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GENE4-5.歓喜の歌


 私はアルル=リカード。

 この名前を呼んでくれる人はもういないと思ってた。


 私は耳を削がれた。これは八年前の実験。それから音は聞こえない。何も聞こえない。けれど不思議と生きている。


 顔の皮を削がれた。これは六年前の実験。それから上手く笑うことができない。そもそも笑うことなんてなかったから、私の生活には影響はそれほどなかった。妥協すれば檻の中も案外住みやすいのだ。

 

 尻尾はとっくの昔になくなった。これは最初の実験だったかな。歩くのは不便だったけど、すぐ馴れた。あのときはまだ泣くことができた。


 目が見えなくなった。これは数ヶ月前。割と最近だ。でも、もう奪われることは当たり前。なんともない。


 体にメスを入れられていない場所はない。切り傷だらけ。この前数えてみたけれど、多すぎていつの間にか寝てしまった。


 目が見えなくてもわかる。痛いし、でこぼこしているから簡単に分かってしまうのだ。


 奪われることは当たり前のはずなのに。この悲しさはなんだろう。この空しさはなんだろう。この悔しさはなんだろう。


 ――どうして私ばっかり。


 だめ。こんなこと考えたくなかった。


 考え始めると、どうしようもない渦に囚われてしまうから。ここじゃ逃げることなんてできない。誰かが解放してくれるわけじゃないの。歩き出す術を探すことすらやめてしまった。残された手段は自分を殺すことだった。自己を滅することだった。私を捨てることだった。


 消えてなくなりたい。いつもいつもそう思ってた。


 この実験ケージの中にいて十年。そう思い続けて十年だ。

 鉄とコンクリートだけの仄暗い空間。

 ここから見える景色は、視力が無くなっても瞼の裏に焼き付いている。

 私にとっては使い勝手の良いマイルーム。鉄格子の冷たささえ心地良い。


 実験動物用のケージは囚人の檻のように隣り合って、毎日誰かがいなくなっては補充されていく。みんな私と同じ獣人だった。体毛は次第にはげていき、体はやせこけて骨張ってくる。歯が抜け始めたら死期が近い合図だった。


 みんな、みんな、みんな、いなくなってしまう。

 私の話相手はみんないなくなってしまう。


 みんないい人だった。だから、早く抜け出せたんだろうか。


 どうして私はいなくなることができないの。どうしてまだいるの。どうして消えて無くならないの。

 ねぇ、どうしてこんなに丈夫に生まれてしまったの。


 この闇に呑み込まれたら、息ができなくなってしまうの。

 でも、寂しいの。どうしようもなく孤独なの。


 誰か私を助けてよ。

 誰か私を殺してよ。

 私は死にたいの。消えたいの。無くなりたいの。どうして早く死なないの。死ねないの。


 私は叫ぶことはできないけど、憎むことはできた。

 私は叫ぶことはできないけど、願うことはできた。

 私は叫ぶことはできないけど、求めることはできた。


 そんなときだった。彼が現れてくれた。彼は私の名前を呼んでくれた。私を消してくれる。これでどんなに楽になるか。もう嬉しかった。


 涙なんかもう枯れていると思ってた。


 そう、私のケージに彼が来てくれたの。


 私はすぐに気付いた。そして、彼も私に気付いてた。彼はカランと転がって私の足下に。

 ああ、あなたこそ私が探していた人。私にはすぐにわかったの。


 手触りでそれはお面だとわかった。

 

 彼は私の名前を呼んでくれた。そして、私は生まれ変わった。

 生まれ変わったの。これで死ねる。


 十年ぶりの外の空気だった。



******



 生者のための精霊祭(ストロム・ディアロス)の初日。遠方の賑わいが空の向こう側から聞えてくる。


 帝都郊外の豪邸、山の上にあるそこからは、大都市の摩天楼が燦々と夜空を照らす様子が見えた。


 その屋敷の持ち主、シュターゼル家はゴルド帝国御三家であり、技術開発によって帝国の繁栄を支えてきた。個人が所有するのには余りにも広すぎる敷地の地下は、国家機密とされている能力研究のための施設、第一研究所。国民には口が裂けても言えない、国の暗部の塊が埋まっているのだ。


 国内の誰もが知っている名家の屋敷は豪華絢爛に装飾が施されていた。

 屋敷のダイニングルームには、高級家具であるミクロジ材のテーブルと椅子、銀の燭台や食器、グラスが並び、その一つ一つに家紋が刻まれたオーダーメイド。


「こんばんは。こうして面と向かって話したのは初めてだね。ジーンセルナス=オリオ=シュターゼル。ジーンでいい。君のことはなんて呼べばいいのかい? ああ、もう私は興奮して手が震えてしまうのだよ」


 机の上には二人分の食事。初老の学者然とした初老の男性、ジーンは嬉しそうに語り出した。

 食卓の端と端に彼の他にもう一人、怪物が座っている。


 狂気を纏った怪物は、身の毛もよだつほど美しい、濃艶な女性で、華奢な体躯、顔は能面で隠されていた。

 明らかに鬘とわかる人工毛の長髪は背中まで伸びていた。

 手には黒い手袋と足にはタイツ。肌を一切晒していないのに、その瘴気は隠し切れていなかった。彼女は狂気と凄絶の混合物。

 それがジーンにとっては、宝石のような輝きを帯びているように見えているのか、恍惚の表情を浮かべていた。


「世界は君たち、見知らぬ偉人(ストレンジャー)によって動かされてきた。なのに世界は君たちを隠蔽しようと躍起になっている。けしからん。全くもってけしからん!」


 ジーンは唇を震わせながら、前屈み乗り出した。対して、怪物の彼女は首を傾げながら、天井を見つめていて、聞いているかどうかすら怪しかった。


 そんな彼女を全く気にせずに、ジーンは己の研究に対する熱意をぶちまけていた。


「そもそもこの世界の現実はほんの一部に過ぎない。この世界は私たちにとって、隠された事実が多すぎる。ほんの少しだけ疑いを持てばすぐわかるのだが……何も知らない馬鹿はのうのうと太陽の下を歩いている。その地面が何でできているかなんて考えてすらいない。君たちによって引き起こされた技術革新で世界は創造されたというのに」


 その語り口調は早口で、視線は正面にいる彼女に注がれていた。


見知らぬ偉人(ストレンジャー)の存在は世界でも限れられた者しか知らない。しかも、禁忌として認知することすら恐れられている。触れてはならない。知ってはならない。公にしてはならない。世界の秘密。我が一族は力の研究の傍ら、その解明に努めてきた。私の父も、祖父も、君をずっと捜し求めてきたのだよ」


 彼は鼻を膨らませて、料理そっちのけで喋り出す。

 誰が見ても要注意人物だとわかる風貌の彼女を目の前に、ジーンは一呼吸してほんの少し自身を落ち着かせた。


「私は深淵を覗きたい」


 真剣さを十二分に含んだ強い意志が、その声から読み取れた。

 ジーンの言葉に対して怪物は無関心なまま。話を聞く気なんてない。天井を見つめ、首をぐらぐらと振っていた。


「すまないね。窮屈な思いをさせてしまって、私の本意では無いんだ。こうでもしないと一対一で食事もできない。私としては君とこうして食事を取りたかっただけなのに。君の言うとおり必要な物は手配した。少しだけでも私と会話してくれるだけで良いんだ」


 彼女の両手、両足には鋼鉄の枷。その細い腕では、暴れてもビクともしないだろう。

 けれど、真っ黒な生命力を発し続け、その堅牢な拘束具で彼女を縛り付けられるかは、正常な判断ができる一般人なら疑問に思ってしまうだろう。

 

「ははっ」

「おお!!」


 お面の裏から乾いた笑い。能面の彼女はゆっくりと顔をジーンに向けて、ジーンは歓喜の叫びを上げる。

 話に関心を持ってくれたと喜びだして、ジーンはさらに体を前に乗り出した。


「君たちは歴史から隠されてきた。そして、私はそれと出会うことができた! 見知らぬ偉人(ストレンジャー)に関するものであるというのは、分析してすぐにわかった。そして、選りすぐりのサンプルを引っ張り出して、私が体を与えたのだよ! 私が! 私がだ!」


 そして、喉が乾いたのか、ジーンはグラスの水を一口飲み、自らの興奮を沈ませようとようやく料理を一口食べた。


「おお、今日の料理はうまいな。君も食べなさい。食べてくれるかどうかわからないが、準備させた。今、枷を外すから」


 ナイフをおいて、使用人に枷を外すように指示するが、彼女はそれを右手を広げて制した。

 両手首に枷が付いたまま、右手の人差し指をちょこんと上げる。

 どうやら彼女は何か言いたいことがあるらしい。ジーンは一言も聞き逃すまいと、さらに前屈みになっていく。


「おっと、どうしたんだ?」

「あー、ジ……ジ」

「そうだ! ジーンだ!」


 赤ん坊の息子がはじめて自分の名前を呼んでくれた父のように、ジーンは今にも踊り出しそうだった。それを見て、能面の彼女は両手を開いて、ジーンに落ち着くようにたしなめた。


 彼女は意気揚々と喋り出した。まるでミュージカルのように意気揚々と、しわがれた「男」の声で楽しそうに語り出す。

 その声は打たれ弱そうな外見と不一致であり、一層おぞましさが増していく。


「――なあ、ジーン。システムには必ず欠陥がある。俺はそれを見つけ出すのがとても上手い。なぜならあんたが生まれる前からずっとやってきた一つの職業病みたいなもんさ」

 

 ジーンの背後にはいつの間にか使用人が忍び寄っている。しかし、ジーンはその流暢な語り口に驚いて、全く気付いていなかった。


「あんたは三つ勘違いをしている」

「勘違い? なんだね?」

「一つ、あんたが俺に体を与えたわけじゃない。俺があんたに体を与えさせた」


 彼女は右手の指を一本あげて、まるでオーケストラの指揮でもするかのようにリズミカルに振る。


「二つ、それはあんたの使用人じゃない」

「っぐ!??」


 もう一本指が上がる。そのタイミングに合わせて、ジーンは背後から羽交い締めにされる。

 有無を言わせずに、手錠で椅子に繋がれて、ご老体は抵抗するが、簡単に拘束されてしまう。


「やめろ!! お前一体何を――」

「三つ、こんなものは料理じゃない」


 三本目の指が立つ。彼女は手脚が拘束されたまま、椅子ごと体を揺さぶりだす。喜びを抑えきれないようだ。


 まるで親に褒めてとねだるような幼稚園児のようだった。


 枷をしたまま、手の平をばたつかせて使用人に指示を出す。もうおかしくてどうしようもない。笑いが止まらない。ケタケタと苦しそうに腹を抱えて、彼女は生きる喜びを味わっていた。


 扉が開いて、もう一人使用人が現れる。ガラガラと運ばれてきたのは、料理を運ぶ台車だった。ピタリとジーンの横に停車する。銀色の覆いで中は見えない。


 彼女はサンタクロースがクリスマスプレゼントを持ってきたような喜びよう。その中を早く見たくてしょうがない。今にも叫び出しそうだった。


 使用人が拘束具を外した瞬間、彼女は勢いよく跳ね上がって、ぐったりと動けなくなったジーンに向かってドタバタと走り出す。


 ジーンの肩にそっと手を置いて、冷ややかな能面の唇を、彼女は優しそうに彼の耳元に近づけた。


「あんたのお孫さん、名前はなんて言ったかな?」


 彼女は銀の覆いをパカリと開く。『それ』をジーンに見せつけた。

 断続的に響くのはジーンの無音の嘆きだった。


「あ……あ……」

「おっと、まだメインディッシュの時間じゃあなかった。」


 そして、彼女は蓋を閉じる。とっておきを待ってられないとでも言うように、身を打ち振るわせる。人生の最高潮からどん底へ落とされる。彼女が「生」を感じるのは、この瞬間なのだ。嬉しさを抑えきれずに足をばたばたと動かした。


「ああああ…………!!!!」


 遅れたように理解して、ジーンの絶叫が室内に轟いた。

 助けを呼ぶが、そんな人間はもう屋敷の中にはいない。

 

「知りたかったことを教えてやろう。今日の夜は長い。気晴らしに音楽でも流そう」


 彼女が使用人合図すると流れてくるのは歓喜の歌。数百年前から愛されている帝国の曲。生命賛美の音楽が部屋に響き出す。


 それからダイニングルームは素敵な遊び場に早変わりだ。


 楽しい時間はあっという間にすぎる。彼女にとっては一瞬だった。長年の求めていた快楽だった。


 恋い焦がれた有機物の感情の高ぶり。彼女は人間が大好き。大好物は生命の照明とも言える自我の変動である。

 愛して、愛して、愛して止まない。二百年ぶりの食事だった。

 ジーンの残骸をうっとりと眺めて、能面にべっとりと着いた血を拭う。面の唇が血で彩られ、それは真っ赤な紅を引いたように広がった。


 凝り固まった肩を伸ばして、彼女は天井を見上げる


 「はああ」と喉を震わせて、断続的な呼吸で、舞い降りたこの世界を味わった。


 その仮面が狂気で滲んでいく。後は盛大に後始末をするだけだった。


「フーンフンフン――」


 もっと心地良いものを歌おうじゃないか。もっと喜びに満ちあふれるように。虫けらでも快楽を感じれる。神様だって快楽を感じるようにできている。


 火のように酔いしれて、スキップで階段を降りていく。 彼女の中では幸せが溢れていった。麻薬のシャワーを浴びた子犬のように踊り出してた。


 玄関を出て、その巨大な屋敷が見渡せる位置を陣取る。口ずさむ曲ももう終盤、どうしようもない何かが地上に舞い降りた。この瞬間をどれほど彼女は愛しく思っただろう。


 フィナーレに合わせて、指を振る。


「――フン?」


 もう一回、指を振る。

 しかし、なかなか思ったようにいかなかったようで、彼は何度も指を振る。


「ふ?」


 片手を突きだしてみる。


「ふん!?」


 彼女のイメージしたようにならないようだ。

 

「……」


 諦めた様子で手を下ろすと、耳をつんざくほどの爆発音。

 開幕の花火は盛大に破裂した。


「あはあ」


 それを見て満足げな表情で、彼女は軽快なステップで進む。

 門の前には彼の部下なのだろうか。全員、精霊祭の仮面で顔を隠していた。

 白いバンのドアが開かれた。能面の彼女は乗り込む前に、燃えさかる豪邸をちらりと仰ぎ見る。


「パーティーの始まりだ」


 それはキャンプファイアーにしては盛大すぎた。けれど、ゲームの合図としては不足しているかもしれない。ついに世界を狂わせるゲームが動き出した。


 しかし、あれだけお膳立てしても彼女はまだ空腹だった。


 お腹をさすると、この身体の本当の持ち主の絶叫が聞える。ちょうど良いおやつだった。楽にするわけないじゃないか。どん底から希望を見出させるだけで、こんなにも美味しい叫びが生まれる。


 こんなお面なんか着けなければ良かったのに、と鼻歌を歌いながら彼女は笑う。そして、この帝都の核である、とある研究施設へ車を走らせた。



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