GENE1-7.選択は私次第
太陽の光を浴びて数秒後。
まだ視界は光に順応していなかった。虹彩は光量を調節する途中で、真っ白で何も見えなかった。
そして、風景は『別の刺激』によって明滅する。それは思考を止めるほどの、鋭い痛みだ。
最初は何が起こったのかわからなかった。
手の力が抜けて、掴んでいたスーの手を離してしまう。
その場で前のめりに倒れ込む。雑草は頬に触れて、赤く染まっていく。誰の血だろうという素朴な疑問が浮かんでしまう。
「っうぐ!??」
遅れたように激痛が走り、痛みで頭がいっぱいになる。割れそうな頭でようやく理解した。
これは私の血だ。私は誰かに殴られたんだ。
ざっくりと草を踏む音が近づき、地面を伝わって飛び込んできた振動音が、脳を経由せずに手足へ直接命令する。
体中に緊急警報が響き、うつぶせの状態から跳ね上がり、必死に襲撃者との距離をとった。
二撃目を振るおうとしていたのだろうか、接近してきた襲撃者は、リサの想定外の動きに驚いたようだった。
「何っ!?」
リサは、一度片手で着地して、体を反転、襲撃者と対峙するように着地する。
襲われた地点からさらに離れて、何があったのか把握しようと顔をあげようとする。
しかし、できなかった。痛みで動きが止まってしまう。
それでも、そいつが誰だかはすぐわかった。
どこかで聞いたことのある野太い声。あまり聞きたくなかった声だった。それだけで脂っこいにやけ顔を思い出してしまう。ジェラルドだ。
「なんで……い――ッ!!?」
再度顔をあげようとして、激痛で思考が遮られる。脱力して片膝をついてしまった。倒れ込もうとする体を必死に立たせようとするけれど、穴の開いた自転車のタイヤのように、両脚にうまく力が入らない。
自分の身体にもこんなに流れていたのかと思うほどの血量が傷口から流れ出し、押さえた左手をつたって、血液が地面にボタボタと垂れていく。そもそも襲われた理由がわからない。
連れの彼女の無事を確認しようと、手で押し上げるように顔をあげる。べっとりと血に濡れて左目は見えず、真っ赤になっていく右目でスーを探す。
「動くなっ!」
部下である兵士がスーを押さえつけて、そのスーの首元にジェラルドは短刀を突きつけている。
リサ達を連れてきた兵士も含めて、これを事前に計画していたようだった。
彼は一メートルほどの金棒を自慢げに持っていて、まるでホームランを打った野球少年だ。
直径十センチほどで長細い。取っ手には、荒々しく縄を巻いている。先端に近づくほど太くなり、丸く小さなコブが付いていて、そこにはべっとりと血が付いていた。リサの血だ。
「……なぜ死なん?」
自分を殴った金棒を見て、リサも動揺してしまう。
あの金棒で殴られたこと、そしてあの金棒で殴られてリサが生きている事実に。
しかし、ダメージがないわけじゃない。気を抜くと、今にも倒れそうだった。その様子をみて、ジェラルドは下卑た笑顔を浮かべる。
「まあいい。見ればわかるだろ? 動くな」
スーの頬をジェラルドが短刀でペタペタと叩く。まるで映画の低俗な悪役だ。ドスのきいた、汚らしい声が、その口からはき出される。聞こえていないのだろう、スーは逃げ出そうともがいて、すぐにでも怪我をしているリサの元へと動き出そうとしていた。
「おい、こいつが見えねえのか」
ジェラルドは短刀をスーの鼻先に掲げる。スーは、振りほどこうとジタバタと動くのをやめて、「良い子じゃないか」と、ナイフを持っていない拳でスーを殴る。スーの耳はだらりと垂れて、動かなくなってしまった。
「――ッ!?」
「動くなっていってんだろ!!」
リサを見て、ジェラルドが叫んだ。スーが殴られたことに無意識に身構えた時だった。自分の優位な立場を確信して嬉しそうに口角をあげ、黄ばんだ前歯を突き出すように話し出す。
「ああ、そういえば耳が聞こえなかったのか」
ジェラルドはスーの両耳を乱暴に握りしめると、スーの両腕が強ばって、その顔が苦痛で歪んでいた。
「やめて!」
「うるせえ!」
リサは反射的に叫ぶ。短刀をスーに突きつけた状態で、ジェラルドはリサの方に視線を移す。その瞳は
「ほんと余計なマネしやがって……出来損ないが。邪魔するんじゃねえ」
スーに唾を吐きかけて、ジェラルドは細長いホイッスルを口に咥える。それは犬笛のようだった。耳障りな高い音の後に、不快な生物音が聞こえてくる。呼び出されたのは子犬じゃない。そんな愛らしいものではない。もう聞きたくない羽音だった。ギチギチと口元を鳴らして奴がやって来た。
「お前もお前だ。死体を食べさせようかと思っていた。でも、気が変わった。粋の良い方がうまいっんだってな」
虫の化物は、丘の陰に隠れていたのだろう。笛の音色に呼応して、ゆっくりとリサの下へ近づいてくる。ジェラルドはそれを見て、満足そうな表情をした。
「ヘンリの野郎も面倒くさいことしやがって。まぁ、あの家はもうすぐオレのものだけどな――おい、動くなつってんだろ!」
リサがスーの方を見た隙に、ジェラルドが笛に強く息を吹き込んだ。ジェラルドは罠にかかった獲物を笑うような目をしていた。
プシュッと、炭酸ジュースの入った缶を、開けたような音である。
リサの上に降ってくる、それは蜘蛛の糸だった。
真っ白な粘着物質がリサに降り注ぐ。
「――うそでしょ」
頭の中でサイレンが弱々しく鳴り響いたが、体に力は入らない。浴びせられた糸のシャワーで、地面に縫い付けられる。動いても糸は切れなくて、腕の可動範囲が小さくなるだけだ。
あの生物は蜘蛛だったのか。確かに足は八本ある。それは恐ろしく歪に発達した生物だった。
まるで神様が悪ふざけして創った生き物じゃないか。
「生きたまま喰わせてやる」
ジェラルドの笑い声が聞こえる。そして、例のクモだかバッタだかわからない、虫の化物が近づいてくる。ご馳走を前に前足を上げていた。そのアゴが、カチカチとリズミカルに音を鳴らして、近づくにつれその音が大きくなってくる。
どうして、なんでとリサは理由を求めるが思いつかなかった。
視界が完全な赤になる。出血は止まらない。もう体に力が入らない。呼吸も次第に小さくなって、足、腕、手、指先と、順々に機能が停止していく。
化物がすぐ目の前にやってきた。ここまで近くで見たのは昨日会った時以来だった。
リサは糸を掴んでいた手を離してしまう。
頭の中に漠然とした死のイメージが浮かぶ。心拍数が小さくなっていって、走馬灯のように思考が加速していく。
(――ちょっと待ってよ。私がなにしたって言うの。なのにいきなり食べられそうになって。嫌だよ。ねぇ、誰かどうにかしてよ)
自分の意志でこんなところへ来たわけじゃない。
裸足で草原なんて歩きたくなかった。あんな化物と出会いたくなかった。延々と続く地下道を歩きたくなかった。そして、なんで殺されそうになっているのか。どうしてこんな理不尽な目にあわなきゃいけないのか。
本当は電車に乗って、大学でレポートを提出しているはずだった。そして、ミナミと美味しいランチを食べるはずだった。
どこをどう間違ったのか。どうしてこんなとこで死ななきゃいけないのか。こんな世界望んできたわけじゃない。
何度も何度も思考を繰り返しても答えは出なかった。そして、誰も答えてくれなかった。
もう何もない。誰も知らない場所で寂しく死ぬのか。
突きつけられた絶望に息が止まってしまう。初めての経験だった。
「いあー!」
首を上げて、声の方向を見た。
「黙ってろってつっただろっ!」
「!?」
それはリサの名前だった。スーと目が合った。彼女は必死に叫んでいた。彼女も理不尽に巻き込まれたのだ。こんな残酷な世界で生きてきたのだ。
「待ってて――」
助けるからと言おうとした時だった。スーの声を聞いてジェラルドは舌打ちして、ナイフを持った腕を振る。短刀の切っ先がスーに向かっていく。
「いあ!! いあっ!――」
リサは手を伸ばすがどうすることもできない。刀身がざっくりとスーに刺さった。
目が合った。刺されたながらも、小さな彼女は笑っていた。リサは知っていた。それは安心させるための笑顔だった。自分を偽ってリサのために彼女は笑っていた。口を小さく動かした。声はもう出ていない。それでも、最後に彼女は名前を呼んでくれた。
そして、リサの小さな案内人はぱたりと倒れた。
「いやあああああああああああああ!!!」
どうしてスーが殺されなければならないのか。神頼みなんて無駄なのだ。ここは知らない世界、自分以外頼れる者なんてない。
力のないものが死ぬなんて、自然の摂理に過ぎない。
もう知らない。もう知らない。もう知らない。
どうにでもなれば良い。力がないお前が悪いんだ。襲ったことを後悔させてやる。
視界がまばゆい光に包まれた。本能が理性を超えた瞬間だった。
この世界はリサのいた世界と違う。自分の力は意志で変化する。その出力は気持ちの強さに比例する。例えば、前を進むことだけに集中すれば、足が信じられないほど力強く動くのだ。
でも、それだけじゃなかったのだ。
頭の中にスイッチがあったのだ。きっとあのぬいぐるみが埋め込んだもの。絶対押してはいけないスイッチだった。それだけはわかる。こめかみの裏にある新しい器官のようなものだった。
額に第三の眼を授かったように新しい感覚を与えられた。手術で取り付けられたような人工的なパーツ。
絶対に使いたくなかった。その器官を使おうとすると、自分の理性が必死に止めようとしてしまう。まるで世界が正気を失ってしまうような危機感を感じる。リサが人間でいられなくなるような、人の領域を越えてしまうような禁断のスイッチ。
でも、もう遅い。押してしまった。押してしまったのだ。
もう戻れない。もう知らない。ここで犬死するくらいだったら、お前ら全員巻き添えにしてやる。
世界を狂わせるほどの力を手に入れたのだ。
「……!?」
リサを中心に風が巻き上がった。
自分の周囲に微細な光の粒が舞い上がる。世界はうっすらと白い光を纏っていた。ぼんやりと白い光を生物が纏う中で、リサだけが煌々とまばゆい光を発していた。
痛みは消えてなくなった。完全に消失して、腕に力が戻ってくる。纏っていた糸は簡単に千切れた。力だけじゃない、思考速度まで異次元のものになったようだ。時間がゆっくりと流れている。
後は怒りに身を任せるだけだった。
「な――」
スーの血で濡れた短刀を片手に、ジェラルドはリサの方向を向いた。
「うぇ……?」
そして、ジェラルドの目がカッと見開いた。
彼の眼球がグルリと動いて上を向いてしまう。リサは振り向いた顔をそのままに、ジェラルドの首を切り飛ばしたのだ。
腕を振ると纏った光の粒子が飛んで白い刃となる。水面で腕を思いっきり振ると、水しぶきが勢いよく飛ぶように、空気中を力を伝達させたのだ。思ったよりも簡単に切れてしまった。殴ろうとして手を伸ばしただけなのに。
血が散布される前に、負傷しているスーを拾って、ジェラルドの体から少し離れた後方に着地した。
ポトリと彼の首も地面に落ちる。しかし、そんなことどうでも良かった。
「スー、大丈夫だから」
スーを助けたい一心で、がむしゃらに解き放った力をスーに注ぎ込む。スーの傷口がふさがっていく。そして、微弱だった呼吸が正常になる。
ただ、そう願っただけ。原理なんてわからなかった。どうにかスーの一命は取り留めた。
それでは終わらず、リサの纏っている白い粒子の渦が、彼女に注ぎ込まれていく。強烈な白い光の粒子の流れは、まるで繭のようにスーを覆っていき、真っ白な繭が完成した。
視界の隅でジェラルドの体だったものが、噴水のように血を吹き出して崩れ落ちた。
誰も状況を理解してない。静かな静かな草原だった。
「――たっ隊長!??」
彼の横にいた兵士は、ジェラルドの血を浴びて困惑していた。
そして、さっきまで拘束していたスーがリサの元にいるのを見て、思わず自分の手元を見つめようとする。
「えっ――」
彼はまだ気付いていなかった。リサはすでにその首を落としていた。
一息おくれて、血が噴き出す。首無しの胴体がもう一つ崩れ落ちた。
瞬く間に二つの死体が倒れ込む。
それでも感情は冷めなかった。熱せられて真っ赤になった鉄のように怒っていた。
「アアアアアアアアアアアアアアッ!!」
腹の底から力の限り叫ぶ。怒らせたお前等が悪い。もう知らない。もう知らない。もう知らない。もう知らない。彼らはリサを殺そうとした。彼等は殺される覚悟はできている。世界はとってもシンプルだ。
おぞましい力によって、意思に沿ってリサの体が創りかえられる。今の最大限の力が体に表現された。音がクリアに聞こえるようになる。違和感を感じて頭を触ると、立派なウサギ耳が生えていた。直感でスーの耳だとわかってしまう。
彼女の意志も混ざり込み、自分の存在概念が薄れ、ただ怒りの感情だけが残される。
血液が勢いよく散布され兵士達の顔にかかる。回りの兵士達は何が起きたのか、やっと理解したようだった。風に煩わしい喧噪が混じり出す。
「ううわああぁああああーーーー!!」
叫び声が伝染していく。
彼等は必死に逃げようと、散らばった。まるでネコが現われて、逃げ惑うネズミのようだった。
兵士達は狩るものから狩られるものに変化した。ネコとネズミの関係と大きく違うのはその理由である。
命を食べるためではない。遊ぶためでもない。ただ殺すためだった。殺戮が開始された。
残った数は、待ち伏せをしていた兵士を合わせて計七人。一番遠い兵士に斬撃を飛ばす。
「……っ」
何も言わずに死んでしまった。
一番近い兵士は数十メートル正面にいる。その逃げる速度は速いが、一瞬で追いついて蹴りで両断する。
真っ二つになった彼の腕から槍を奪う。それを掴み、逃げる兵士に向かって投擲した。彼も死んでしまった。
四肢が脳からの命令をしっかりと受けとめていく。移動した衝撃で地面がえぐれて草が散る。
残りは四人だった。
命を細かいテンポで、四回のステップで、流れるように刈り取っていく。緑色のキャンパスの上で筆を振って、赤い絵の具で彩るように、鮮血が飛び散っていった。
草原は静かになった。しかしまだ標的は残っている。
そして、最後の兵士が持っていたナイフを奪い取り、残った一匹を一瞥した。
巨大な魔物はリサに背を向けて、飛び立つ直前だった。逃がすつもりはなかった。
数秒間で計八本の足を切り刻み、一つの丸い胴体が勢いよく地面に転がった。飛び上がり、一回転して、脚を振り下ろす。スイカのように頭部が飛び散った。
「……」
魔物はピクリとも動かない。そこにはリサだけが立っていた。
もう全てが終わったのだ。
スーのすぐ横に着地した。もう白い繭は消えていて、彼女の姿は人間の少女に変わっていた。頭には小さなウサギ耳が生えている。この不気味な力を使った結果なのだろうか。
しかし、スイッチを押したリサ自身、何が起きたのか説明ができない。
どうでもいい。考えたくもない。とても眠いのだ。
「ねぇ――」
リサ達の周囲には、赤い液体が誰の血かわからないほど散布されていた。血を浴びた雑草は風に吹かれて揺れている。
「――私どうなっちゃったんだろう」
長い耳が徐々に短くなり、風の音が弱くなる。頭の痛みが戻って、遅れて恐怖がやって来た。この惨状は誰かが起こしたものじゃない。自分自身がやったことなのだ。それだけはしっかりとわかる。
独り言には誰も答えてくれなかった。現実から逃げるように、意識がぷつりと途切れてしまった。