GENE6-9.See Saw
白い濃霧の塊を抜けた。メア達は肌が剥がされて、裏返されたような刺激と嘔気に襲われる。視界が数回暗転して、胃袋がヒクヒクと痙攣する。ランには覚えのある感覚だったようで、彼女の眉間に皺が寄る。
「な……何よこれ……?」
「っち。転移されたね」
数秒前まで居た高層ビルから強制的に移動させられ、街を取り囲む門の外であり、地面から数百メートルは遠ざかった上空に投げ出されていた。
強制停止された聖女の休息地が広がっていた
あれだけ物騒がしい不夜城が凍り付いていた。空の空気まで冷却されて雪が降り出す。発生した水の結晶とともに、身が縮むほどの冷気の中を降下して、メアはさらに縮んでいく。
「……さ……さ……む」
体温が急激に奪われる。外気が容赦なく彼女を襲い、痛覚が麻痺して、もう叫ぶ気力も失ってしまう。口を一文字に結び、目を閉じて、無言で丸くなっていくメアを見て、ランは一言投げつけた。
幼女へ、ではない。その影に潜む彼に向けての言葉だった。
「レイ! いつまで黙ってるの。そろそろ動きなさい」
唸るような獣の鳴き声の後に、突如、メアの背中から黒い粘度を持った液体が噴出した。まるで重油のようである。その勢いでメアの身体はきりもみ回転をしながら落ちていく。
凍えたメアは怒る気力もない。無言でなすがままになってしまう。
数十回転して、メアは大きく減速した。黒が明確な形状に固まったのだ。形成されたのは四枚の翼である。羽毛はない。細長い指の間に飛膜を張った、コウモリを彷彿とさせる翼手だった。
急ブレーキが掛ったメアに、ランは左手を伸ばして、彼女の足首を掴んでぶら下がる。いきなりの衝撃に、メアはぼそりと「ぎゃあ」と叫んだ。
痛みより寒さが勝ってたようで、普段なら粗雑な扱われ方に全力で反抗するはずだろう。しかし、体温が低下して、彼女の抗う余裕は零に近い。怒ることも笑うこともできなくて、ただ押し黙っていた。彼女の能力、魔法の胃袋で防寒具を取り出そうにも、息継ぎできない展開の連続で無理だった。翼と人を繋げる金具の役割になるので精一杯である。
「レイ。街の入口につけて」とランは降下地点を指示して、意志を持った翼は一直線に滑空する。高度が下がり、霧も次第に晴れてきて、足下の光景が露わになっていく。
屋外の人工的な灯りは消え入りそうだった。地上では喧噪が失われて、代わりに幽寂な光の粒子が徘徊していた。
青い蛍の群れが、赤血球のように路地を流れる。
眠っていた街という怪物が徐々に息を吹き返していくようだった。
ランの示した目標地点の上空に辿り着くと、メアの背中の黒翼は消え、二人は上空十メートルの高さから、加速度的に下へ落される。
成形されていた黒塊は一瞬で液体となって、瞬時に着地点に移動した。今度は周囲の外壁や街灯に一斉に触手を伸ばして、菌糸状のクッションとなる。
二人の下敷きとなって下敷きとなって勢いを奪い、絡み合ったネットが消えて、二人は青白くなった街に降り立った。メアは立つ気力もなくて、着地と同時に崩れ落ちた。
ランの深手からは未だに血が流れ続けていたが、彼女は陽気にレイに語り掛けた。
「いいなー……レイも便利な能力持ってるよね。ねぇ、メア?」
「食べないでよ……」
好物を見つめるような視線を感じて、レイは一瞬で倒れているメアの影に潜り込んだ。
彼もまたこの世界では希有な力を持っていた。存在する次元を調整することによる形態変化と高速移動を可能にする、暗闇の中の平衡者。「褒めただけなのに……」と、ランは苦笑いして、羨望の眼差しをやめた。そして、注意を目前の脅威に向ける。
転移させられてから、エアの猟奇的な笑い声はぷつりと途絶えていた。しかし、街にその歪さは表出していた。耳を疑いたくなるような笑い声を彷彿とさせる、陰気な、鬱屈した雪景色である。
派手な看板が無数に散在していた。しかし、見る影もない。表通りは無機質な白になって、ただ人がいないことが目立っていた。
降り立ったのは街の玄関口とも言える、広場である。噴水は機能せず、水面は凍り付いていた。街灯は消え、五月蠅い看板は表面に水分が氷結して、鈍い明るさが周囲を微妙に照らし出してた。粉雪がちらついていた。殺伐した風景に、蛍のような力の粒子が塵のように浮遊する。
粉雪と暗鬱な光の粒子が散らばる中に、空から気付かなかったエアからのメッセージが散見される。
アクセントとして赤い文字が力強く、壁や看板に刻み込まれていた。便所の落書きを彷彿とさせるような、乱暴な筆跡だった。
刻まれた文字は蛍光塗料で描かれたようである。『Are you enjoying yourself?《楽しんでるかーい?》』、『Well done,everyone.Well done!《サイコー! みんなサイコー!》』と巫山戯た台詞が並んでいた。
ランは詳しい事情は知らない。具体的な理由も聞けなかった。新しいゲームがはじまった事実はわかった。彼女は今すぐにでも遊びたそうである。
『ようこそ、地獄の入口へ! スタート地点はこちらです!!』と悪趣味な伝言が書かれ、レンガ舗装された地面に矢印が続く。腹の立つ演出をみて、面倒くさそうにランは呟いた。
「イラってするね。メアもそう思うでしょ?」
「……」
「メア?」
「き……気付いてよ……う……動けないの」
「もう仕方無いなー。本当に亜人間って不便ね」
ランがメアの頭を踏みつけて、左手でジグザグした軌道を描くと、メアの四肢が次第にオレンジ色の半透明の膜に包まれていった。
皮膚の数センチ上で覆うように広がって、身体全体を包み込む。そして、着色された膜は完全に透明になると、メアの震えは止まり、両手を開閉して凝り固まった身体をほぐしていく。ランが足をどけると、ゆっくりと起き上がった。
「……ありがと」
「貴方もいい加減覚えなさい。神子術式って役に立つでしょ。これもエアの力が生み出した技術なんだから」
「なんで人の手柄を嬉しそうに語ってるのよ」
「私が窮地に追い込んだからこそ生まれたから――って言うのは冗談だけど」
「冗談に聞えない」
「五月蠅い。ともかくあの子の能力は特殊でね。この世の全てを読み取れるんだけど、読み取れるばかりで利用する術がなかった。最初は攻撃も何もできなかった。いつも後方支援に回ってた。真っ先に避難させられるのはあの子だった。それだけ貴重な能力だったんだけどね」
「アンタは?」
「もちろん前線」
「やっぱり」
「だから話の腰を折らないでって。あの子も思うところがあったんだと思う。そして編み出したのが、この世界に直接書き込み、作用する『術式』なのだよ!」
「なんで貴方が自慢気に語るのよー。それよりあの便利な球はないの!?」
メアはうんざりとした顔で、両手で丸をつくってランに示す。先日の騒動で完成した、ランの迷惑な発明品を示しているのだろう。
「ないよ。リサが持っていった。ともかく覚えなさい。レイはいくつか使いこなしてるし」
「な!? ななな!? 噓!!って――何アンタ吞気に会話してるの。何? 本当に神様っていうか、化物じゃない!」
メアは自分の影を睨み着いた。先を越されたのが悔しさが舌打ちとなって、口から出る。自分の影からランに身体を向けると、次はメアは自然とランの生々しい傷跡に視線が向かってしまった。足下には小さな血だまりができて、凍り付いていた。怪我をした本人は首を傾げて、気にしている素振りは全くない。
「何? 心配してくれるの?」
「誰も貴方を心配するわけないでしょ。だけど貴方が動けなくなったら困るのは私なの」
「酷いこと言うね、おっきい方のメアは。ほんと痛みっていつぶりだろう。あーあ、弟子の能力も羨ましいよ。どんな傷でも再生するのって狡いよね?」
彼女の左指から地面へ血が滴り落ちる。ジェル状の肉片を含んだ血液が垂れていた。
生々しい傷にメアは顔をしかめてしまった。ランは止血帯を生成して傷口に巻き付ける。彼女の能力もまた特別である。
「みんな、アンタには言われたくないと思う。おかしいわよ何でもありじゃない。貴方もリサも。私達の羨ましいだなんて噓言わないでよ」
「そんなこと言わないでよ。それにしても貴方、丸くなったわね。もう一人を心配して代わりに出てきたんでしょう?」
「うっさい! うっさいうっさい!」
ふてぶてしく口を膨らませて、ランの右肩を注視する。ドレスがバッサリと切り取られ、はだけた肩と腕は包帯で何重にも巻かれていた。肩と腕がくっついているのが不思議なほどの深手であった。応急処置をしていても立っていられるのか、メアは疑問である。
しかし、動けるなら、それはそれでおぞましく思う。かつて世界の神様だった者は、余程頑丈にできているらしい。
「大丈夫、神経は繋がってる」
「だから!! 心配なんかしてないの!!」
「準備するぞ。これから――」
「これから?」
「あの馬鹿を殴りに行く」
「そう! そうよ!! ちゃんと説明しなさいよ!!」
ランはクルリと一回転すると、街に来たときの服装に早変わりする。戦闘服なのだろう、たちまちに自身を灰色の外套でくるむ。自慢気に変身の様子をメアに見せつけて、メアは腹立たしさを一切隠さず、舌打ちをした。
メアは身体が温まり、ようやく怒る気力も湧いてきたようだ。真っ先にナイフで首を掻ききろうとしたが、怪我をしている右手の拳が跳んできた。負傷している側から、ノータイムで攻めたのに全くもってスキがない。小さな女の子は、また地面に倒れ込んだ。
左手を傷口にあてて、ランは負傷具合を確かめる。首をならす。動く左手を数回転動かして、自らの身体を隅から隅までチェックし始めた。
「だから! ねえ! 何が起きてるの!? なに? 親友って乗っ取られてるの?」
「メアは本当に元気ねー。――そうかも。あははっ、あの子はおっちょこちょいでね。いつも自分を見失ってた。もう自分がわからなくなってるのかもしれない。こんなメッセージまで」
「何!? アンタもアイツも懐かしくてはしゃいでるの? やだよー! 巻き込まないでよ-! 帰ろうよー!!」
メアは小さくて、可愛らしい口で精一杯の怒号をあげる。苦痛を怒りで本来の話し方を忘れてしまったかのような口調である。地面に倒れたまま転がりだした。
ランは固いブーツで足下の赤色を踏みにじった。地面にデカデカと描かれていた、『スタート地点はこの先!!』とメッセージと矢印である。
ランは無理やり寝転んだメアの右手を掴み、矢印の方向に嬉々として進む。メアは身体全身でブレーキをかけるが、問答無用で引きずられる。
「ほら、着いてきなさい! 暴れさせてあげるから!」
「嫌よ- アンタ、血の気多すぎるのよ。私も多い方だけど萎えるわよ。それに……この先に罠だって絶対あるでしょ?」
「あるよ。だって私もつくるの手伝ったんだよ?」
「ほらやっぱり! なんで嬉しそうなのよー。アンタと一緒にいるとリサがまともに見えるわね」
エアが書いたと思われる落書きを道しるべに進んでいく。角を曲がると、『|さぁ、ゲームを始めよう!《Let the game begin》、私を捕まえることができるかな?《Catch me if you can?》』と建物の側面や地面に点々と配置されている。
ここがスタート地点であるようだった。
メア達の前には、レンガ舗装上に二十センチ幅の赤線が真っ直ぐ伸びる。『すたーとらいん』と捕捉されていた。鮮血の色である。
真っ正面に、街の中心にあるタワーは金色に輝きはじめたのが見える。あの脱出劇を繰り広げた高層のビルである。メアが纏ったような半透明のオーラに包まれていた。凍える街の中で唯一目立つ。まるで悪の居城であった。
「あー、頭痛がしてきた」
「これから真っ正面から叩きのめします。ついでに貴方達を育てようって思ってます」
「慈愛に満ち満ちてるわね」
「だめ。だから、逃げないの」
ランに通ってきた道を振り返るように促した。メアは正直振り返りたくなかった。これまでで一番気怠さを詰め込んだ溜息を吐いて、首を捻って振り返る。『逃げられないよ!』、『命が惜しくないの!!?』、『忠告はしたからね!!』、『そろそろスタートするよ!!』などと多数のメッセージが書き込まれていた。
エアの人柄については聞いていたが、メアもコイツ嫌いだ――と素直に殺意が湧いてしまった。
「……この人、大丈夫?」
「うーん、放っておかれすぎて歪んじゃったのかもしれない。いろいろ溜まるの。引きひこもってるとね。――まあ、私達は今非常に危険な状況にいる。エアは街を再起動させた」
彼女が心なしか笑っているように、メアは見えた。動く左腕でガッツポーズしていた。満足げなランの表情に、メアは鼻で笑って威嚇する。どうせロクなものではない。
「おっけー。わかった。わかったわ。それであそこを目指すわけね」
「そう。メア、物わかり良くなったわね」
「知らない! 無理にでもそうしてるの! 頭空っぽにしなきゃ、付き合ってらんないわよ」
「じゃあ、まず私がお手本を見せるからその通りにしなさい」
「はーい」
ゴールのタワーまでは実質一本道である。途中に『ほら、頑張って!』、『あとちょっと!!』と明らかに応援していない応援メッセージが配置されていた。
ランの指が示したのは、五百メートル先の石材に密に装飾が彫り込まれた五階建てのホテルの屋上である。横の巨大な看板には『まずはここまでおいで』と挑発的な文句が輝いていた。
屈伸を始めて、ランは小さな跳躍をして息を整える。
小さく伸びをして、大きく赤い線を踏み越えた。
一足。ラインに踏み入れた瞬間、警告音が鳴った。真っ先に緑色の光線が照射される。ランダムに入り乱れた線が交差する。しかし、圧倒的な速さとギザギザと屈曲した軌道を描いて、ストリートを突き進む。エアの攻撃から逃れたときの、身体のキレは失ってない。
身体を捻り、右手に短剣を生成し投擲した。
前方の一本のレーザーを故意に切断する。彼女の進む先に鋭利なトラップが溢れ出し、辺り一面が凶器の畑のようになった。
建物の壁面や地面から、無数の回転鋸が勢いよく飛び出した。細い金属の針が、隙間を埋めるように突き上がり、不定期に激しい上下運動を繰り返す。
事前にどの鋸を足場にするか決まっているのだろう。刹那のタイミングで、上下する剣山の隙間を縫って、回転鋸の側面を足場に、大きく空に駆け上がる。ホテルの屋上にある、獅子のモニュメントまで飛び乗った。
それを見て、メアは大きく頷いた。
「できるか!」
と、思わず大声を出してしまった。
先ほどの枷と同じように、鋸の刃や針の先には全て文字術式が刻まれている。再生不能にするための呪詛に近い。一般的な刀傷なら再生する、メアの肉体でも容易に切り刻まれてしまうだろう。禍々しい記号の羅列は、獲物に対する愛が込められている。こんな物、目覚めない方が良かった。
「親友って言ってたの、嘘でしょ!」
「一つミスしたら死ぬから気をつけるんだぞ! 同じ軌道、同じ足取り、同じタイミング。間違えると死ぬから。一応貴方に合わせた通り方にしてあげてる」
遠くに居てもハッキリとした、凜とした声である。
言われなくては、絶対にわからないだろう優しさである。
過去に、メアは主人であるリサに聞いたことがある。彼女は無理なことは押しつけなかった――何故なら私が死んでいないからと絶望な目で修行中の思い出を語っていた。
メアは予想以上の課題に頭痛が悪化した。
頭を空っぽにしたはずだったが諦めた。素直にハイそうですかと言えなかった。自らのホームに帰れるのなら帰りたかった。こんなにも本部が恋しくなるとは思わなかった。
「ほら、うしろうしろ。ぼさっとしない。死ぬよ?」
「なああ!!!」
ランが人差し指で後を見るように促した。「私が安全地帯なんてつくるわけないでしょ」とランは遠くからメアに伝えた。凜々しい声音が腹立たしい。そう、彼女は昔から慈愛に満ちていた。
地面が大きく震えて、メアを呑み込むほどの芝刈り機のような仕掛けが現われる。そこに居座ろうとする、悠長な者を挽肉にする機械仕掛けだった。
「殺す! 私が生きてるうちにアンタを絶対殺してやる!!」
「それ創ったのは、昔の私だから。今の私じゃないから-!」
だからといって罪が消えたわけではない。昔も今も彼女は全く変わっていない。それからストリートをメアは絶叫しながら突っ切った。
後書きおまけSS「七夕」
まだちょっと遠いですが。
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アルル「はーい。リサさんから教わったんですけど、この短冊に皆さんの願いを書いてもらいました。これをガンガン括り付けていきましょう! 量が多いですけど頑張りましょう。モアさん達も後から手伝いに来ますので……」
ハル「……願い事……ですか?」
ベル「『ごはん食べたい』」
アルル「メアちゃんですね」
ハル「これは?――『世界平和』」
アルル「お婆ちゃんです」
ハル・ベル「……」
アルル「『誰か代って』――これはリサさんですねー。切実です」
ベル「『誰かお姉様と代りなさい。暇になったお姉様を私が養う』」
ハル「もうお願い事ですらないね、これ」
アルル「『寝たい』。これは徹夜明けのヴァンさん。白紙はフィン君。レイちゃんは書いてもらえませんでした。でもでも、他にも一杯。こういうイベント企画して実行するの、私一人しかいないんです。みんな書いてって言えばやってくれるので、やる気がないわけじゃないんですけどねー。あ! お二人も書いてください」
ベル「何書こっか。首何個がいい?」
ハル「何書こうね。千個かな。キリがいいし」
アルル「私もどうしよっかな。短冊って意外と叶います。叶っちゃいけないお願いごと沢山ありますけど。でも、私の去年の願い事は……今日ですねー」
ベル「千個か、千個ねー」
ハル「足りない。桁増やす?」
アルル「聞いてない!」
ベル「増やそう!――何か言った?」
アルル「あーもう! 何でもないですよ! あ!! ほらほらモアさん達もお手伝いに来ましたよ!」