GENE6-2.Midnight Park
深夜二時のことであった。リルは白の紋章が刻まれた、黒のアタッシュケースを片手に海辺沿いを進む。鞄は傷だらけであり、使い込まれた薄い箱形である。
鼻先に当たる夜風は温かく、心地良い。風に紛れて、リルの耳元に彼女の声が届いた。インカムのような通信装置は付けてはいない。胸元の黒いタグ――黒棺から、リルの聴覚神経へ直接、この世界のどこかにいる彼女と回線が繋がるのだ。
『良い夜ですね。緊張していますか? 心拍数が上昇しています』
「アリアさん、これで試験が終わるなんて思えないし、冷静になれないよ」
『会うの久しぶりなのでしょう? 緊張しているのは使徒になる試験の前じゃなくて、彼がいるからじゃないですか? ねえ、アイゼンさん』
「ちょっとアリア! 今繋げてるの!?」
『噓です。大丈夫ですよ-。今聞えてるのはリルさんだけです。安心して下さい、もう一人の受験者のオペレーターは私ではありませんし、私の権限ではできません』
「やめてよ、本当に驚いたでしょ」
『試験前のリラックス方法です。貴方のオペレーターは私なんですから』
ローレンシアの西海岸は温暖な気候で知られている。特産品の甘酸っぱい柑橘類の胸の空く香りが、ぴったりと似合う街だった。
潮風が海岸通りに沿って、埠頭先の遊園地に届く。歩く度に木のきしむ音がする。続くのは波の音だけである。
リルの正面にこじんまりとしたテーマパークがそびえ立つ。木造の桟橋の上にできた、こじんまりとしたテーマパークであり、今回の試験会場。五メートルの高さもない観覧車が、最も大きなアトラクションだった。
『呼吸が落ち着いてきましたね、その調子です。リルさんは適合したのです。選ばれたのです。後は貴方を示すだけ。余計な心配は不用ですよ。自信を持ってください』
機関に入ってからできた唯一の友達のアリアは、博識で、仕事のできる女性だった。呼吸が合うパートナーとの作業は苛立ちが大変少ない。リルがそう思うのは、軍人時代の上司きっとが原因なのだろう。
『――ではたまにはオペレーターらしくなりましょう。我々、アンダーテールでは使徒を目指す諸君にテストを課しています。我々が知りたいのは貴方達の意志とそして力です。では健闘を』
「了解。でも、試験じゃなくて実験でしょ」
アリアの声が途切れると、桟橋の上にぽつんと一人の男性が立っていたのを見て、リルの呼吸は一瞬止まる。遊園地の入口でリルを待っているのは、今回の最終試験のペアである。試験場所が遊園地と聞いて、アリアにリルは随分と我が儘を言ってしまった。
しばらく彼に会っていないので、リルは思わず髪を撫でつけ視線を逸らしてしまう。
屋敷に住んでいた幼少期も、軍学校時代も、浮かれた場所に来ることが一切なかった彼女は、来てみたかったのだ。きっと営業していたら、賑わいがあって、ライトの煌めきが夜の海に映えるのであろう。今のリルにとっては、来た理由が戦いであろうと、休業中であろうと二人で憧れの遊園地に来た事実には変わりない。
「お久しぶりです」
彼に話かけるまでの数秒が、数時間もの長い時に感じてしまった。
「先輩、元気でしたか?」
「おう」
入口であるゲート前で待機していたのは、アイゼンである。
リルはようやく彼の顔を見るが、暗がりで表情は見えない。もちろん二人分の入場券は持っていない。窓口に係員はいない。観覧車やメリーゴーランドは停止して、照明は落ちていた。真っ暗闇の夜の遊園地は異質な空気で満たされている。
そして、アイゼンはおしゃれとは言いがたい実戦向きの服装である。リルと同じゴルド帝国の軍服である。所属が変わっても風貌に変化はない。ぶっきらぼうな返事も相変わらずであった。
「あんまり変わってないじゃないですか。オペレーターさんからのメッセージ聞きました? これが最後の試験ですって。……合格したらまた一緒にいてもいいですか?」
「ああ」
リルは口を滑らせてしまい、長い時を隔てて間合いの詰め方を忘れた――しまったと後悔したが、その後悔に想定外のカウンターパンチである。面を喰らって、自分が今どんな表情をしているのか、記憶が飛んでしまった。
「……本当ですか? ここまで着いてきたんです。先輩の戦い方を一番知っているのは私ですからね」
「おう」
後は勢いだけであった。リルは喜びの表情でアイゼンに一歩、二歩と近づく。アイゼンの反応は皆無である。彼の表情を読み取りたくて、リルはさらに歩みを進める。
しかし、アイゼンは微動だにしない。そして、リルの記憶が歩数とともに蘇っていく。
アリアの言葉よりも、彼の存在自体がどんな鎮静剤よりも効果があった。自分は馬鹿だったとリルの気持は一気に冷めた。
そうなのだ。誰よりも彼の性格を知っているのは彼女なのだ。
「……先輩?」
「ああ」
「話聞いてます?」
「そうだな」
「聞いてないですよね?」
「おう」
「……そうでしたね。そうでしたね! そうでしたね!!」
また素っ気ない一言である。リルに芽生えた淡い感情が全て殺意に変わった。彼はきっと、これからの戦闘のことしか考えていない。
リルは前日ちゃんと睡眠を取れなかった理由であるアイゼンを殺したくなった。彼はやはり、根っからの戦闘狂なのだ。
「わかりましたよ! 待たせて悪かったですね! この馬鹿! ほんと馬鹿! 一辺死んじまえ! あーもう!」
リルはその背中を蹴り飛ばしたくなってしまった。どうせ頭の中は戦いで一杯なのだろう。今にも走り出したくて、うずうずしているのが伝わってくる。武者震いというよりも、酒や薬物の中毒症状に近かった。
目の前のゲートで、マスコットのウサギが嘲るように口を広げていた。「よく来たな!!」と吹き出しまでついている。
「では始めましょうか。ほら念願の戦闘ですよ。さっさと行ってきて下さい。どうしたんですか? 先輩、行くならさっさと行って下さい。私は後衛、先輩は前衛。単純なことも忘れちゃいました?……先輩?」
一目散に狩りへ駆け出すものだと思っていたが、アイゼンは二、三秒沈黙してしまう。リルは拍子抜けであった。動き出そうとした瞬間に背中を思いっきり蹴ろうとしたが、右足をあげたまま彼女も固まってしまった。アイゼンは小さく首を振って、振り向かずにリルへ問いを投げかけた。
「別について来なくていいんだぞ。抜け出すなら今だ」
「は? 何言ってるんですか。頭空っぽくらいだと思っていましたがバクテリア並の知能はあるみたいですね。いいですか!? 私のことは私が決めます。ほら先輩、魔力の反応あります。動かず、誘っています。身体を張って確かめてください。私は遠くで先輩を見守っていますから。それと」
「それと?」
「遅いと私が全部ヤッちゃいますよ?」
振り下ろした右足を地面に下ろすと、リルは自分の立ち位置へ全速力で走り出す。二人の会話がなくなると、埠頭先の遊園地は静まり返り、波の音だけである。二人の獣の試験が始まった。
リルは半ば腹が立っていた。彼のことなどもう知らない。私がそんなに獲物を狩りたいのなら、私が全部狩り尽くしてやる。いつまでもあの頃の自分と思ってもらっては困るのだ。リルは不敵に笑って、自分の開始地点に到着した。
反応から四百メートル。真っ白な壁の五階建てのホテルを、窓枠を足場に駆け上がり、一気に屋上に辿り着く。
対象の位置は既に把握していた。リルの能力、失くし物の見つけ方は反響定位で対象の位置を捕捉する。今では視覚的に捕らえることができた。視界に反応している位置が淡い緑の光源となってハッキリ見える。以前は漠然とした方向と距離がわかっただけだったが、能力は数段強化され、研ぎ澄まされている。視覚、聴覚に魔力の刺激が反映されていた。彼女には魔力が含まれている存在を見聞きできるようになったのだ。
地獄のような育成「実験プログラム」のおかげなのだろう。リル個人に対して設計された特注の訓練である。受けた記憶を隅に追いやりたいほどの過酷な一日が脳裏によぎる。彼女は思わず身震いしてしまった。
「さて……」とリルは建物の屋上で持っているアタッシュケースを握る右手に力を込める。手首を一回転させると二メートル以上の長さの大口径ライフルが出現する。
傷だらけのアタッシュケースは、リル達のような一般の発現者が、神様の力を得て、神の化物になる魔法の道具である。
鞄が好みの銃火器に姿を変えたのだ。自分の能力以上の力が込められた創造物である。リルは新しい能力を手に入れた気分だった。一人に二人分の能力とは狡い――というのが率直な感想である。
『神兵実験』だと、あの幼く見える少女は実験だと言っていた。
「実験を成功させれば、手に入るなんて安いものね」
『あら、首輪を外せばいつだって元に戻れますよ?』
「盗み聞きとは人が悪いですよ、アリアさん」
『ごめんなさいね、リルさん。でもわざと独り言を話しているように聞えたんですよ』
「……だって話相手が欲しかったから。試験内容をもう一度説明して」
『ただの子どもの遊びに変わりないですよ。隠れんぼです。見つけて、仕留めて、黒棺を回収して下さい。あれって結構コストが掛るので忘れずに回収して下さいね』
「なら死刑囚に貸し出さなきゃいいのに」
『試験は試験ですから』
スナイパーライフルを構え、アイゼンをスコープ越しに覗いていた。レンズ中央の十字マークをアイゼンの頭部に一致させる。もちろん引き金に指を掛けていなかった。リルがアイゼンを見続けていると、黒棺からアイゼンの声が伝わる。
『なあそろそろか?』
「ええ、先輩。そのまま進んで下さい。観覧車の前にいますよ。対象の死刑囚がいい人だったら良いですね」
リルが希望的な観測をあげている間に、リルの視界内のアイゼンがいなくなる。
場所を聞くと、アイゼンは真っ先に一瞬で距離を詰めて、横殴りの雨のように黒剣を照射したのだ。以前は一度に二つの具現化が精一杯であった。手を使わずに黒剣を投擲する。武器生成能力――黒い雨も能力の開発が成功したのだろう。
『ああ、先を越されてしまいましたね』
「わざとです。そこまで私は頭に血は上ってません」
真っ赤なぼろ切れで顔も身体も隠していた討伐対象の死刑囚は、手も使わずに、大量の剣で串刺しになってしまった。
「先輩。引き続き警戒して下さい。まだしっかり生きてます」
もともと小さな穴が数個ある布は、さらに穴だらけになってしまう。対象はハリネズミのように剣で刺されているが、全くダメージを受けた素振りを見せずに、アイゼンの方向へ振り向いた。
「おじさん、ボクと遊んでくれるの? ボクと遊んでくれるの? 本当に本当?」
まだ言葉を覚えたての少年の歓喜がテーマパーク中に拡散した。途端、観覧車や回転木馬が動き出し、全てのアトラクションのイルミネーションが光り出す。遊園地が息を吹き返した。
営業再開した中で、狩りの対象である、布の中身が消失した。宙に固定されていた布と黒剣は地に落ちてしまう。その布に纏われていた中身の生体反応が霧散する。遠くから対象の様子をうかがっていたリルにはハッキリとわかった。生命の光が火花のように破裂して、小さな塊に再集合していく。周囲に散らばってアイゼンを囲うように広がりだしたのだ。
「分裂しました。数は十、二十。もっと増えていきます。備えてください。近づいて来てます。動いてるのは全部敵です」
『ははっ』
回線を通して、リルの聴覚に彼の笑い声が届く。
そして、アイゼンに聞えないように意識をすれば、黒棺の通信機能でリルの声は彼に届くことはない。リルは安心してアリアとの会話を再開する。
「そして、私の出番です」
『敵の警戒を彼に注目させたわけですね』
「そういうこと」
アイゼンに駆け寄ってくるのは人型にデフォルメされたピンクのウサギ。小太りで短足で、青のオーバーオールを来ている。おしりに穴が開いており、そこから丸い尻尾が飛び出ていた。テーマパークのマスコットらしい。しかし、お昼のファミリー向けのキャラクターとは思えない。
甲高い声で叫び、片手にチェーンソーを持って、口元におびただしい血痕が付着していた。
「可愛い」
『あら趣味が合うと思います』
次の攻撃はリルの方が早かった。
スコープの十字に捉えた頭部が破裂した。アイゼンの刃が届く前に、力が最も密集した、弱点と思われる頭部を貫いていく。地面の木板にぽっかりと穴が開き、辛うじて上半身の残ったマスコットの動きが止まる。
アイゼンも負けじと、まだ上半身が残っているウサギ達に斬りかかる。奇っ怪な笑い声は一人、また一人と、消えていく。しかし、高台から見下ろし、夜間でも魔力の反応で位置がわかるリルの攻撃が数手早い。二十以上出現した敵の反応も、たった数十秒で消え去ってしまった。
『ラスト一体。本体が現れますよ』
「……」
無言になったアイゼンは、不完全燃焼のようである。
分散した彼の魔力が全て掻き消されて、ようやく対象の本当の姿が実体化した。
その軍服はアギオス連邦の者である。紅い軍服がさらに紅くなり、目も真っ赤に染まっている。正気を保てていない。制御不可能になった発現者が出ることは知っている。彼はきっと黒棺に呑み込まれてしまったのだろう。理性を保てていなかった。
「ボクとっ――」
謝るように「見つけた」と呟いて、リルが彼の頭を撃ち抜いた。着弾した後に鋭利な音が鳴る。破壊音で騒がしくなった時間は数分足らず、また静かな波の音だけの静寂が訪れた。
討伐対象は完全に沈黙。再起動した遊園地もブラックアウト。アイゼンはご馳走が取り上げられた子どものように押し黙ってしまった。
「……少し強くなりすぎていないか?」
「だから言ったでしょう」
一仕事終えて、遊園地の回転木馬の前で佇むアイゼンにリルは声を掛けた。数十秒で彼の元に駆けつけて、スナイパーライフルを自慢げに見せつける。手元で一回転させると、その物体は黒のアタッシュケースに姿を変えた。これがリルの新しい装備、「鞄の中の闘争」という名前の聖遺物である。
「遅いと私がやるって。流石に全部は無理でしたけど。これで終わりです。自分も使えば良かったじゃないですか。先輩持ってるんでしょう? 聖遺物」
「使いたくない。まだこれで十分だ」
アイゼンが方をすくめると、地面に散らばった数百の真っ黒な武器が泡状に熔けて消える。リルは相変わらず頭の固い人だとため息をついた。
「ともかく、何もらったくらいは、教えて下さいよ」
「ああ、そのうちな」
息絶えた軍人姿の死刑囚にはアイゼン達と同じ首輪が付いている。黒のドックタグ、傭兵の特級、使徒の証、黒棺を回収するのが今回の試験である。アイゼンは乱暴にもぎり取った。
サイレンの音が夜の遊園地に鳴り響く。警報にも聞え、これから津波がくるのかと勘違いしてしまう。それが試験終了の合図だった。
『新しい神の使徒達よ。私達は君たちを歓迎します。ようこそ、アンダーテールへ。一緒に世界の平和を守りましょう』
「アリアさん、本当にそう思ってる?」
『台本にはそう書いてありますので、ともかく二人とも合格おめでとうございます。タグはまた後日回収の者を向かわせます。それまで大事に持っていて下さいね』
アイゼンから持っていろと渡された黒棺をリルは胸ポケットに押し込んだ。
彼は戦えなくて悔しそうだ。しかし、リルは営業時間に二人で来れなかったことが悔しく思えてきた。試験合格のお祝いとして、ダメ元でも提案してみようかしらと、リルは思いを巡らしたのだった。
アリア『リルさんやアイゼンさんが持っている、漆黒のドックタグ。これは特級の証、これを持つ者を、「使徒」と呼んでいます』
リル「昔を思い出すよ。私達使徒付きだったし、私は直轄だったけど見たことないんだ。上から下に命令が降りてくるだけ。傭兵って大きい組織だよね」
アリア『リルさん達はかつて軍人でしたね。国に仕える軍人は、大きな国でも主要都市と、防衛の要となる地方都市に配備されるているだけで、機関に比べると規模は小さいのです。各国抑止力として使徒を派遣されています』
リル「軍人なんて、固っ苦しいし、息苦しかった。なるものじゃないって。傭兵に関しても全く同じイメージを持ってるけど。ちなみに軍の幹部と傭兵の上級が同じ能力レベルだね、だいたい」
アリア『世界には八つの国だけではありません。それ以外の国のようなもの、正確には国の残骸があります。そういったものや、天災の維持、管理を世界から託されたのが機関で有り、我々アンダーテールはその中核でもあるのです』
リル「まあアリアさん。お詳しいですね」
アリア『仕事ですから。使徒の特典である黒棺と聖遺物、そしてどうやったらなれるかは次回ですね!』