散歩中だった。カラッとした空気が冷却されて、季節がまた一つ進もうとしていた。
木枯らしが冷たくて、アルルは首を反射的にすくめてしまう。日差しが弱々しくて、アルルの吐く息が驚くほど白化する。祖母に仕立ててもらった、深紅のベレー帽が温かかい。栗色の外套で包まれて、腰元からチェックのスカートが可愛らしくて、お気に入りであった。
遊歩道の広葉樹から金色葉が抜け落ちて、足元を華やかに敷き詰めているので、踏みしめても踏みしめても飽きなかった。灰色の街と呼ばれるこの街は、住民が自虐的に自称しているだけで、アルルの瞳には十分彩りのある風景に写るのだ。箱庭の住民だって外については詳しくない。夏の花火の凄さを伝えても、誰も真剣に話を聞いてくれなかった。
「それで――今日はここ辺りかなあ? ナビさん気づいた?」
「反応アリ。四十度。距離二十九」
「やっぱり……どれだけ創ってるの。もう百は越えたっけ?」
「現在発見サレテイル転換点ハ百三十」
「このままナビさんが居てくれれば全部見つかるのに――」
アルルの頭の横には、ガラスのように透明な球体が浮遊していた。光学迷彩を纏い、ランのアホらしい実験で生まれた無機物生命体は、リサが帰還して以来アルルが付きっきりで話しかけることで言語機能を習得したのだった。名前はこれと言って付いていない、みんなに好き勝手呼ばれている玩具となっていた。
彼に導かれ、灰色の街でも歴史のある学校区域まで来てしまった。学生達と、殆ど風貌の変わらないアルルは、そのまま指定されたポイントを目指して、見知った顔をして校舎に侵入する。
正面玄関を右に曲がり、突き当たりの階段を上って、授業が終わったのであろう学生達とスレ違う。アルルは一瞬だけ、彼らの後ろ姿を振り替えって見てしまう。学校を羨ましいと思ったことはあった。しかし、それは昔の話である。
「あ! こんなところに?」
屋上に繋がる扉の正面の壁に注視する。世界の構成要素である世界の断片の綻びを発見した。建物の構造に余分な空間があり、推測を重ねなければ見抜けない歪みだった。
「見つけた」
この箱庭の出入り口探しは観察眼を磨く訓練なのかもしれない。アルルは壁紙を剥がすように壁面の仮初めの表面を剥がし、出現した鏡面に飛び込んだ。
表側の灰色の街の裏側に、リサ達総代会の本拠地に瞬く間に転移した、
リサが本部に帰ってきて、より賑やかさが増してきて、今までの閑静な街並みが嘘のようである。
アルルが生まれて、ここまで人口が多くなったのは初めてだろう。リサやランはどこから彼等を引き込んできたのか疑問だった。世界各地に調査として派遣されていた者、人が訪れないような未開の地で放し飼いされていた者、暇をもらって街を彷徨っていた者、多種多様な人達と人外達が収集され、箱庭中を闊歩している。どこを切り取っても、怪物と怪人のパレードの光景が広がっていた。異様で異常な異形達の見本市。
今日も誰かがどこかで騒いでるようで、白色建物群の向こう、時計塔の下に雷雲ができていた。きっと誰かが黒焦げになっているに違いない。ご主人様がどんな傷でも治せるので、みんな気兼ねなく暴走できるのである。
「ふっふー! たっだいまー!」
「なんだまたアルルか。新しい玩具で、また見つけたのかい?」
「アールじいちゃん! これで今日は四個目だよ!!」
箱庭の玄関口である、正面大鏡の両脇には、十メートルには達しないサイズの多頭犬と獣人の老騎士が向き合っていた。二人の間にアルルが着地して、まるで狩り場に彷徨い込んだ少女を思わせる光景だった。
箱庭世界の新人である、十頭犬は番犬の役割を与えられていて、それぞれの顔は気楽に空を見上げていたが、アルルが現われた途端、即座に姿勢を直した。長い尻尾は緊張感を帯びて、じっと動かない。その様子を見て、アルルは真っ先に一番近い頭に飛び付いた。彼女が両手を広げても抱えきれないほどのサイズの頭部だった。
「ちゃんと番犬らしいじゃない!? ピクルスー! お利口さんね!」
「名前があるのか?」
「そう、左からナタ、ザワ―、ココ、ヨーグ、ピクルス、チーズ、シードル、ソジュにカカオとプルケ!」
「よく言えるの。しかし、なんで食べ物の名前を付けるんだ? 食べるつもりなのか?」
「食べないよ! こんな可愛い生き物を!! 食堂にいた時に名前を付けただけ」
十の頭はそれぞれ別個の意志を持ち、それぞれ自らがどう食べられるのか想像してしまう。基本的に調理法は漬けられることになるらしい。アールと呼ばれた老騎士は彼等を哀れみの視線で見てしまう。ちなみに名前の由来のメニューは保存食一覧のものだろう。
「しかし、よくそんなに外に出るのう。中の方が気楽だろう?」
「それもそうだけど、外も楽しいよ?」
「いつも一緒の、あの双子に案内してあげたのかい?」
「今日は二人でゆっくりしたいんだって。最近ずっと一緒だったからちょっと寂しいや」
「まぁ、彼女達もずっとアルルに連れ回されてたんだ。ゆっくり休みたい日もある」
アールは、アルルの三倍の背丈である。半透明の鹿の亜人で、頭の牡鹿の角が凛々しい。透けた身体は水色で、モップの先のように太い毛並みで全身が覆われ、表情は見えない。口を動かす度に、重量感のある毛先が動く。箱庭の化け物達共通の、特注の黒で仕立てた甲冑で身を包む。それでも獣特有の、獲物を引っ捕らえてすぐ食べてしまうような存在感があった。
「アールじいちゃんも外に出てみたら? 案外楽しいかもしれないよ? 私が案内するからさ」
「行けるか、馬鹿もん。こっちにいた方が誰も殺さずに済むわい」
「私が防いであげる」
「もっと嫌だわい」
「何でよ! 私だって成長したんだから。まぁ、一番効くのはこれなんだけどね」
そう言って、アルルは漆黒の枷を撫でる。今日の門番である彼は、右腕に錠を着けている。手錠の片割れのように見えるが鎖はない。彼が望んでつけている枷であり、自らの意志で力を制限する者は箱庭では少数派であった。
「それで! ああなんでこんな大事なこと忘れてたんだろう! それで! それでね!! 私、良いことを思いついて帰ってきたの」
「それは――寿命が縮む。忘れたままの方がいいだろう」
「もうやめてよ。私だってもう子供じゃないんだから」
「しかしなあ、自分の胸に聞いてみれば、心当たりはあるだろう」
「うん、死ぬほどあるけど。でも、でもね! 今回はきっと上手くいくの。少しずつだけど制御できるようになってる。成長はしてる、もう子供じゃないの! 被害だって――そりゃ規模のわりには小さくね? 抑えられてる――気がしないでもない」
「そこは自分でも自信がないみたいだのう」
「でも、私だって反省は――」
巨木のような彼と話していると、アルルの視界の隅に、ひょこりと揺れる兎耳が引っ掛かった。何か考え事をしているようで、まだアルルの存在に気づいていない。中央区画をただ通っていたスーを、アルルは見逃さなかった。この場所では最初に挑戦した方が許される。
動き出しは熟練の兵士にも劣らない。
アルルは直立の体勢から、瞬時に通りかかったメイド服の兎に、無音で飛びかかり、顔をこちらに向けようとしている。その首根っこを刈り取ろうと手を伸ばす。
「こんにち――」
「っ!?」
「わ! って、あれ?」
しかし、反射神経が研ぎ澄まされた彼女には紙一重で届かなかった。
首を刈り取ろうとしたが足を掬われて、宙に浮かんだ体に踵が叩き込まれ、アルルは苦痛で呻き声を漏らす。
「ぐえ? 届かなかったー、あー悔しい」
「なんだ。アルルですか、気配を殺すのが上手くなりましたね。当たり前です。直撃したら引っ掻き傷ではスミマセンから。まず、速度ですね。攻撃の切れ味も足りません。ちゃんとステップ一つ一つ考えてますか? 力も足りませんが、思考速度はもっと足りない。研ぎ澄ましなさいと言ってるでしょう。第一なんですか? 相手の反応をまず予想するのが――」
「ほんとですか? えへへ。頑張ったんです。でも、授業は今はちょっと、ちょっと待って下さい!」
挨拶のふりをした奇襲。いや、奇襲のふりをした挨拶である。ちなみにアルルは毎回蹴り飛ばされてしまうのだ。先手を取れることは滅多にない。大抵、先手を取られて奇襲され、小一時間説教されるオチである。奇襲しなければ、叩きのめされて説教なので、今日はまだ被害が少ない方だった。
「先輩、私いいことを思い付いたんです」
「あー、また悪巧みですか? 聞きたくないけど聞きましょう。重傷者は少なめでお願いします」
「どうして怪我人が出る前提なんですか! もうみんなして! いいから聞いてください」
ランの蝴蝶の夢の能力で生成された、この美しい箱庭を誰よりも愛しているのはアルルである。それは周囲の誰もが認めていた。それまでの籠での被験者生活をしていた女の子は死んで、記憶を失って、生まれ育ったこの小さな世界を家であると、共に暮してきた者を家族であると、アルルは信じて疑わなかった。そして、箱庭の住民もそれを理解して暮している。
「――いいじゃないですか!」
「嘘? 先輩に咎められなかった初めてかもしれない」
「そんな事はありません。私は褒めて伸ばします。採用しましょう。私も協力しますから」
「やった!! 助かります」
去って行くスーを見て、アルルは飼い犬を見る。彼は見つめられて、複数の頭が挙動不審に揺らめいた。アールはそれをみて、彼女に可愛がられている彼等に同情してしまう。
「私も褒めて伸ばす方だよ? ね? あの人は怖い人だから! ね? ね? ね?」
「アルル。死んだ目で見つめても、犬が怖がるだけだ」
全く信じていない。十の頭は別々の意思を持つのに、皆全くもって信じていなかった。ともかくもアルルの笑顔で誰も傷つかないことを祈るばかりであると、一人の老騎士は思うばかりである。青空が投影された天井は、いつもと同じように普遍的な美しさであった。