GENE6-10.Creature Creature
神々しい光の波動に近づくほど、耳鳴りが増し、視界が撹乱され、明暗が反転する。
それでも廊下を突き進み、薄いベールを突き抜けた感触があった。その後である。天地が入れ替わったような酩酊感と、肌が剥がされて裏返しに貼り付け直された激痛を、一瞬の間に味わってからずっと、今の客室の迷宮から抜け出せずにいる。
聖女の休息地の司令部でもある監視塔。
一階から三階は、階層を貫いた、天井が高い賭博場のフロアになっている。地上三百メートルの最上階が司令部、二つのフロアの中間は客室部分となっている。
現在、リル達三人は中間層を彷徨っていた。固く閉ざされたドアは漆黒で、天井の照明に温かみは感じない。等間隔で並び、変わらない光景にうんざりする。一向に脱出することはできなかった。
先程まで歩いていた通路と今歩いている通路は、見た目は同じである。しかし、その本質はおぞましいもので、一枚の壁紙の裏は、みっちりと押し固められた血と臓物に相違ない。リルは滲んだ波長が帯びているのが見え、嫌でもその本質がわかってしまう。
周囲の力場が重く、目が熱と鈍い痛みを帯びる。眼窩の奥で、銅鑼が打ち鳴らされているような、激しい頭痛は消えなかった。さらに猛吹雪の中で耳が千切れそうになる痛みに近い。
鳴り止まない頭痛と喉を掻きむしりたくなる吐き気に襲われて、リルの苛立ちと憂鬱が収まることはなかった。
「あー、クソ。本当にクソ」
罠だと気づくべきだった。一階の賭博場で脅威を感じ、身体が反射的に動いてしまった。居ても立っても居られなかったのだ。強烈な力の発信源へ、真っ先に飛び込んでしまった。
その存在を消さなければ、世界が終わってしまう。
行かなければ、この世界が終わってしまうような、恐怖があったのだ。
あの帝国の一夜に味わったものと、同一の心騒ぎである。
「そう怒るな」
「はあ?」
力の波長に鈍感で、力場の影響を全く受けないアイゼンに、腹が立つ。
でも、それ以上に飛び込んでしまった自分に腹が立つ。
頑丈なアタッシュケースで、何度もアイゼンを殴り付ける。リルは自らの気持ちを、理不尽にぶつけていた。
外部との通信は途切れ、コピーアンドペーストしたように、ホテルの廊下が続き、赤いカーペットに気品は残っている。ただ何度も交差し、曲がりくねると嫌悪感が勝ってしまう。
時たま階段が見つかり、リルの判断を元に、三人は上り下りを繰り返していた。
彼女は巨大な輪を巡っている気がしていた。出口に見えない状態で、さらに怒りが増していく。吐き気と頭痛と耳鳴りと視覚異常に加えて、関節まで痛くなってきた。ここまでくると判断が鈍る。能力を磨いたことことが完全に裏目に出てしまった。感度の調整にしばらく時間がかかるだろう。
「あー! 怒ってない! 怒ってない!」
「そう騒ぐな」
「あー!! あー!!」
そして、またアイゼンを殴りつける。
テッサは絶対怒っていると思ったが、口には出さなかった。懸命である。
手当たり次第にリルはアイゼンに嚙み付いていた。テッサには少しだけ、彼に甘えているように、見えていた。仲むつまじい二人の会話を無言で、微笑ましく眺めている。
何度も何度も攻撃を受けるアイゼンは、痛覚が鈍っているか、虐げられるのが好きかのどちらかだろうとも、テッサは思った。
「うわ、ほんとに気持ち悪い。最悪です。ドン引きです。あのイカレ野郎。本当に良い趣味してる。私達まで実験台にしようってわけ? 何様? 死ねばいい」
「落ち着け」
「落ち着いてます!! 先輩は気持ち悪くないんですか? よく立ってられますね!! 何でそんなにへいきなの!? 頭痛いよ!」
「そうか」
「そうか――じゃないでしょ!? どうにかしてよ! この馬鹿!!」
リルは歩きながらもアイゼンに寄りかかる。テッサは思わず喜びの悲鳴を、小さくあげてしまう。
しかし、その直後にリルは鳩尾にボディブローを突き刺した。
以前、深酒したときよりもタチが悪い。まるで暴れ牛である。気性の荒さが普段より磨きが掛っていた。誰彼構わず首を絞めたくなることは誰にだってあると、テッサは無理やり納得する。
ただ甘えたいのか、暴れたいのか不明確な彼女から、また一歩テッサは遠ざかる。少しばかり彼が理不尽に見えるが、やはり余計なことは言わない方がいい。
「……あの男、ぶっ殺す。テッサも大丈夫? 貴方も少し苦しいでしょう? 無理しなくていいんだよ?」
「いっ、いえ! 私は全然! 全然大丈夫です! そりゃちょっとは辛いですけど、リルさんほどじゃ」
「本当?」
「はい。それにしてもこの建物なんなんですか? 普通の建物って訳じゃないですよね?」
テッサは慌てて話を逸らした。痛み以外のことに意識を向けようと必死である。
「そうね……まともじゃないね。全部。壁も天井も、さっきまで歩いていた場所とは全く別。すり替わったみたいにね。しかも、私の能力じゃあ生き物みたいに光を発してる。本当に気色悪い。まるで巨人のお腹の中にいるみたい。あの男、ここを一つの生き物って言ってましたよね、先輩」
「そんなこと言ってたのか」
頭を抱えたまま、リルはさらに一撃を加えた。
「言ってたんです! あの野郎、私達のこと、実験用モルモットだと思ってますよ、絶対」
「発現者って、不思議な人多いですもんね」
「テッサも気をつけてよ。時たま絶対に近づいてはいけない人っているじゃない? アレってそういうタイプ」
特殊な願望が発現した者を、発現者と呼んでいる。先天的な権利があり、後天的な願いで能力が発現する。歪んだ思考が理由で力が発現した。おかしな性格で願いが叶った。そういったもの達も少なからず居るのは、事実だった。
「ま、先輩もそうなんだけどね。血が濃いと良いことばっかじゃなのは、私も知ってる」
「リル、次はどっちに曲がる?」
「右! でも、どっちに曲がっても変わらない気がしてきましたよ。というか、先輩話を聞く気ないでしょう」
何十回目かわからない十字路を、右に曲がる。先頭を歩くアイゼンは今すぐにでも闘いたくて、勇み足になっていた。長年の付き合いで、リルは見抜いてしまう。
「何がまともなのかは知らん。重要なのはいつ闘えるのかだ。お前だってここに飛び込んだのは、何か理由があったんだろう。昔からそうだ。頑固な奴だ」
「そうなんですか?」
「ああ、だって軍学校に入ったのも――」
「昔話はする気はない! テッサも話を広げない! ほら! 見てください。窓ですよ! こっちです!」
頭を抱え、リルは足元を見ていた。彼女の言葉に顔をあげる。テッサは軽やかな歩調で窓に駆け寄っていた。揚々と下を覗き込む。リルも遅れて窓にたどり着いた。
「あー……何かいるとは思ってましたけど」
「……これはちょっとですね」
「楽しそうだな」
「先輩は黙ってください」
現在は五階にいた、それがわかっただけでも収穫である。このホテル兼カジノ兼司令部である、建造物の東側にいるのだと、初めてわかった。
しかし、それ以上に特記すべき異常が見受けられた。
うっすらと雪が積もり、その上を一メートル程の、二メートルから四メートル程の、それ以上の大きさの人型の「ナニカ」が、それぞれ均等な割合で闊歩していた。
騒がしい怪物と、おぞましい化物のパレードである。皆、活気があるが、決して華やかとは言えない彩りである。雪の白と、人工物のくすんだ蛍光色の中で、腐った血肉の彼らが踊る。
「モルモット達……?」
「あれって魔物じゃないんですか?」
「ううん、一部分はそうだけど。メインは人だよ。能力のない、一般人」
最初は人に見えた。しかし、よくよく見ると人の形をしていただけだった。テッサは興味深く彼等の細部を観察していく。流石に食べれそうには思えなかった。
「魔物と人の合成獣。身体はそうだけど、頭をすげ替えたんでしょう。光を見ればわかるよ」
離れて近づいて、積み重なって山になって、崩れてしまう。その繰返し。死後の意志で動かされるのだろう。皆、この建物の正面口の方向へ向かっている。
「気持ち悪い」とリルは一瞥する。
蠢く彼等の材料となったのは、昆虫型の魔物の割合が多かった。次に獣、は虫類やその他が少ないのは素材の不足か、実験者の趣味のどちらか。
馬の四足に、人の上半身、昆虫の羽と鎌が生えて、身体が隆々と成長させられていた。ほ乳類と節足動物のコラボレーション。楽しい楽しい実験の残り滓。実験者の人間愛が詰め込まれた、血と肉と汚物が詰められた皮の袋のなれの果て。外見で共通点を見つけるのは難しい。しかし、一つだけ共通点があった。
誰も彼もがうわごとのように口をパクパクと動かしていた。窓は開かず、リル達は彼等が何を呟いているのか聞き取れない。
「ほら。絶対道徳的な人じゃないですよ」
リルは彼等の形態を観察し、博士が想像したとおりの人間だったと頷いた。「やっぱり、そうだったでしょう?」とアイゼンに同意を求めて振り返るが、彼は異形の怪物達が進む方向を注視していた。リルも慌てて、その方角の力の流れを読み取ろうとする。
さっきまでは何も感じていなかった。
しかし、気付かなかったことに寒気を感じてしまう程の、強烈な存在感に身が震えてしまう。
まるで誰かが分厚い箱を取り払い、眩しく光る電球が突如現われたように、リルの視界に強烈な魔力の波長が映り込む。
その光の色を知っていた。アイゼンよりも強くなろうと誓った、きっかけでもあった。アイゼンが戦うことに意義を見出すように、リルにも譲れないものがある。だからこその行動である。
「先輩っ!」
「――なっ!」
「行かせません!」
リルと同じように震えている彼の右手を掴む。
彼が震える理由を知っている。リルとは全く別の理由である。闘いたくて、動き出したい自分を抑えつけられないのだろう。恐怖で震えているリルは、それを許さない。
「――今回は私の方が先です」
彼女が強くなった理由だった。
発見してからの行動は早かった。走り出そうとするアイゼンの右腕を引っ張り、彼より先へ前へ出る。目が眩むほどの強烈な光源に向かって、リルは階段を下へ下へと駆け下りる。
まるで誰かが誘導するように、果てしなく続くと思われた廊下が途切れ、目標までのルートが開けていく。賭博場のフロアにつながる回廊へ出て、さらに加速して駆け抜けた。最下層の彼女の元へは、数十秒もかからなかった。
賭博場の正面玄関ホールの空間に出て、一階の彼女に向かって、飛び降りる。
その軌道は矢のように真っ直ぐで、右手に持ったアタッシュケースを振りかぶる。
「やっぱりだ!! 魔女! 魔女め!」
その瞳は忘れない。全てのピースがつながって、目の前の怪物に視線を集中する。拭い去れなかった苦痛が、嘘のように消え去った。
外見が若返っているが、一目で彼女であるとわかる。美少女の皮を被った怪物だ。きっと千年は生きている。洋服のように着た、人の外見も、きっとどこかで人間を狩ったに違いない。
「全部、全部お前のせいなのか!?」
帝国の一夜は忘れたことがない。
魔女は笑って、「ああ?」と眉を上げた。
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寒空の下、メアは殺意の眼差しでランを見つめる。トラップの嵐を抜けて、命からがら目標の足下に到着した。メアは自分が生きている事実を誉め称えたい。
ランとメアは粉雪の舞い散る庭園での、優雅なティータイムを過ごしていた。頭上のパラソルにはうっすらと雪が積もる。多関節の腕やら、黒光りする甲殻やら、スイカサイズの目玉が足元まで飛んできて、周りに転がっていた。
街を監視するタワーの根本、入り口前のスペースは、異形の者たちで溢れかえっていた。
選手交代してレイが、火炎に飛び込む夜迷蛾のように押し寄せる彼等を、喜んで食い散らかし、駆け回る。残った二人は、その様子を観戦していた。
「そこ! 反応遅い!」
「いけ! かいくぐれ! 刺せ!! あーもう、やられちゃった。ほんとレイの奴、もっと苦戦しなさいよ。意外とやるわね」
当然のように彼女達はレイを応援していない。特にメアは自分が酷い目にあった分、彼にも同等かそれ以上の困難にあって欲しいと思っている。しかし、なかなか上手くいかないようだった。
正面玄関前のスペースに骸の小山ができていた。
千切れた手足や、裂かれた半身が積み上がり、複数の小山ができていた。全てレイが倒した異形のもの達である。
「……コロス。……コロシテヤル。シト、ドコ。コロス」
お茶会のBGMは怨嗟の声である。幻想的な風景とは言い難い。人の形をしていなくても血は赤い。彼らは話はするが通じない。たった一つの願望だけが残された、操り人形であった。
「ねぇねぇ、こんなにいっぱい。あんたつくったの? 本当に良い趣味してるわね」
「私じゃないよ。私を何だと思ってるの? 私ほど人情味のある人間はいない。たぶんあの骸骨男でしょ」
「……本当に?」
「嘘ついてどうするの?」
「違う。人情味のある方に疑問を投げかけたの」
「そんなに信用ならない? もういざとなったら、ちゃんと助けてあげるから。私のこと信じてよ。そんなに怖かった?」
「けっ!」
彼等の原動力が憎しみなのは、「そういう」つくられ方をしたのだろうと、ランは自分の所見をメアに伝える。
「人だけど人じゃない。強い兵隊でもつくりたかったんじゃない? でも殺意を注出する方法って華がない。もっと愛を込めなきゃ」
「そんな愛情、私はいらないわよ」
レイの周囲の盛り上がりは、ようやく落ち着いてきた。最後の一波であるようで、殺意を込めた言葉も数が少なくなってきた。
レイに近づく者たちは、全て黒い触手で無残にに囓り獲られる。触手には無数の吸盤が着いていて、吸い付き、全てむしり取ってしまう。
この庭では、縦横無尽に動き回り、姿形を何者にも変えられるレイが、最も現実離れした存在である。
「もう終わりそうだね」
「嘘! もう!?」
黒い煙状に広がって、無数の腕を多方に伸ばしていた彼は、群集の中央に集結して一つの黒い塊に戻るる。巨大な狼の姿を形になって、曇天に向かって大きく吠えあげた。
四肢から蜘蛛の糸のように影が伸び、辺り一帯の怪物達の足下を通過して、一帯に黒い網目が広がった。もう一声、彼が叫ぶと、網が持ち上がり、一気に収穫していく。大量の魑魅魍魎が、レイの頭上に一つの網に押し込められて、団子状に固められる。取り逃がした敵は一匹もいない。
そして、レイが地面を踏め閉めると一気に燃え上がり、その光景にメアは唖然としてしまう。彼は失敗することなく、全て処理したのだ。しかも、最後のは随分前にリサに見せてもらった技である。
「メアは神子術式、覚えた?」
「……あの便利なボールないの!? 私だってさ!! あれがあればさ!!」
「持ってきてない。だって、持つとリサに位置がバレるから」
「なんでよー。いいじゃないバレたって」
「よくない。あの子、怒ると意外と怖い」
「怒るようなことするアンタが悪いんでしょ! あーもう! ……それで……これどうするのよ」
下らない会話を掻き消すように、二人の前では炎が轟轟と立ち上がる。その後ろには骸の山がいくつも並ぶ。その一つが小さく膨らんで、縮む。それは巨大な犬であった。
六つの頭を起用に積み重ねて、熟睡していた。到着してすぐのことだった。メアが必死の思いで睡眠弾を何発も何発も撃ち込んで眠らせた、このタワーの番犬である。
眠りこけて横になっている。しかし、それでも5メートルはあるだろうか。メアは見ていると首が痛くなってしまう。
「アンタが言うから捕まえたんだけど! 本当に大変だったんだけど! 何よ、最後の試練て。しかも、殺すな! 無傷で捕えろって!」
「持ち帰ってくれない? 消化したら駄目だからね。ああもう、来て良かった。昔同じの飼ってたの。ああ懐かしい!」
「はぁ? 何面倒くさいこといってんの? 誰が面倒みるのよ! 飼ってからのこと考えてるんでしょうね!?」
「ほら、もう飲み込んでも大丈夫だって言ってる」
「どうやって会話したのよ!」
メアは溜息をついた。何度目かもわからなくなった。こうなったら意地でも持って帰ることになるのだろう。従った方が早いことを、メアはこの数日で学んでいた。
「……わかったからどいて」
「一気にいけるか?」
「ふん!」
メアは立ち上がって、思いっきり両腕を振った。伸ばした両の手の平が薄い膜状に広がって、小山の上に覆いかぶさる。ベールはそのまま地面に向かってストンと落ちてしまう。
テーブルも、ティーセットも、そして、六頭犬も、まるでそこに何もなかったかのように、メアは身体に収納してい。
両手を引っ張りあげると、彼女の手の平は、瞬時に人間の手の形状へと戻っていく。
「……一体、身体の中はどうなってるの?」
「そんなこと私が知りたいわよ。それより早く親友の元へ行かないとでしょ」
レイは今度は誰の影にも潜らずに、犬の姿のままでいた。まだまだ遊び足りないらしく、早く進めと目で訴える。随分と余力が残っているようで、メアは当分彼に雑用を押しつけようと決意した。
タワーの玄関口は固く閉ざされていたが意味はない。
メアが右手を掲げると、大爆発が起きて分厚い扉が跡形もなく、木っ端みじんに破壊される。
「メアって一番雑だよね。取手があるなら使えばいいのに」
「ばう」
「でしょ? レイもそう思うでしょ? 身体に仕込んだ砲塔何口径よ。戦車用じゃない。ノックしてドア開ける用じゃないわよね」
「ばうばう」
「ああ、そうね。私、ドアトラップたくさん仕掛けるからね。相当、来る途中引っ掛かって大変だったもんね」
「アンタらうっさい!」
なかなか入ろうとしないメアよりも先に、ランとレイは賭博場に踏み入った。
エントランスの天井の高く、様々なゲームテーブルが華やかに並べられているが、当然のように人はいない。いつもの燃え上がるような活気は静まりかえっていた。
そして、もう一歩進むと、今度は殺気がランに向かって突き刺さった。
見上げると、赤毛の女がランに向かって飛び込んでいた。ランは歓喜の声を上げてしまう。
「魔女!!!」
「ああ?」
振りかぶった鈍器を遮ったのは黒い触手である。鞭のようにしなり、二本目がリルの腹部に直撃する。レイが間に割って入った。
吹き飛ばされたリルは、そのままスロットマシーンをなぎ倒し、ルーレットを複数台ひっくり返して、カーペットの上をバウンドする。
数バウンド目で手のひらで軌道を調整し、直撃しそうだった柱の側面に着地する。再度ランに向かって突き進む。彼女の目はまだ死んではいない。
レイの触手は何本も振るわれるが、今度はかいくぐって、ランの懐までたどり着いた。
「あはは! やるようになったじゃない!」
「なんで!」
再度、右手に掴んだアタッシュケースで殴りかかろうとするが、それはピタリと空中で停止する。
今度は人型になったレイが、リルの右腕をがっしりと掴んでいた。速度が急停止し、膠着状態に陥った。右手を掴まれてもなお、彼女はランを睨みつける。
「何!? なんで貴方がここにいるの!? まさか全部!? 全部!?」
「何が?」
「ねぇ! とぼけないで!」
「ああ、もう五月蠅い五月蝿い。レイ」
三階から一階へ大跳躍してきた彼女を、レイはそのまま来た方向へ投げ返した。遅れて入ったメアは何事かと首を傾げるが、丁寧に教えてくれるはずでもなく、手を掴まれてランの側に寄せられる。
「無視して行くよ」
ランが革靴の踵を鳴らすと、半径2メートルの円筒が現れる。檸檬色のスポットライトが、頭上から浴びせられたように見える。
メアは頭頂部から掃除機に吸い込まれるような感触を覚え、目前のエントランスホールの光景はすべてモノトーンで上書きされた。この感覚は知っていて、ランが別に空間を創ったのだと、メアは察知した。
怪物たちのうめき声がなくなって、凍えるような景色もなくなり、メアはようやく一息ついた。暖かい色の中の小休憩だけである。重力を感じ、上昇していることだけはわかった。
「今の知り合い? 絶対誤解されてるでしょう」
「さあ?」
掴めない笑い方である。ランは微笑んでいて、その意味をメアは知っていた。
玩具を見つけたときの笑い方だ。あの子も自分のように可哀そうな目にあうのだろうかと、少し同情してしまった。