GENE6-1.Present Day
私はどこにでもいるし、どこにでもいないの。
白色パネルが貼り付けられたドーム状の部屋に彼女はいた。一枚一枚のパネルが光源となって、ぽつんと配置された作業机をくまなく照らす。デスクチェアに座ったヴラドレーナと、ローブを着て立ち尽くす者が居た。
机は殺風景な白だった。冷めたコーヒーと一見小物入れに見える箱が置かれている。片手で持てる大きさの木箱は、側面に金色のクチナシの花がこしらえられている。
そして、部屋の中央、ヴラドレーナの真横には高さ三メートルの黒のモニュメントがある。直径二メートルの球体を掲げている、地球儀を墨で塗りつぶしたような構造物であった。
円状の真っ白な床には他に何も置かれていない。室温は低くはないが寒々しい空間である。
「あーとーちょっとー」
ヴラドレーナは椅子に深く腰掛けながら、彼女の膝上に浮く半透明のキーボードを、目にも止まらぬ速さで打ち込み続ける。コードもケーブルもない、ディスプレイすらなかった。まるでピアノを演奏するように、アルファベットに似た文字列を入力している。
棒付きキャンディを咥え、可愛らしいドレスに身を包む彼女の異様さが、無機質な部屋の内装との対比で酷く目立っていた。
「あっとすっこし! あっとすっこし!」
使用人のようにブラドレーナの背後に立ち、顔はフードで覆われて、男なのか女なのかもわからない。部屋に溶け込んでしまうような白のローブを着ていた。ヴラドレーナの言葉に応えてくれはしなかった。ただじっと床にこびり付いたように立つのみである。
「終わり? 終わった! やっとだよー。 もう睡眠時間を削らなくていいんだ! 終わったよねっ!? 終わった! うん、ちゃんと書き終えた-!!」
ヴラドレーナのキーを叩くリズムがテンポ良くなり、彼女は満面の笑みになる。ついに作業が終わったようで、両腕を天に掲げてガッツポーズをおこなった。そのまま空を仰いで椅子の背もたれに体重を預ける。
「エアちゃん、僕はやったよ。ついにここまでシステムを回復させた」
『でも、もっと褒めてあげる! すごいよー! さっすがレーナちゃん!』
答えるのはドームの内壁パネルから発せられる声だった。パネルは照明だけでなく、スピーカーの役割もあったようだ。
快活なエアの声が、ドーム内の寂しげな空気を一気に打ち消した。
「有難う-! 褒めて! もっと褒めて! おっと褒めても何も出ないんだぜっ。なはははは。一応、チェックしとこ」
もたれかかったまま右手を掲げ、ヴラドレーナが指を鳴らすと、プラネタリウムのように一斉に大小異なる無数の画面が現れる。そして、大量の文字が滝のように流れ始めた。寝たままの体勢で、彼女は両手を突き出して、目前に出現したキーボードで操作を始めた。
「もうメインがやられて散々だったよ。居ない神様を呪ったね。一晩で、たった数時間で機能停止になってさ、僕の気分は世界の終わり。でももうノープロブレム! 修復して、移転作業もほぼ完了した。再設定がしんどかった。座標もラインも全部変えた!」
『ほんとランちゃんには手を焼かされるよー』
「ねぇ、聞いた? ノエルで綺麗な花が咲いて、街を埋め尽くしたんだって」
『そっか……間に合わなかったね』
文字列から右手を離し、ヴラドレーナの左手の動きが倍速になる。彼女は開いた右手で、咥えた柄付きのキャンディを持って、隣の黒い装置を指し示した。
「うん、事後処理になるのは悔しいよ。でも手は打ってあるし、もう起動できる。これから行って、全部吸い取って終わり! やっと治った!
誰かさんが壊したせいだよ!――エアちゃん、友人だったなら止めてよ」
『無理だよ-! 知ったのレーナちゃんが接触した後だもん。その後探してるけど不可能だよ。ランちゃんは欺くことが本分なんだもん』
「エアちゃんなら何でもできるでしょ。僕の先生なんだから」
『無理なものは無理! もう力なんて残ってないんだから』
「無理じゃないって――だってさ、ここに来て、僕一人なら何にもできなかったよ」
『ちょっと! レーナちゃん! いつもと雰囲気違うよ。どうしたの?』
ヴラドレーナは目を閉じる。ブラインドタッチをしたまま、こくりと小さく頷いた。
「うん。もう終わるから。後は溜まったら、起動するだけ」
『やっぱり進めるつもり?』
「うん。何度言っても止まらないよ」
『レーナちゃん……』
「全部知ってるよ。教えてもらったときはそりゃあ僕だってビックリしたけど、でもやめない。何度止めたって無駄。でも、エアちゃんには感謝しているの。きっと僕だけだったら上手くいってない。こっそり手助けしてくれたから、僕はここまで生き延びたの」
『私だってそうなんだよ。そうね、教えたのは本当に昔』
「僕がゲームクリアになりそうなころ、残ろうとした僕をエアちゃんは全力で止めたよ。今でも思い出すよ」
『懐かしいね』
「でも、私は後悔はしていない。あの人を何とかしたいって思ったから残ってる。だからやる。止める忠告なんて無駄だってわかってるでしょ」
ヴラドレーナは無言になっていた。考えがまとまらず、口を開けたまま硬直してしまう。作業している手も止まる。身体を起こし、舐めていた飴玉を噛み潰して、そのままコーヒーを流し込む。その苦さに顔をしかめてお腹に手を当てる。
「苦っ」
『だから、無理して飲まなくていいの!』
「そういうこと。だから僕に言っても無理なのさ」
投影されたキーボードに視線を集中させて、ヴラドレーナは作業を再び開始する。
「あの人のことは結局僕もよくわからないよ。でも、これが成功したらね。みんな、みんな一緒になれる。僕はね。彼のことがやっとわかるようになるのが嬉しいんだ」
『……』
「綿で傷つくくらい繊細なフリをするけど、実はもっと図太い人だと思うの。おっと、慣れないこと言うことじゃないね。聞かないで、聞かなかったことにして」
指を真横にスライドさせると、散らばったウィンドウと手元のキーボードが一斉に消えた。そして、真っ黒な地球儀はブーンと音を立ててゆっくり回転し始めた。ひとしきりの作業が終わって伸びをするヴラドレーナは椅子から立ち上がって、置かれている木箱をヴラドレーナは撫でた。
「きっと自分の意味がわからなくなってるだけなんだよ。だから教えてあげたいんだ。エアちゃんも、また会える。僕がエアちゃんを元に戻してあげるんだ」
そして、ヴラドレーナは木箱を持ち上げる。席を立ち上がって、後に立つ白いフードを被った者の細い手を握る。二人はそのまま部屋の出入り口へ進んでいった。
意志のない呻き声がフードの内側から漏れていた。それを聞いたヴラドレーナは伏し目がちになってしまった。
「本当に感謝しているの。でも絶対にやめない」
『……わかったから、わかったから。でもこれだけは言わせて、レーナちゃん有難う。最後に私の我が儘まで聞いてくれて』
「エアちゃんはやめないの? 一番安全なここに……」
『やめないよ-! ごめんね、最後くらい頑張りたいの!』
「どうしても? だって賭けなんでしょ? やっぱり危ないよ。私一緒に行くよっ」
『どうしてもさ! 知ってから準備に時間がかかちゃったけどね。久しぶりだよ-、こんなにワクワクするのわね! 有難う、レーナちゃん。でも駄目。流石にバレちゃうよ。ここまで私を隠してきた意味がなくなっちゃう』
「エアちゃん……」
『なあに』
「ずっと、ずっと有難う。当分、お別れになっちゃうのかな。でもすぐに会えるから!」
『レーナちゃん……やめてよ。そんなこと言わないで。私はただのモノでしかないんだよ。もう話すので精一杯なんだから!』
自動ドアが閉じるとドームは消灯し、漆黒のモニュメントは暗闇に瞬く間に消え去って、
『涙だって流せやしない』
とノイズが混じり始めた声が、ぼそりと残った。