GENE1-4.もう嫌だ。寝る
「もう……本当に疲れた……」
これだけ動き回ったのはいつ以来だろう。こんなに濃い一日を過ごしたことがあっただろうか。草原を歩き回って体力が底をつき、やっと休めると思ったら、門の前で虐められて、もう乾いた笑いしか出て来ない。
まず、人間はいるのだろうか。最初に出会った動物が虫の化物。やっと話せると思ったら、ウサギ人だ。もう訳がわからない。
それにしても腹が立つ。本当に偉そうなウサギだった。あのジェラルドというウサギには悪い印象しかない。そもそも殴ろうとした奴に好意を抱けるわけがない。どうして疑われなきゃいけないのかと、リサは頬を膨らませた。
あの後、ジェラルドが子供を引き取ろうとしてきた。駅前の宗教勧誘のようにしつこかったが、もちろんリサは渡す気はなかった。不信感しかなくて、放っておいてと強く主張し続けた。正式に客人として扱われているようで、リサの発言も無視できないらしく、ジェラルド達はすごすごとどこかへ行ってしまった。
そのまま子供は連れてきて、横にもたれるように座っている。リサはその子と、まだ手を繋いだままだった。
今は村長の家にいるそうだ。立派な髭を生やして、優しそうな人だった。彼から直接お待ち下さいと言われて、ようやく一息つけた。
客間には植物の感触が残る敷物が、綺麗に磨かれた岩盤を覆うように置かれていた。リサ達は表面がザラザラとしたソファーに座っていた。どこか民族的な雰囲気を感じてしまう。
岩盤を掘り抜いて出来た室内はひんやりとした灰色だった。天井からぶら下がっているランプから、暖かい火の光が降り注ぐ。
ここは兎人の村であり、大きく拡張された地下空間だった。
巨大な地下空間には傾斜があって、階段が門からこの家へと続いていた。村長の家は一番大きく、高い場所にある大きな横穴だった。そこから見た景色が今日で一番幻想的だったかもしれない。
地下にこれだけの規模の移住空間があることに驚いてしまう。小さな横穴と石レンガ造りの建物が居住スペースとして並び、ランプが点々と設置され、無数の微小な明かりが散らばっていた。
村の景色を思い出し、こうやってまったりと過ごしていると、忙しなく動いていた一日が幻のように思えてしまう。ぼんやりとランプを見つめていると、遅れたように取り残された孤独感が噴き出してきた。
留年の危機なんて(かなり大げさに言えば!)いつも通りだった。徹夜で仕上げて、提出して、きっとミナミに電話で呼び出されて、お店に行って奢らされるだろう。
世界は唐突に変わってしまった。何も知っていることがない。手がかりさえ掴めない。こうやって屋根の下にいるのも奇跡に近い。
未知の世界はこんなに恐ろしいものなのか。何も答えがなかった。
「私、どうなっちゃうのかなー」
「……」
隣に座る子供に話しかける。耳が聞こえないことは知っていた。だから、ほとんど独り言のようなものだった。それでも誰かと話したかった。
自らを落ち着けるように、横にいる小さな子供の頭を撫でる。
助けたこの子は、何も知らない世界で唯一心を許せる存在だった。たった半日だけ、一緒に歩いただけ。それだけの小さなつながりで、ここまで気が休まるとは思わなかった。
この子のおかげで今日はここに泊まれそうだ。お礼を伝えたいが、どうすればいいだろう。その方法について悩んでいると、美味しそうな湯気と共に、村長が部屋に入ってきた。
「さて、お待たせいたしましたな。申し訳ありません、準備に時間が掛かってしまいましてね」
村長はリサと同じくらいの身長で、長い髭が可愛らしく揺れていた。髭の先端は朱色の組紐でまとめられている。お茶とふかした芋を簡素な木鉢に入れて戻ってきた。
「たっ食べ物!!」
「ほっほっほ。空腹なのですか、それは良かった。おかわりも十分あるので、たくさん食べてください」
空っぽの胃が騒ぎ出して、勢いよく手を伸ばす。
そういえば朝から何も食べていない。
「あちっ」
少し舌を火傷しそうになる。調理してすぐ持ってきたのだろう。芋から白い蒸気が立ち上っていた。皮をむくのに苦戦してしまう。その食への欲求から、手の動きを止めることはない。なんとか一つの芋を剥ききって、添えられている茶色の塩につけて口に放り込む。
「……美味しい」
芋で喉がつまりそうになり、急いでお茶を流し込む。以前飲んだゴボウ茶のような味だった。横にいる子供に勧めると小ぶりの芋を剥き始めた。
ある程度食べ終わり、一息ついた後だった。あまりにも夢中に食事をしていたので、待っていてくれたようだ。
「では改めまして、このコモリの村の村長しているヘンリと言います」
「リサです。ご馳走さまでした。本当にありがとうございます」
ヘンリの丁寧なお辞儀を見て、リサは背筋を伸ばす。一人の大人として扱ってくれた。口に食べかすがついていないか一度確認して、しっかりと感謝の気持ちを伝える。
「いえいえ、構いません。貴方様は雛様のお告げによって導かれたのです。行き届かないことがあるかと思いますが、どうぞごゆっくりお過ごし下さい」
彼の言葉を聞いて、その優しさに涙が出そうになる。嫌なことがあった分、嬉しい出来事があるものだ。しかし、気になる単語があった。お告げとは何だろうか。いや、その前の、もっと聞き覚えのある言葉があった。
「……ひなさま?」
「ああ、こちらにいらっしゃいます」
「いらっしゃる? ……あそこにですか?」
「はい、その中です」
ヘンリはリサの方向を右手で示す。振り返ると、天井近くに神棚のような棚が設置されている。どうやらそれを示しているらしい。言われるまで気がつかなかった。ソファから立ち上がって、遠くから背伸びをして覗き込む。
「――ひっ雛人形!??」
「お告げにはいつも助けられています」
ヘンリは長い髭をなでながら、リサに向かって微笑んだ。
「そっそそうなんですか」
棚の中に飾られていたのは、すすけた白い肌のひな人形だった。
座り雛だった。女雛一体がぽつんと置かれ、紅い一重の着物に幾何学的な模様が刻み込まれている。思わず二度見してしまう。信じられない。ここで伝統的な工芸品を見れるとは思わなかった。
素直に喜べない。
未知の世界は確かに恐い。しかし、唯一の手がかりが見つかった。それは雛人形だった。日本において、女子のすこやかな成長を祈るお祭りで飾られる人形だ。恐ろしいほどの違和感で顔がひきつっていく。
一瞬人形と目が合って、反射的に目を背けてしまう。
「こっこれは!?」
「ですから、お雛様ですよ?」
「そうじゃなくて。ええと、雛様について聞いてもいいですか?」
「ああ、雛様とは神様の依り代です。大昔から私たち獣人に、神様は雛様を通して、数多くの助言を下さります」
異様だった。そもそも、この雛人形は、村の雰囲気に明らかに合っていない。
この村の住人達の服装や家は、どこかしら西洋的な様式だった。草鞋ではなく革靴を履いて、和服ではなく洋服を着ている。雛人形はその中にぽつんと奉られている、明らかに異質な存在だった。
「リサ殿、お話をいくつか聞いてもよろしいですかな?」
頭の中の片隅に大量の疑問を封じ込めて、勢いよく村長の方を振り向いた。
「はい! でも、正直答えられるかわかりません。自分でも何が起きたのか理解できてないんです。えっと、その前にもう一つ聞いても良いですか?」
構いませんよとヘンリは頷く。
「この子の名前は?」
「ああ、この子ですか」とヘンリは伏し目がちになってしまった。
「その子はスーと言います。いつも姉のルルと一緒でした。今回被害に遭ったのはおそらくルルでしょう。この子達の母親も、あの魔物の犠牲者でした」
村長は悲しそうに眼を伏せて、リサは何も言えなくなってしまう。リサの中で生じたのは、やっと名前がわかった嬉しさとスーの境遇を聞いて生じた切なさだった。
ヘンリの質問は例の魔物についてだった。質問にできるだけ詳しく答える。結果的に、魔物についての情報を聞けた。
この世界でも、あのような生物は正常な存在ではない。リサは彼等のような存在を魔物と呼ぶことを教えてもらった。
あの蟲型生物は数年前に出没して、何人もの村人が襲われた。いずれも村の重役で、村の兵士達で討伐隊を編成したが、倒すことができず、逆にその時の隊長が犠牲になってしまう。それからも化物は村人を襲い続け、スーの母親も犠牲になった。
「リサ殿に無礼を働いたのは、新しい隊長のジェラルドでな。彼は非常に仕事熱心ではあるのだが……。なにぶん人間種が私たちの村を訪れるのは珍しいのです。申し訳ありません」
「いえいえ! 大丈夫ですよ!」
ヘンリが深々と頭を下げた。納得はいかないが、リサは精一杯の笑顔で返答する。
「そうですか。では、ククリの森まで案内する者をこちらで準備いたしましょう。明日出発いたしますが問題はありませんか? 何か必要な物があれば今日中に言ってください」
「……すいません、本当に助かります」
今日は過酷な一日だった。その分、ヘンリの優しさが身に染みた。
明日の打ち合わせの後、リサ達は客人用の寝室に案内される。小さなランプがつり下がっていた。木のベッドがいくつか並んでいる。ここに来て、どれくらい経過したのだろう。もう動けない。目をつぶると、数秒で寝てしまいそうだ。
ヘンリとの会話での緊張も薄れ、深い深い息をついた。糸が切れたようにベッドに倒れ込む。
「……終わった」
休めると思った途端、こめかみに鈍痛が響く。平衡感覚が不安定になって、辛い二日酔いのような苦しみに襲われる。朝味わった痛みと同じやつだった。
「あー、気持ち悪いよう。頭がガンガンする」
リサは頭痛薬を探してしまうが、そんなものあるわけがない。
ここはイースタル。獣人の住む地域だそうだ。草原を歩けば、虫の魔物に会える国。まだ、夢から覚めていないのかもしれない。これが現実だと信じ切れない。だれか説明してほしい。唯一の手掛かりはあの雛人形だった。
恐ろしかった。この世界は自分のいた世界と無関係じゃないことがわかった。けれども、あの人形は異質で、異様で、異端だった。
それをきっかけに一日分の思い出が湧き出してくる。思い出したくない。なのに考えてしまう。人生で初めて食べられそうになって、彷徨って、凶器を向けられた。感情は許容量を超えて、ゆっくりと体に戻ってきた。
ひどく遅い衝撃だった。本当に嫌だった。恐かった。
苦しさと恐怖で震え始めて、ベットの上でリサは小さく丸くなってしまう。
「!?」
背後に柔らかいものが触れた。小さな腕だった。
顔だけ持ち上げて後を振り返ると、スーがぴったり寄り添っている。スーの手も震えていた。
彼女についてさらに話を聞けた。もともと別の集落の出身だそうだ。彼女の毛の色が、この村のウサギと違う理由だった。この村の住人は体毛が茶色で、スーは黒だった。
村に入って、リサは冷たい視線を向けられた。もちろん、全ての視線が差別的ではない。しかし、大半はそうだった。その冷たい意識は、リサだけではなく、スーにも注がれていた。
小さな彼女はここで生き抜けるのか。こんなところで、耳が聞こえず、喋ることもできない。はっきり言って無理だ。ウサギなのに耳が聞こえない。これまで生き残ってきたのが不思議なくらいだ。彼女はリサの背中に顔を埋めていた。
「――私と一緒に来る?」
しかし、彼女に声は届かない。リサの背中を強く抱きしめたままだ。リサは無責任なことは言いたくなかった。
そして、リサは自分自身が喋った内容に驚いてしまう。
どうして連れて行こうかと思ったのだろうか。自分が助けた命だからか。いや、そうじゃない。大切な自分のつながりだったからだ。この何も知らない場所でできた唯一の知り合い。彼女のおかげで泊まれた恩もある。細いがしっかりとした縁を、リサはスーに感じていた。彼女をここに置いておくなんてできなかった。
「明日の朝、村長さんに聞いてみようか。さて、そうなったらどうするか」
自分に言い聞かせるように深くうなずいた。道連れができたと思うとやる気が出てきた。
まず、名前を教えてみることにした。方法は思いつかなかったが、この子と意思疎通ができるようになりたかった。
「ねぇ、こっち向いて」
リサはスーの肩を叩く。顔があがり、つぶらな瞳と目が合う。フードはもう被っていない。その顔があまりにも可愛くて、思わず抱きしめてしまう。
「……!?」
腕の中でもがいている。強く抱きしめ過ぎてしまった。
「ああ、ごめんごめん!」
スーを引き離した。衝動的に抱きしめてしまったことを反省する。スーとしっかり目が合ったのを確認して、とりあえず自分の名前を大きく発音してみた。
「りーさー」
スーはゆっくりと指を伸ばす。スーのなめらかな毛で覆われた指が唇にあたりくすぐったい。スーがもう一回とでも言うように頷いた。そのまま、自分の名前を再度、はっきりと伝える。
そして、スーは自分の唇に指を当てて、発音時の口の形をまねているようだった。その素振りは慣れていた。スーが音の振動を確認しているのだと気付いた。リサは根気よく自分の名前を繰り返し続ける。
「ぃぃー」
「ああ! ちょっと惜しい!」
健気なスーを見ていると元気になってきた。スーが正解であることを伝えるために頭をなでる。耳は聞こえないが、ちゃんと思いは伝わるじゃないか。
「いあー」
ラ行は少し難しいようだった。でも、この口の形がリサのことを示していることは分かってくれたようだ。
そうこうしているうちに、眠気が強くなってきた。やはり体は疲れていた。念願の抱き枕の要領でスーを抱きしめて眠りにつく。頭痛は消えなかった。しかし、こうすればすぐ寝られそうだ。
スーは良い香りがした。この世界に訪れて、幸運にも最初の夜は独りぼっちではなかった。