GENE1-6.今日は良い日になるんですよね
ひんやりとした空気が鼻につく。相変わらずの地下空間だった。やっぱり夢じゃない。それにもう夢だとは思えなかった。一度深呼吸して、気分を無理やり切り替える。
「朝だ! たぶん!」
この世界に来て、二日目。今日はもう驚きたくない。もう魔物なんて見たくない。望んでいるのは平穏だった。
一晩寝て気分は落ち着いた。もちろん、状況の整理は全く付いていない。しかし、焦っても仕方がなかった。
爽やかな朝だった。爽やかな朝だと思い込むことにした。
ただ、地表の様子がわからないので、正確に朝かどうかはわからない。
準備してもらった服や靴に着替える。外を歩き回るのにずっと裸足は精神的に辛かった。村長であるヘンリには何度お礼を言っても感謝しきれない。
村長の家の外に出てみると、真っ暗な空間が広がっていて、夜見た光景とは、余り変化はない。心許ない灯りが散らばっていた。
「やっぱり私にとっても、知らない場所だよね」
足下にいるスーに笑顔で語り掛ける。落ち込んでいてもどうしようもない。朝食をもらい、奮い立たせた身体で伸びをする。
幸いにも体調も良好だ。辛い倦怠感はなくなった。纏う熱量が強くなって、昨日より速く走れそうな気がする。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。元気が良いですね。ククリの森の祠には五時間ほどかかるでしょう。あとこれを渡しておきます」
手渡されたのはザラザラとした白い封筒だった。おそらくは墨で書かれた宛名書は達筆で、ヘンリの立ち振る舞いが文字となって現われたようである。
「昨日話していた紹介状です。これを見せれば、森を管理する総代会が受け入れてくれるでしょう」
「――ありがとうございます。本当に助かります」
そう、この世界にきて悪いことばかりではなかった。
ククリの森の祠は総代会という組織によって管理されている。神聖な場所で厳重に警備されていた。お告げで呼ばれたリサをその総代会が保護してくれるらしい。紹介状を書くから問題ないと、リサの胸中を察して、村長は優しく教えてくれた。
この世界が一体なんなのか、余りにも謎が多すぎる。しかし、それ以前にリサは食べ物を確保できるかさえ怪しい状況にあった。世界を知ることより、まず食べ物と安全だ。あのぬいぐるみに何か言われた気がするが、そんなのどうでも良かった。まずは生き抜くことである。封筒を受け取って、衣食住は何とかなりそうだとホッとしてしまう。
しかし、もう一つ聞いておかなければならないことがあった。朝から足下にくっついている、スーの件であった。
「すっすみません。あと一つお話したいことがあります」
「どうしましたか?」
「スーを連れて行っても良いですか?」
「問題ないですよ。他の部族なので、本当は私は許可を出せる立場にありませんが――」
ヘンリはあっさり承諾して、リサは拍子抜けしてしまった「スーもその方が幸せでしょう」と彼はぽつりと言って、昨日と変わらない微笑みで、ヘンリは小さく頭を下げた。
「スー! 連れて行って大丈夫だって!」
「……」
リサはスーに伝えようと笑顔で話しかけが、スーは不安そうに下を向いたままだ。まるで世界を拒絶するようだった。
少しコミュニケーションができるようになった。しかし、それでも『会話』するのは難しい。だが、リサは話しかけ続けようと決めていた。
出発の準備は完全に終わると、迎えの兵士がやって来た。ヘンリにしっかりと最後のお礼を伝え、リサ達は村の中心を通る階段を降りて、村の出口である門へ向かう。
スーがリサの腕にしがみついてきた。リサはそれを優しく握り返す。
出口に近づくにつれ、スーの力が強くなっていく。肩も震えている。門の前に立ち止まると不安げにリサを見つめる。それに答えるように、しゃがんでスーの視線と合わせ、笑顔で抱きしめた。どうやって伝えようかと悩んでいると腕の中のスーがもがく。また強く抱きしめ過ぎてしまった。
「ごめんごめん! またやっちゃったね」
両腕で抱きしめると、形容しがたい柔らかさと温かさが胸にあたった。
門の前に、リサの案内をする兵士達が集まっていた。例の化物に対する警護のためだそうだ。ヘンリが手配してくれた。草原に出てから森まで移動する間に、例の魔物に襲われる危険性があるからだ、と説明を受けた。
朝からあの隊長の顔は見たくなかった。忌々しい兎を見ずに、安心してしまう。これまで大きなトラブルなく生きてきた、そんなリサにとって、まるで犯罪人のように扱われるなど、強烈な体験である。あの向けられた敵対心は、のど元に棘のように刺さっていて、あまり思い出したくない大剣だった。
「ほら、スー。行くよ?」
人数が揃い出発しようとしたときである。
門の前で立ち止まったままのスーを引っ張る。そのまま置いてかれると思っていたのだろう。歩き出したリサを見て、信じられないように目を大きく見開いた。
リサに手を引かれ、スーは離れていく門を見つめる。そして、不思議そうな顔でリサに視線を移した。
「――っ!?」
笑顔で返すと、やっと理解してくれたのかもしれない。初めて笑顔を見せた。つないでいたリサの腕に勢いよく飛びついた。
「もう、スーいきなりどうしたの?」
「……ひっく」
腕にしがみつくスーから、小さな嗚咽が漏れる。泣いているスーを見て、なんとかしなければと自分を奮い立たせた。何もわからない世界で唯一できた縁だった。連れて行くことに関しては、全く迷うことはなかったのは、自分でも驚いていてしまった。
スーも喜んでくれるなら、リサとしても本当に嬉しかった。
暗いトンネルをランプが照らし、集団は徒歩で地下道を進んでいく。細長く伸びる線路についてリサが聞くと、この線路は石材を運ぶためのトロッコ用だと、横にいた兵士が簡潔に答える。
列の先頭の兵士がランプを持って進んでいる。昨日の夜は見えなかった荒々しく削り取られた壁を指でなぞり、その感触を再確認する。ここまで寂れた通路だとは思わなかった。数メートルの間隔で設置されている木の梁は一部風化して、どこから聞えてくるのかわからない唸るような風の音が聞こえた。
スーはリサとずっと手をつないだままである。リズミカルに腕を振る彼女を見て、リサの不安は大分軽くなった。
出発して三時間ほど経過した。線路に沿って先の見えない道を進んでいく。休憩時間中はスーと言葉の練習を繰り返す。合間にスーをくすぐりながら、スキンシップは大事なんだと実感してしまう。
まだ、地下空間を抜けないが、リサの体に疲れはほとんどない。しかしずっと地下にいるので、外の空気を吸いたくなってきてしまう。昨日の夕方からずっと地下にいる。半日以上、地面の下にいるのだ。冷たい空気が鬱陶しく思えてくる。
曲がりくねった部分を抜け、トンネルが真っ直ぐ伸びている。出口が近いのだろう。道幅がだんだん広くなって、線路が途切れ始める。小さな駅のような場所にトロッコが何台か置いてあた。
道の続く方向を見ると、光の点が見えた。地下に潜って一日も経っていないのに、太陽光を見ると嬉しくなってしまう。
外に出られると思うと、リサの歩みが少し速くなった。
「ねぇ! スー! 外だよ! 外!」
リサがスーの方を見ると笑顔で答えてくれた。スーは声こそ出なかったものの、口角を上げ名前を呼ぶそぶりを見せる。リサは堪らずスーの頭を何度も撫でる。
光の円が大きくなり、出口まで距離はあと数百メートル。陽光はまばゆくなって、リサ達のいる場所まで射し込んでいる。
やっと外の空気を吸える。閉鎖的な空間は想像していたよりも精神をだいぶ締め付けていたようだ。
自然光が目に突き刺さる。久しぶりの光だった。一面の緑色が、トンネルの外にうんざりするほど広がっていた。
前を見ると、兵士達は既に外へ出て、リサの方を向いていた。待ってくれているのだろうか。
トンネルを出て数歩進むと、
頭部に衝撃が走った。
鈍い音が鼓膜まで伝わり、パキリと亀裂音が伝わる。
前のめりに倒れた。柔らかい草の感触を全身で味わった。