GENE6-8.She is thirsty.
奇妙だった。
赤いドレスの彼女の三歩後の、金髪の幼女は、そのおかしな光景を眺めていた。
水晶から光の粒が生み出されて、ぶつかっては消えていく。淀んだ、埃だらけの空気の中を這うように吹き抜けて、天井、大理石の床を淡く照らしていた。
クリスタルの室内照明が室内をぼんやりと照らしていた。
緩急のある灯りの渦の中、鈍い光のさざ波が漂う暗闇の奥に、眼鏡をかけた彼女が立ち尽くしていた。
真っ赤なドレスの裾が揺れる。真っ白な足首がちらついた。
三メートルの円状にみっちりと赤い文字が並ぶ。中心にあるのは箱一つ。
誰がどう見ても、なんの変哲もないアンティークボックスである。
宝石が散りばめられたわけではない。
しかし、無駄に茶目っ気があり、無駄に早口である。さらに無駄に五月蠅かった。
「あー、なんだか思い出してきた」
ランの記憶の奥底からわき出したのは、彼女の面倒な性格である。目の前の彼女は、そういう女だったのだ。口を閉じてやろうかという悪意と昔懐かしい会話をしたいという親友への愛が衝突した。
結果、面倒くさそうな表情をしながら、はにかんでしまう。「驚くほど変わってないね。エア」とたった一言だけ投げつけた。
「おおう!! おっと、不味い不味い。大丈夫、大丈夫だよ、ランちゃん。スピーカー機能はオフにした。これで好きなだけ会話できるって。愛してるって言ってもいいんだぜ! ともかくともかく、有り難う!! 三日ぶり!? 髪切った!? ちょっと痩せたんじゃない!?」
「……」
反響して返ってきた情報量に、ランは眉をしかめた。スピーカーを切っても、やはり彼女は五月蠅かった。そして面倒くさかった。
「……」
何も答えずに無言で端末に手をかざす。エネルギー供給ラインを断てば声も出せなくなってしまう。ただの木箱に逆戻りにすることができるのだ。
「ごめんごめん、やめて!! 謝るから!! 全部冗談だからね? 怒らないで? ね? 本当に感謝してもしきれないよ――私に声を与えてくれて。もう心だけになっちった。何年ぶり?」
「数えてないよ。でも、会えたんだから。生きてるんだからいいじゃない」
「うん? そうそう! 生きてる! 私、生きてる!! ランちゃんも……本当に生きてたんだ。よかった」
その箱は噛み締めるように呟いた。表情こそ見えないが、言葉には感情が十二分に込められていた。
ランは黙らせようと掲げた右手を下げて、赤い円の中に立ち入った。よいしょとしゃがんで、語り続ける木箱の上に手を重ねる。エアは嬉しそうに小刻みに声を震わせる。
「……あったかいね。ランちゃん。本当の体じゃない!? どうしたの?」
「もらったの」
「運が良いね! それに、その姿……懐かしいね……」
「でしょう?」
今度は立ち上がって、長髪を手で払ってクルリと一回転した。眼鏡のレンズに水晶の光が反射する。彼女は自然と口角が上がってしまう。自慢げに全身をくまなくエアに見せつけた。
「ああ、思い出してきた! 思い出してきたよ!! 私は今でも鮮明に覚えている! 初めて会ったときのころを! 問答無用で殴りつけてきたあのころを!」
「……そうだっけ?」
「そうだよ!! なんだか腹が立ってきたよ!? 私は忘れないからね。こっちに送り込まれて、訳もわからず魔物に襲われて、命からがら逃げだした! やっと湖畔の村に辿り着き。そして、謎の女に殴られた!!」
「あー! 思い出した思い出した。 だってずっと泣いてたから。殴りたくなったんだよね――あれは殴りたくさせたエアが悪いと思う」
「絶対、私は悪くない!」
無機物と会話するのは間が抜けてしまう。 数秒の沈黙の後に、互いに噴き出してしまった。
可愛らしい二人の笑い声が部屋に反響する。その意外さに、メアは沈黙しながらも素直に驚いてしまった。
ランは苦笑してまた箱を撫でる。彼女には愉快な思い出だったようである。エアは触れられて、照れくさそうに喋り出した。
「やめてよ。くすぐったいよー」
「なら、やめない」
「いじわる。でも撫でられるのなら、箱になっても良かったね」
「でしょ?」
「あのね。ランちゃん」
「なに? エア?」
「あははー、えっとね……何から話そうかな?」
「どうしたの?」
「……」
今度はエアが沈黙する番であった。
座り込んだまま、ランは眉を上げる。彼女が出し始めた、深刻な空気に気がついた。寡黙さは彼女には似合わない。
その理由をランは考えてしまう。心当たりはありすぎた。
この四百年間の世界を、ランは何も知らなかった。そして、目が覚めて身体を得て世界を見て回っても、空白の期間に生じた出来事は断片的にしかわからなかった。
家族が、培ってきたものがほぼ全てが、新時代の世界に薪としてくべられていた。
それはわかる。それにまつわることを話そうとしているのだろうか。
そして、ランは聞かされてもどう答えたら良いのかわからなかった。渇いた哀しみを抱いていたのおだ。
彼女にはぽっかりと胸に大穴が空いたような、空白を抱えていた。実感がなかったのだ。そして、失ったという記憶もなかった。失う前に自分を失ってしまった。
しかし、エアに会えたことを腹の底から嬉しくかったのも事実である。
彼女はこうして生きていた。何があっても驚くことはない。ここは箱庭なのだ。奇跡なんて簡単に落っこちている。
「ねえ、エア。どうしたの?」
「……」
彼女が伝えようとしているのが、喜ばしい知らせである可能性だってある。
今はエアの言葉を待つしかなかった。
俯いたようにエアの呼吸音が途切れる。彼女は大切なことをつたえようとしていることはわかった。
「あのね!!」
彼女の声が室内に響いて反響した。
声帯の代わりに水晶が微振動して、彼女の声をランに伝える。
「――貴方と話すのをどれほど願ったんだろう。ずっとね。ずっとずっと。嘘みたい。まだ信じられないや。これって夢じゃないよね?」
「私も。こんなに上手くいくとは思ってなかった」
「ランちゃんのやることって基本上手くいかないからねー」
「……」
「ああ! うそうそ! やめて! スイッチオフにしないでよ! ごめんー! 謝るからー! ごめんよ! ランちゃん!」
「もう。私をそういう風に呼ぶのは貴方くらいだよ」
「そうそう! なんだよなんだよ、照れないでよ。ランちゃん、エアちゃんと呼びあった仲でしょう!?」
「そんなことは忘れちゃった」
「忘れないでよー。うん、なんだかこんなやりとり懐かしいね。久しぶりに生きてるって思う。もっと話したいことはあるんだ。たくさん。本当にたくさん。でもその前に伝えなくちゃいけないんだ」
また、沈黙が五秒続く。今度は余り笑えなかった。
ランは首を捻ってしまう。彼女がここまで無口になるなんてよほどのことだった。話したかったことは幾つもあったが、会話相手が何も言わないと、伝える手段が皆無だった。
「私は――そう」
ピシリと水晶が軋む。光のベールに小さな亀裂が生じて、歪んでしまう。
薄暗い光が次第に強くなっていく。エアの感情と連動しているようだった。
「そう。伝えなくちゃいけないことがあるの」
メアは吐いた息が白くなっていることに気がついた。
空気が凍てついて、揺らめいていた水晶の光がくぐもった。空気中の水分が固まって、曇り硝子を透過させたように、光が減衰する。部屋の照度が下がっていく。
何かを察したのか、ランの瞳が小さく震えて、泳いでしまった。
「本当に嬉しいの。もっともっと。もっともっと話したいんだけど時間がないの。ともかく時間がないんだ。ようやく私が掴んだチャンスなんだ」
「……えあ?」
「先に謝っておくね。私にはやらなきゃいけないことがあるの」
「なっ!?」
これまで緩やかに流れていた時間が止まる。
空気が凍結して、棘のような殺意が肌に突き刺さった。
咄嗟にランは後方へ宙返りして、立ち呆けいているメアを左腕で乱暴に拾いあげた。そして、自分の体で幼女を覆いこむ。
瞬時に、硬質の、透明な硝子のような防護膜が、二人を包み込むように展開される。水の表面が凍りついて固体になるように、大気が氷結して透明な殻が生み出された。強固な鎧が形成される。
しかし、間に合わなかった。
「――っ!?」
冷気がうねりをあげて切り裂かれる。
エアの周囲にハリネズミのように、刀剣が乱立した。地面から突如生えてきた金属は、全て切っ先はランに向いている。
展開中のシールドの穴を通すように、一本の、針のような抜き身の刀がランの右肩を貫通する。
痛みにランは小さく呻いて、一瞬怯んで、形成途中の盾が消失してしまった。ランは後方へステップを踏んで、追撃の刃の嵐を間一髪で避ける。
頬に切り傷が、右肩がぱっくりと切り裂かれて、真っ赤な血が床に飛び散った。
地面に散らばって凍結して、部屋を赤く彩っていく。
剣撃だけではない。猛烈な冷気が飲み込むように、迫り来る。突如現れた猛吹雪が、全てを包み込もうと箱を起点に広がっていった。硬質の殺傷用の道具が、霜柱のように鬱蒼と地面から生み出される。
「私はずっとあなたと遊びたかった!!!!」
彼女の叫びがランに届く。攻撃は止まらない。一つしかない出入り口に一直線にランは走り出した。
床から繰り出される剣の波。今度は、側面から、天井から、部屋に配置された水晶から、いたるところから突き出される。豪華に装飾された刀身もあれば、脈打つ血管を纏った切っ先もある。
禍々しい力の波長の塊がランを掠めた。どこから出現したかわからない、神の遺物の剣の嵐。その全てが、どこで準備したのかわからない曰く付きの武具である。
「ななな!! なにっ!?」
「動かないで」
出口を目指して、鋼鉄の枝をかいくぐる。予想不足な動きにメアはまともに喋れなかった。
スライディングから、飛び上がって身体をひねり、水晶を足場に空中に駆け上がる。形成した足場から足場へ、鋭い角度の軌道で、次々と派生する凶器を避け、出入り口へ突き進む。
メアを右手で掴んだままである。慣性の法則に従って振り回された。幼女の足先を刃が触れそうになる。一見、人と思わぬような乱暴な取り扱いだが、彼女が一太刀も受けることはなかった。数ミリの差で鋼鉄の枝葉を避けていく。
引きずりまわすランの絶妙な、「愛のこもった」、調整のお陰だった。
「あはははっ!! フフフッ、アハハハハッ!!」
出口を出ても、エアの脅威は止まらない。その笑いも止まらない。その勢いは増していく。狂った笑い声が全方位から聞えてくる。壁が振動して、嘲るような彼女の声を耳に届ける。
刀、剣、槍、数多もの鋭利な武器が、階段から側面から天井から迫る。まるで巨大な口に追いかけられているようだった。まるで通路自体がランを呑み込もうとする怪物であった。
階段をかけ上がるしかない。来た道を全速力で戻る。
ランが右手を力強く握ると、足跡から泡が生じる。そして、膨らんで破裂した。水面にダイブしたように小さな水しぶきが上がって、階段を埋め尽くすほどの立方体の石材が形成されて、通路を埋め尽くしていく。
「駄目ね」
彼女の物質を具現化する能力である。しかし、足止めにもならなかった。
豆腐のようにいとも簡単にカットされ、細切れになる。その切れ味は異常であった。無造作に生えてくる刀剣は、一般的な鉄や鋼でつくられた武具ではない。
甲高い女の悲鳴があがる。メアの意識が交代し、子どもの彼女から大人の彼女になっていた。把握しきれない現状に驚く暇もない。
右手を引っ張られ、問答無用で段差上を引きづられ、足先に何度も剣が刺さりそうになる。
「ひゃ!? なんなの!? あんたのお友達頭おかしいんじゃないの!?」
「師匠と呼んでくれない方のメア!!」
「どっちでもいいでしょ! こんな時に余裕ぶってんじゃないわよ!! あれだけ殺気をぶつけられて、親友だなんてよく言えるわね!!」
踏みしめた階段が一瞬で凍りついて、切り刻まれる。
気を抜けば、ランもメアも姿形も残らないほどの肉片になってしまう。
しかし、最初の不意の一撃を除けば、ランは一度も攻撃を受けてはいない。
階段が遂に終わり、辿り着いたのは司令室である。
息が凍るほど室温下がっていた。霜が降りて、豪華な内装が白色に凍てついていた。束の間の静寂が訪れる。
「終わり?」
「違うよ、罠だ」
それは檻だった。
街を見渡されるはずの窓はない。代わりに鋼鉄製の防壁が続いていた。赤い字で「Too bad!!」と落書きがされる。駆け込んだ入口に文字式が刻まれた鉄格子が生えた。
ランが速度を緩めることなく、悪意のあるメッセージが書かれた壁を力一杯殴りつけた。
戦車が砲撃したような衝撃波にメアは目を回す。しかし、鉄板は大きなくばみをつくるが、破れることはない。
「ちょっとどうするのよ!?」
閉じ込めて、咀嚼して、飲み込む気なのだろう。天井からつららのように刃が生えてくる。壁からも、周囲の床からも、部屋中を切り刻むように追いかけてきた刀剣が出現していく。明確な悪意を持って包み込むように刃が接近する。
「はははっ」とランの口から乾いた笑いが漏れた。
「なんで笑ってられるの!? あたま大丈夫!? 大丈夫じゃないでしょ!!?」
「直球だね。気にしないで」
「あんた! 何する気――ッ」
空気中にばってん印を豪快にかいた。異臭に顔をしかめて、メアは勢いよくランを見上げると、愛らしくウインクで返答された。
「口閉じてて」
ランが右足を踏みしめると、爆炎が生じた。骨が凍りそうなほどの冷気が吹き飛ばされ、火炎がむせ返る。圧力を抑えきれず、風船のように壁がはじけて、煙から勢いよく飛び出て、重力に身を任せるしかない。メアも道連れにされ、爆風と共に、一緒に夜空の元に放り出された。
二人とも衣服がところどころ焦げている。
先ほどの拳とは比べものにならないほどの音である。
「げほっ! ごほっ!! 自爆って馬鹿! 馬鹿なの!?」
そのまま落ちるしかない。
落下しながら叫びながらメアは怒号をぶつける。強烈な空気抵抗の中で口を精一杯開いた。
「なんでこんな荒っぽい挨拶なの! 意味わかんない!!」
「……メア、こんなことね。ああまたかってだけなの」
「知ってた! あんたも頭おかしいこと知ってた!」
ここは元の世界の原理は通じない。抱えきれない哀しみを飲み込むのに馴れてしまった。
ランにとってはわかりきっていたことである。
奇蹟的な喜びもあるのなら、その反対も同確率で存在する。
夜の街も様変わりする。世界はがらりと反転していく。喧騒溢れる町は全て凍り付く。氷河期が到来したかのような大寒波に、街灯も、看板の灯りも、呑み込まれてしまった。
『あははははは!!』
そして、エアの声が町中を満たす。
建物がスピーカーとなって、収まらない高笑いが、いたるところから聞えてくる。
大地が凍てつき、空気中の水蒸気が抑えきれずに凝結して、霧が現われた。眼下の光景が全てホワイトアウトする。
下は真っ白な海となっていた。
「エアちゃんの馬鹿」
誰にも聞こえない声で彼女は独り言を残した。
落下先の、一見立てそうなほど、密度の濃い霧の海へ、彼女たちは飲み込まれていった。