GENE5-8.宝石の桜
淡紅色の世界を一望する。リサは屍臭を感じたが、その匂いの元はわからなかった。腐敗した肉が落ちているわけでもなく、空き缶一つ見当たらない。生活の気配がなかった。
桜咲き乱れ、街はおぞましくも美しい。
リサは廃墟と化した都会に入る手前にいた。一般道路沿いのビルの上。立体交差するハイウェイの奥は一面の桜色である。
高層建築物の壁面から無数の桜が生えて、凹凸のついたシルエットになっている。地上も舗装された道路が隠れて見えなくなるほどに、桜で埋め尽くされていた。
リサ達は世界を大きく移動して、ここでは冬が始まる季節になった。
寒気がまして、生き生きと茂る桜の不気味さが倍増する。ビル群を呑み込むその姿は食パンに湧いた黴を連想される。桃色の菌糸体だった。
リサとフィンとスー、三人組で臨むのはノエル王国の首都レークヴィエム――だった場所である。聖地とも呼ばれ、千年前に神様が生まれたという伝説もある。
『こっちは着いたよ。そっちはどう?』
リサは顔の横に浮かぶ金属製の球体に話しかけると、白色のボディに一つだけボタンのように着いている赤いランプが瞬いた。この謎の機械は先日のランの実験の産物であった。
通信機器として使え、その他術式補助や、簡易演算等の多数の機能が備えられているが、リサは正直恐ろしい。突然、大爆発を起こしても驚きはしないだろう。
聞えてくるのは遠方の地にいるアルルの声だった。
『頼まれた任務は終わりです。空振りですね。これから|本部〈ホーム〉に帰ります』
『そっちは寒くない?』
『寒いです。緯度が高くなりましたからね。温暖なそっちが羨ましいです。メアちゃんなんか、体が固まってよぼよぼの老人みたいになっちゃって。今レイの毛皮で温められています。ものすごくふてくされた顔をしてますけど』
『ふふっ、それは面白いね』
『そっちに傭兵達が集まっていると聞きます。リサさん、くれぐれも背後に気を付けて』
『心配しないで、何かあったらすぐ逃げるから』
眼下の桜の海を再度眺めると、空に複数の黒い点が浮かぶ。重苦しい機械音が届き始めた。
世界の住人である傭兵達だ。よくあそこまで数を集められたのだと感心してしまう。
リサ達のいる地点から街を挟んで反対側の上空では、彼等が乗っている浮遊船数隻が着陸しようとする最中である。
「彼等も観光に来たわけじゃないみたいね」
「傭兵ですか。懐かしい響きです。本当にどこにでもいるんですね。しかもいつもより数が多すぎません?」
「今回に限っては来たくてきたわけじゃ無いと思うよ。機関からの命令には逆らえないんだし。どうしたのスー、顔暗いよ? 彼等のこと好きでしょ?」
「そうですね。大好きですよ。だっていきなり喧嘩を売ってくるんですから。本当に柄の悪い連中です。首輪がついてもそこいらの野良犬より小汚い」
スーは耳を鬼の角ように尖らせている。人目もないので帽子を脱いで、臨戦態勢に入っていた。
リサはもう一人方へ視線を動かすと、目が合ってしまう。可愛らしい瞳だった。
フィンである。真っ赤なマフラーで口元が隠されて、生気の無い目だけで表情を読み取るのは困難である。
「リサどうしたの?」
「フィン君、やっぱり憂鬱だよ。鉱山のカナリアを見ている気分」
「何人生き残りますかね」
「知らない。あんなに数を投入されても、私としては邪魔が増えるだけなんだけど。でも」
「でも?」
「これで『彼』がいるのは確定だよ」
「そうですね……」
リサ達は港街の桜の秘密を追ってきた。
その入手経路を辿り、見つけた矢先に起きた大災害である。
宗教の総本山とも言える王都レークヴィエムはご覧の通りの有様だった。
「モアさんの様子聞いてる?」
「調子良いみたいですよ。本部で子供達の面倒を見ているそうです。女手は足りなかったから助かるとヴァンが言っていました」
「そう。良かった」
人が生き返る。
夢みたいな話である。
そんな虚言みたいな植物の出所は、見るも無惨に森閑としていた。数日前まで喧噪が鳴り止まなかった巨大都市も、虚空に飲まれたように音がない。
一日で起きた「災害」である。「大開花」と世間では騒がれていた。
屍者の生還なんてあり得ない。しかし、どう扱いを間違えてしまったのか。いや、そもそも扱っていいものではないのだ。
「何か合ったんだろうね。でも原因を探すのは私たちがやることじゃない」
「お姉様の目標はどこにいるんでしょうね」
「あの野郎は陰湿だからねー。たぶん、自分の引き起こした事態を近くで観察するの。一回目はアルルの中だったでしょう? 誰かを操りながら、お前のせいだよって笑う最低、最悪の……ああもう嫌い、思い出したら腹が立ってきた」
「落ち着いてください」
「ふふっ、有難うね」
撫でやすい位置にあったスーの頭をなで回す。高ぶった精神を彼女の艶やかな黒髪でいやしていく。耳を触るとくすぐったそうに小さく笑った。
「そろそろ行かなきゃね」
敷き詰められている花弁が薄っぺらい剃刀の刃に見えてしまう。踏みしめると痛そうだった。何がしかけられているかわからない。あそこは彼の腹の中。入念な準備をしなければならない。
「だからきっと『彼』は、そういうところにいるんだよ。『彼』はいつも中心にいる。一、二匹目は早めに摘めたけど、もともと事前に処理するっていうのが無理な話。三匹目はここまで育った。壊しがいありそうね」
「あそこに入るのなら気をつけた方がいい」
「抜かりはないよ、フィン君。そして、あんな桜は根絶やしだ。本当だったらお酒を持ってきてみんなで楽しく騒ぎたいけど」
ついに満開の桜へ歩き出す。
都市に収まりきらないほどの人口は零になっていた。二日前の『大開花』によって、都市は消失同然だった。
「こんな桜の下じゃお酒も飲めない」
彼女は西側にいた。
路肩に駐車していたのだろう。道路脇の桜並木に車が何台も突き刺さっている。
*******
僕は運が悪い。生まれてから訪れた幸福は一つもなかった。
十万人以上の住人が全て消え去った都市レークヴィエムの東側二キロの地点。ここ一帯は桜に包まれてはいない。しかし、もぬけの住居が続いていた。争った形跡もない。構造物だけが残る。
僕たちは、抜け殻になった学校の周囲に巨大なテントを設置していく。僕たちに指令を出す人達はここを拠点とするのだろう。
人生初の空の旅は、汗とオイルとエンジンの音だけだった。
窓一つない密室に、屈強な傭兵達と一緒に鮨詰めにされてここまで来たのだ。
僕たち兵隊は人じゃない、物として扱われるのだ。
傭兵になって最初の仕事が、この大規模作戦である。
こんなに傭兵がいるとは驚きである。人手は根こそぎかり出されたのだそうだ。周囲三カ国から集められ、構成された調査団に紛れ込んだヒヨコ一匹が僕である。
よりによって初仕事が。百年に一度の規模の作戦である。これは短い人生の中で、最も不運かもしれない。それが率直な感想だった。
「ここは全てが最悪だ」
「任務がくだった。明日からあの森に入る」
「早すぎないか」
騒がしい。人の声が邪魔だった。
日が落ちて、空は血をこぼしたように赤くなり、魔導灯がポツリポツリと灯り出す。災害の跡地のピンク色が白色光と夜の夕闇と混ざり合って、幻想的な雰囲気になっていく。
むせ返るような花の海の水平線。毎日ここにいるのかと愚痴をこぼす隊員もいたが、僕はそうは思わない。
小隊で輪を作って食べる冷えた缶詰は思ったよりも不味くはない。
しかし、毎日食べられるかと自問自答すると、食べられると自信を持って答えることはできない。
みっちりと詰められた塩味の鶏肉のパテを掬って、クラッカーに載せて食べる作業である。
「ルカ。おい、ルカ」
僕がスプーンの上のパテを見ながら、一日を振り返っていると唐突に名前を呼ばれた。
二年先輩のケニーだ。
今日の顔合わせで始めて会って、同い年であることをきっかけに比較的会話するようになった。
彼は終始お調子者な言動であるが、今だけは真面目な表情である。
目が泳いでいる。一面の花と都市の残骸の光景が気になってしまうようだった。
「見ているだけで寒気がとまらねえ」
「僕は綺麗だと思っちゃうんですけど」
「そりゃあれだ。きっと頭が」
ケニーが手を広げて、顔の横でヒラヒラと降った。イカレテいると言いたいのだろう。
僕は咲き乱れている花よりも、花弁の波打ち際に向かって歩く、二人の女性が気になった。
命令で縛られた僕達が蠢く中で、彼女達だけが自由気ままに散歩していた。拠点を出て、森の方へ出て行ってしまった。
淡いピンクを背景に、真っ赤なワンピースに黒の薄手のジャケットの二人。着いていきたくなってしまう。滑らかな髪は薄い樺茶色である。一人はショート、一人はロング。髪型が違うだけで二人は瓜二つだった。
「ねぇ、ケニー。あの二人は?」
「おい、今は仕事なんだからケニーさんだ。さんを付けな。あの二人は驚くなよ、普段お目に描かれない使徒様だ」
「本当に?」
使徒とは国に一人二人いるかいないかの、八大国機関が抱える抑止力である。神の血を濃く受け継いだ彼女達が、まさか自分たちに混じって作戦するとは思えなかった。
「俺も見たのは一度か二度しかない」
「近寄らない方が無難だぜ。なんせ疫病神だ」
一緒に缶詰飯を食べているジールが口を開いた。無駄な事は一切話さない彼がそういうのなら、本当にそうなのかもしれない。
「本当かよ。ジールのおっさん」
「……近づくな。話しかけるな。眼を見るな。命が惜しいのならな」
ジールはそれ以上喋らなかった。確執があるのは一目でわかる。彼の傭兵歴は一ヶ月だけの僕の数十倍。思うところがあるのだろう。
「あんな美人なのにな。勿体ない。お前もそう思うだろ?」
「……」
「なんだよ。図星かよ」
「いや、そういうのとはちょっと違うかな」
歳は若い。僕よりも三つか四つ年上だろう。
使徒は全員、あそこまで若いのだろうか。健康的な美しさだった。すらっとした手である。二人は自分たちとは違う次元にいた。
だからかもしれない。僕はどうしてかあの二人から目が離せなかった。彼女達の瞳が生気を奪い取るほど曇っていたのだ。
「ルカ。明日に備えて装備整えておけよ。食料も確保しておけ」
「うん、わかったよ」
僕でも命は惜しかった。ただ他人の命が惜しいとはだいぶ違うのだ。リスト通りに必要なものをチェックしていく。プレート一枚の有無で生死が分かれる。
万全の仕度をして明日に臨む。
食事の後片付けを終えて、頼まれた雑用を全てこなし、後は寝るだけになった。
僕はどうしても寝付けなくて、固いベットから逃げるように外へ出る。寝静まった夜は気持ちよかった。夕食のときよりも桜が迫ってきているように見えてしまう。
夜に散歩しているのは一人だけじゃなかった。もちろん見張りをしている人もいるが、用もなく出歩くのは僕だけだと思っていたが違ったのだ。
あの彼女達とばったりと僕は出くわしてしまう。
「ねぇ、ハル。抱えきれないほど死がやってくる」
「そうね、ベル。だから私たちは死なないの」
そんなことを会話している二人と目が合ってしまう。
僕は苦笑いすることしかできなかった。謝りの意味を含んだ会釈をして立ち去ろうとすると、髪型がショートのハルと呼ばれていた片方に声を掛けられてしまった。
「良い夜だと思いませんか?」
「……ええ」
「ずっとこのままで良いのになんて思いませんか」
「え?」
「ごめんなさい。変なことを聞きましたね」
ハルという女性は僕に微笑んでお休みなさいとぺこりとお辞儀をする。ベルと呼ばれていたもう一人は怖い顔をして僕を睨み付けていた。
僕はその迫力に蹴落とされて、そうですねともお休みなさいとも答えることができず、また小さく会釈をして逃げるようにベットへ潜り込んだ。
火の手が上がったのは午前二時十一分五十六秒。結局眠ることもできず、ずっと秒針を見つめていたのだ。
慌ててテントから出ると、満開の桜の下にいた。
あんなに離れていた海の下。信じられなかった。
どこからか悲鳴が花弁へ吸い込まれていく。
僕は運が良いのか悪いのかわからなくなった。