GENE4-1.舞台袖に立つ理由
ロワナシア、ゴルディアの二大大陸は八つの国で分割されている。
四百年前に魔核機関の開発による動力源の刷新が起こり、文明のレベルは何段階も上昇した。その影響は軍事にも及び、世界地図を何色にも何重にも塗り重ねた結果、大国となった国がいくつもある。ゴルド帝国もそのうちの一つだ。
ティルドム駅は、ゴルド帝国の東端にあるレーゲンと帝都リオンの中継地点である。この駅から魔導列車で数時間移動すればリオンに到着する。東側の帝国民にとっては、首都への玄関口だった。
乗り換えようとする帝国民が行き交う中で、一人だけ纏う空気が異様な男がいた。住んでいる世界が違うのは、まるで死神を彷彿とさせる黒色の帝国軍服を着ているからかもしれない。
漆黒の衣服は、帝国軍内部でも高貴な地位にいることを示している。黒ネクタイを着けた白シャツに、黒いスーツ。全てオーダメイドで仕立てられていた。
帝国軍人であることを示す金色の獅子が、帽章として輝いていた。
しかし、それ以上に特徴があるのはその瞳だ。
軍帽のバイザーの影の中、ちらちらと見える眼からは思念が感じらず、焦点が合っていない。どろりとした覇気の無い瞳孔、まるで何かを見失ったようである。
表情は不機嫌で、彼は虚空に向かって話しかける。まるで見えない通信機を持っているようだった。彼はある人に苛立ちをぶつけていた。
「俺は機関と帝国の犬です。貴方に命令される義理なんてない」
もう面倒毎はごめんだと言うように、深いため息をつく。彼の目の前には誰もいない。その声に反応する人もいない。
首にぶら下がる使徒の証である標識タグ、黒棺を、彼は力強く握りしめていた。
明らかに一般人ですらないのに、通行人は独り言を話す軍人に気付いていない。
「――今更すぎる。貴方なんてもう要らない。必要ない」
年齢は三十歳に達しているように見えない。癖のある銀髪は制帽に押込められ、髭は綺麗に剃られてる。
端麗な容姿はどこか頼りなくて、その固い軍服で無理矢理背筋を伸ばしていた。
彼は虚空に向かって口を動かしながら、歩みを進める。真っ黒な軍靴がホームを踏みしめる音は、緩みなく一定のテンポを刻んでいた。軍人としての習性かもしれない。
通行人である一人の女性と彼の肩がぶつかった。女性は文句を言おうと振り返る。彼はぶつかったことを全く気にせずに、歩みを止めない。目の前を通り過ぎる彼を、その女性は見ようとする。しかし、明後日の方向に視線を向ける。やはり彼は認知されていないのだ。
「……脅しですか……いいですよ。わかりましたから」
彼はその場にいない相手に向かって話し続けた。無意識に唇を噛む。
世界の真実を知っている人が、この世界にどれだけ残っているのだろう。世界は腐った汚水の上澄みのように、そこに含まれている懸濁物の濃度を知っているものはいない。
仮初めの平和を着て、試合の前の余興として戦争を繰り返していただけだった。
「伝えるだけですよ? もう二度と俺に声をかけないで下さい」
彼は自分自身がわからなかった。長すぎる時間の中で、偽りながら生きていくと自分がどこにいるのかわからなくなる。
無理な要求に対して腹を立てる反面、彼は笑顔だった。笑い方なんて知らないはずなのに。その理由が彼はわからなかった。
彼は思い出そうとした。遠い昔に何があったのかを。でも、モヤがかかったように上手く思い出せない。
街は業火に包まれていた。あれは満月の夜だった。その月の光が忘れられない。
世界の嘲るような笑い声を聞いた気がした。
「母さん! 母さん! 母さん!」
その時の彼はまだ子供で、叫ぶ元気があった。
致命傷を負って、息も絶え絶えな母は彼に話しかけている。それが最後の言葉だった。
母が何を言っていたのか忘れてしまった。
遺言すら記憶に残っていないのだ。そして、彼はその場から逃げだした。
何を言っていたのだろう。
人目を逃れる能力はその頃から使えるようになった。
生き延びて、ひっそりと暮らし、この街に全く別の人として紛れ込んだ。母はこの街に貼り付けにされていた。
帝都リオン。母の名前が付いたこの忌まわしき街に移り住み、自分を偽って今の職業についた。
見えない夜は無色のままだ。あの満月の夜からずっと。
ひとり寂しく歩きつづけ。
ひとり冷えた手の平を見て、
何を求めていたのかを忘れてしまった。
数百年前と比べると、文明は多くの人に行き渡るようになった。技術革命によって、この世界の文明は圧倒的に向上した。しかし、それは犠牲になったものがいるからだ。歴史から消されてしまった存在を知るものはいない。
全ての禍根をなかったことにして、この世界の繁栄がある。彼もそう振る舞うしかなかった。自分も立ち上がって闘いたかった。だが、そうしなかった。
最初は復讐しようと、帝国に飼われる身となった。誰も自分の存在を知らない。簡単に忍び込めた。
しかし、何故だかできなかった。
彼は舞台で踊れなかった。
表舞台に立てず、観客席にも戻れずに、ずっと舞台袖から見ていた。
その墓から離れられずに、大きな歯車となって世界に飲み込まれるしかなかった。
母の死体を踏みにじった靴を舐め、血の涙を流して、彼は今の立場にいる。その理由すら霞んでしまった。
本当の自分を話せる相手はいない。
本当の自分はいなくなって、装っていた姿が本当になってしまう。
泣いたって人が生き返るわけじゃない。どれだけ背伸びしたって世界は変わらない。そう言い聞かせた時もあった。そんな気持ちさえなくなった。
黒い軍服は彼を次第に塗りつぶしていった。記憶が抜け落ちて、感情は燃え尽きて、灰になるだけだった。
彼はもう思い出せない。乾いたまま、自分は別の何かに変わってしまった。彼は世界に進んで飲み込まれようとする自分が理解できない。恐ろしいほどの時間はあるのに、考えれば考えるほど、わからなくなってしまう。
駅に列車が到着した。指定された車両はもうそろそろだ。ホームから車内の様子を眺める。
「っ!?」
彼女に軍人は息を呑んでしまう。彼女にメッセージを伝えれば良いのだろう。一目で分かってしまった。
神々しい白さを纏う少女が列車に乗っていた。突き刺すようなオーラを放ち、同じボックス席に座っている少女達や男は黒い服を着ていた。まるで葬儀に向かう群れの中、何色にも染まらない美しさを放っていた。
その横顔を見て脚を止めてしまう。彼の母親の面影があったからかもしれない。彼は列車に飛び乗った。