GENE1-3.そういう歓迎はいらない
生きなければならない。考えて至った結論ではない。本能で身体が動くことを知った。初めての死から逃れなければならず、考えずとも脚が動く。
食べられそうな実感に、反射的に全身が熱くなった。
脳からの電気信号が、ようやく四肢の筋肉に到達して、遅れて叫び声に変換された。そのおぞましい化物から死にもの狂いで距離をとる。錆び付いた生存本能が、脳内でサイレンのように危険を知らせる。
化物は鋭い左足をあげ、振り下ろした。
しかし、動き出したリサに間に合わない。その前足が空を切って、背後で鋭利な風を切る音が聞こえた。
前へ走る体をそのままに、顔だけで振り返る。例の化物はその場でのっそのっそと揺れていた。脚を動かして、立ち位置を微調整している。
まるでクラウチングスタートを構えるように後ろ足をたたみ、リサに向かって再び跳躍してきた。その様子を見なきゃ良かったと心底後悔してしまう。
「いっいやあ!!」
ゴキブリが飛びかかってきた時の衝撃を煮詰めて、粘度をさらに高くしたような、ドロッとした恐怖。リサは吐かないように必死で胃内容物を押しとどめる。
目から涙が出てきた。ここで死ぬかもしれない。
「もうなんで! なんでなんでなんで!」
増強された身体能力で、跳躍からなんとか逃げ切って、泣きながら脚を前に動かした。
しかし、化物は諦めていない。執拗に追いかけてくる。その跳躍を無我夢中で回避して、走り続ける。絶叫が広い草原に響き渡った。今の獲物はリサだった。
それでも化物は諦めない。リサも逃げることを諦めない。
二度と見たくない。しかし、化物はしぶとかった。何度も何度も跳躍を躱す。声が掠れるほど叫び続けたが、もちろん誰も助けに来ない。
空中を滑空する恐ろしい姿が、だんだん小さくなっていく。恐怖の中で生まれたほんのちょっとの慣れで、僅かに冷静になる。なんとか振り切れる速度差ではあったのだ。
しかし、倒せる気が全くしない。あんなものを倒そうと思う人は狂ってる。頭がおかしい。
何度も何度も追いかっけっこを繰り返す。その間に化物との距離はかなり開いた。そして、小さじ一杯ほどの余裕が生まれて、全て思考回路に投入する。
先ほどリサと同様立ち尽くしていた子供は、まだ水辺にいた。座り込んでいる。下を向いたままだった。幸いにも、リサの方が早く子供の場所へたどり着く位置にいた。あの化物の跳躍速度を考えると、十秒ほどの余裕はある。子供に向かって一直線に走り出した。
子供の側に滑り込むように到着した。鉄分を含んだ空気が鼻腔を通る。顔をしかめてしまう。
そこはさっきまで化物がいた場所だった。
かき混ぜられた血と泥濘。
布の切れ端と赤い血が撒き散らされている。水辺の泥がさっきまでの悲劇を物語っていた。
その子の友人だろうか。緑色のローブごと食いちぎられていた。フードは不気味な膨らみを持って、身体の側に転がっていた。一目でわかる。食べかけの屍体も残っている。受けとめきれずに眼を背ける。
「……っ」
その子は声を出さずに泣いていた。恐怖で固まったまま、ピクリとも動かない。しかし、生きていた。しっかりしなきゃと自分を鼓舞する。一刻も早く逃げなきゃいけない。こんなところで死にたくない。ただそれだけだった。
「こっちに来なさいっ!」
振り返ると化物は体の向きを変えて、跳躍する準備をしていた。
何度も聞いた汚い羽音が近付いてくる。
もう嫌だと叫びだしそうになる。
リサは返答も待たずにその子を抱きかかえた。熱い息が首筋にあたる。ふわりと甘い香りがした。身長はそこまで大きくない。思ったよりも軽く感じる。これならあいつから逃げ切れる。
「捕まってて!」
化物が空を滑る。再び足に力を入れて、リサは一目散に走り出した。
全速力で走り出し、奴の呻き声も羽音も聞えなくなる。遠くで化物が来た方向へ帰っていくのが見えた。それでも脳裏にこびり付いた羽音は消えなかった。
忌まわしい存在からなんとか逃げ切った――と言っていいのかリサは自信を持てなかった。捕食されるかもしれないという重い恐怖はずっと喉元に残っている。
足を止められず、息が切れるまで走り続けた。
いくら逃げても心が落ち着かない。しかし、自分の体力の限界をやっと感じて、ゆっくりと速度を落とす。
「ふえー、もう無理!」
呼吸は乱れていた。心臓が必死に血液を送り出す。汗が遅れたように噴き出してくる。当たり前のことにほっとしてしまう。体も強化されただけで、疲労を感じないわけではなかった。
「大丈夫?」
言葉が通じないのだろうか。この子はずっと無言だった。
子供の呼吸はリサの耳に当たって、緩やかなテンポを刻んでいた。移動している間に少し落ち着いたようだ。
周囲を見渡せる小高い丘に腰を下ろした。視界の中には異様な生物はいない。あんなのがウヨウヨいても困る。
太陽が少し傾いてきて、あとちょっとで日が沈みそうだ。
その子供はリサの横にちょこんと座る。まだ俯いていて、緑色のフードで隠れて表情がわからない。
「もうそろそろ夜になっちゃうね」
「……」
その子はずっと無言だった。励ましたかったけれど、正直なんて声をかければいいか分からない。
食べられていたのは友達なのだろうか。
そして、リサはあることに驚いていた。その子供の外見である。
その両腕には黒い毛が生えていた。靴は履いておらず、草食動物のような足も体毛に覆われている。さらに長い耳がフードから突き出て、前に垂れていた。
よく見る兎が二足歩行している姿だった。その頭を触れてみたい欲望に駆られてしまう。しかし我
慢して、いっぱい触ろうと心の中で決意する。今はそんな状況じゃない。
でも、ほんの少し気が楽になった。さっきまで一人だったからかもしれない。
それでもどうしようもない環境は変わらなかった。道具なんて何も持っていない。漠然とした不安が膨らんでいく。
子供を心配している場合じゃなかった。ここは過酷な草原だ。いつあの化物が現れるかわからない。広大な緑は次第に暗くなって、太陽は地平線に沈み、追い打ちをかけるように風が冷たくなる。半袖の姿では少し寒い。二の腕をさすってしまう。
座ってどれほど経っただろうか。時計がないので、時間が全くわからない。いい加減、今晩どうするかを考えなきゃいけなかった。
「……」
こんな場所で生き残れる気がしなかった。 けれど、どうしていいかわからない。
すると、子供がゆっくりと立ち上がる。まだ顔は見えなかった。右手をゆっくりとあげて、その毛むくじゃらな指先で方角を示す。
「どこか連れて行ってくれるの?」
その子は無言でTシャツの裾を引っ張る。それに連れられてゆっくりと歩き始めた。もう走る気は起きなかった。その子の歩調に合わせて付いていく。リサよりも小さいのに心強かった。
歩いている間、何度か話しかけてみたけれど、その子は何も返答せずに前へ進んでいく。時折リサの方を振り返って、ちゃんと付いてくるのか確認しているようだ。
拒否されていなかったことに、ほっとして後を付いていく。
太陽は完全に沈んだ。暗い中でも引き続き周囲を警戒している。さっきのような化物は現れない。
「――きれい」
空を見上げて、言葉が漏れてしまう。
大量の星が頭上に広がっていた。黒い模造紙に大量の白いインクをこぼしたような、あまりにも明るすぎる夜空に目を奪われて、立ち止まってしまう。
小さな指がお腹をつついた。案内人がせかすようにTシャツを引っ張っる。
「ああ。ごめん」とリサは歩き出す。
それからすぐのことだった。その子が立ち止まり、前方にあるものを見て。思わず声を上げてしまう。
「おお!」
リサ達の前に不自然な草の山がある。子供はそれをかき分けて、紐状の取っ手を見つけた。持ち上げようと体勢を変えたので、リサも一緒に持ち上げる。
草でカモフラージュした木製の蓋だった。開くと直径一メートルの大きな穴がぽっかりと空いている。頼りない木製のハシゴが、先の見えない闇へと続いていた。しかし、初めて見る人工物に励まされた気分になる。
そのハシゴに体重を乗せ、きしまないことを確認して慎重に降りる。
リサが蓋を閉じると光が一切なくなった。しかし、暖かな暗闇だった。冷たい風も当たらない。
なんとか足で探りながら降りると、細い横穴に繋がった。眼も暗闇に馴れ始めて、中の様子がゆっくりと形のある闇になっていく。ゴツゴツとした岩壁で、細いトンネルは壁や天井は丸太で補強されている。
子供は再びTシャツの裾を掴み、リサを引っ張りながら先へ進もうとする。
「あっ、ちょっと待って」
服を掴む手を引き離してしっかりと手を繋ぐ。小さな手は体毛に覆われていて温かい。
警戒させてしまったのかもしれない。一瞬手が震えた。しかし、そのまま包み続けると、優しく握り返してくれた。その可愛さに励まされてしまう。
そして、リサ達は手を繋いで一本のトンネルを進んでいく。全く見えない足下を気にしながら、小さな力を頼りについて行った。
小さな案内人は黙々と進んでいく。しかし、さっきと違って心地よい沈黙だった。
曲がりくねったトンネルを通り、さらに下へ潜っていった。数十分ほど歩くと、大きなトンネルに出た。レールが敷かれ、幅は一メートルしかない。細長い線路がひょろひょろと伸びている。
その続く方向を眼で追うと、小さな光源を見つけた。数百メートル先だった。
「火だ……」
暖かな炎の色が迎えてくれた。やっと休めそうだ。丸一日、何も食べていない。強い空腹に襲われていた。安心して、いっそう飢えが激しくなる。歩調が早くなり、前を歩いていた子供を追い越してしまう。その子を引っ張りながら走り出してしまう。
「おい! そこのもの止まれ!」
石レンガを積み上げてできた門だった。高さ三メートルはある。余り重厚な造りではなかった。レンガが所々ズレている。そして、リサの頭ほどのランプが壁面につり下がっていた。
その門の前にいる人型のシルエットに呼び止められる。
リサはその門番の兵士の風貌に驚いてしまう。子供と同じウサギの獣人だった。リサよりも背が高い。一・五メートルの槍を持ち、革製の簡易的な胴鎧を装着している。口を開くたびに生えている髭が動く。そして、茶色の大きな耳が頭から飛び出ていた。
まじまじと見つめてしまう。二本脚で見慣れたウサギが立っている。
何故か言葉が通じる。文明のレベルや彼を見て、おとぎ話に紛れ込んでしまった。そんな錯覚を覚えてしまった。
「おい、大丈夫か?」
門番は薄汚れたリサを見て、心配そうな声になる。その優しさが混ざった声を聞いて、安堵の息を吐いてしまう。何とかなりそうだった。そして、彼は助けた子供に気付いた。
「そいつはどうした?」
子供がリサの腕を強く握り、顔が完全に下を向く。小さな案内人は俯いて、動かなくなってしまった。
リサは集中しなければと自分に言い聞かせて、門番の質問にしっかりと答えようとする。活力はほとんど残っていなかった。しかし、かろうじて残っている分をかき集めた。
「変な虫の化物に襲われていたのを助けたんです! もう一人は……」と、リサは小さく首を横に振る。
「化物だと……?」
門番が視線を子供からリサに移した。例の化物を知っているのだろう、眼を大きく見開いた。門前の騒ぎを聞きつけて、門の奥から数人の兵士が出てきた。数秒の沈黙の後、門番は続けてリサに質問をぶつける。
「どんなやつだ?」
「黄色の八本の足をもつ大きな虫の化物です」
その言葉を聞いて、出てきた兵士達の耳も固まった。
門番は警戒を解いたのか直立した耳が少し傾いた。一言も聞き逃すまいと深刻な表情に切り替わり、リサは化物の大きさ、特徴をさらに詳しく説明する。それを一通り聞くと、門番は一番背の低い兵士に向かって命令をした。
「伝令だ! すぐに村長の元へ。おそらく例の魔物がまた出現したようだ。不思議な服装をした人間の子供が一人来たこと、あと外出していた子供が一人帰ってきたことも伝えてこい!」
「はい!」
若い兵士は走り出した。兎の特性なのか、その速度はかなり速い。門の向こう側の大きな階段を駆け上って、一瞬で見えなくなってしまう。
兵士達にさらに詳しく事情を話していると、背後から音が近づいてきた。重い足音と鎧が擦れ合う音。振り返ると、数人の兵士がトンネルの奥から走ってきた。
三人の兵士を率いて先頭を走るのは、他の兵士よりも一際大きい、厳つい顔をした兎だった。何故かリサ達を見て、その速度が加速する。
「あっ、ジェラルド隊長! お戻りになりましたか!」
その大きなウサギが『ジェラルド隊長』らしい。名前はかっこいいと、リサは思った。伸びている髭が汚く、小太りな隊長は息を切らしていた。彼は他の兵士と異なる金属製の鎧を着ていて、一メートルの金棒を担いでいる。
そして、リサ達を見て苦い表情になった。苦手なタイプだった。自分の不機嫌さを全く隠す気がない。兎だからと言って、全てが可愛く思えるわけじゃない。そのいらついた様子を見て、リサは嫌悪感を抱いてしまう。
「何事だ?」と門番に問い詰めるとともに、ジェラルドがリサ達をにらみつけた。
「!?」
顔を近づけられて後ずさりする。髭がピクピクと動き、生臭い鼻息がかかる。さらに、頭上からぶつけられる感情に対して、首が縮こまってしまった。
子供が体を寄せてくる。それに答えるように強く手を握る。しかし、不安な気持ちは大きくなり続けた。安心を求めるように子供を引き寄せてしまう。
「蟲が現われたようです!」
門番はリサから聞いたことをそのまま報告した。それを聞いて、ジェラルドは眉をひそめた。
「ああ、そうか――それは置いといてだな」
リサは自分の体験した出来事を一言で片付けられて文句を言いたくなったが、ジェラルドが再びリサに顔を近づけので、避けるようにのけぞった。もう本当にやめて欲しい。彼はまるで宿敵に出会ったかのような、刺々しい視線をぶつけてきた。
「お前はなにものだ? 旅人か? 人間種のガキがどうしてこのようなところにいる? どうやって来た? 荷物は何も持っていないようだが……」
「え、えっと…」
ジェラルドが探るように目を光らせる。職務質問は全くの不意打ちだった。予想のしない質問に答えがすぐには浮かばない。リサの戸惑う様子に、無駄に大きいウサギは嘲るように鼻で笑った。
「おい! 取り囲め!」
「ひっ!?」
ジェラルドの鈍い号令と共に、彼が引き連れてきた兵士たちの鋭い槍がリサを取り囲む。あと数十センチで鼻に突き刺さりそうだ。松明に当たり輝く先端を見て、足が固まってしまう。十九年生きてきて、初めて向けられた凶器だった。口を開けるが声が全く出て来ない。
「落ち着いてください! 村の子供を助けてくれたんですよ!」
門番がリサの言いたいことを言ってくれる。どうやら彼から見ても蛮行らしい。心の中で応援するが、門番の男はジェラルドの一睨みで黙ってしまった。
さらに、ジェラルドは子供を一瞥して、馬鹿にしたように笑ったのだ。
「こいつは確か……。ふん、別に助けても意味はない」
本人の前で言うことではないだろう。
リサの苛立ちは増して、ジェラルドを無言でにらみつけてしまう。突きつけられている槍なんて関係ない。目の前の汚らしいウサギを見て、こぶしに強く力が入る。リサの怒りを感じ取ったのか、ジェラルドは言葉を付け加える。
「おや、気付かなかったか? こいつは耳が聞こえてないんだよ。耳が聞こえないやつなどいなくなっても問題はない」
意地の悪い微笑みを口元に浮かべて、ジェラルドは顎で子供の方を示す。子供は下を向いたままだった。リサの手はしっかりと握っていた。
「え?」
予想もしなかった情報に対して、無意識に声が出てしまう。
「ともかく、不審な人物を村に入れるわけにはいかない。さっさとこの穴から出て行ってもらおうか。それが子供でも例外ではない。私はこの村を守る責任がある」
偉そうにジェラルドは喋り出すが、村を守る気が本当にあるのか、聞いてて疑問に思ってしまう。
このままで不味い。何か言わなければならない。ランプに照らされてギラギラと光る槍の先端に怯えながらも、残っている力を総動員して声を出す。
「ちょっと! ちゃんと話を聞いて――」
「うるさい!! 黙れ!!」
ジェラルドが腕を振り上げて、金棒をリサの鼻先に突きつける。必死にアピールしても意味がなかった。彼には聞こうという気持ちなんてない。
彼が今にも金棒を振り下ろそうとして、子供がリサの足に抱きついた。息が止まる。余りにも横暴すぎる。しかし、何も言えなくなってしまった。ジェラルドの強烈な敵対心に足がすくんでしまう。
何か言おうとしても、何も出て来ない。口を開けけたまま、固まってしまった。そして、ジェラルドの手に力がこもった時だった。
伝令に行った小さい兵士が帰ってきた。
「隊長! お帰りでしたか! 何をしているんですか!? 村長の所へ、客人を今すぐ連れてくるようにと!」
「……!?」
「客人を連れてくるようにと!」と伝令は重ねて、隊長に伝えた。
「どういうことだ!?」
ジェラルドは、伝令の兵士を威圧的な視線で見る。伝令の兵士は背筋を伸ばす。自らの職務を精一杯果たそうとしたのだろう、声は震えていた。
「雛様のお告げだそうです! 丁重に招き入れるようにと!」
「なに!?」
若い兵士の『お告げ』という言葉を聞いた途端、取り囲む兵士達は一斉に武器を下げた。ジェラルドの目にはまだ疑いが残っていた。しかし、舌打ちをして、ぼつりと呟いた。
「わかった。入っていい……」
目の前の急展開に驚いてしまう。どうやらそのお告げに助けられたようだ。やっと深く息を吐く。ずっと息を止めていたようで、肩の力が抜ける。
ようやく兎人の村へ入ることができた。前途多難すぎて、このまま休めるのか疑問だった。
突然、ナイフのような感情を向けられて、どうしようもなくやりきれない心持ちになってしまう。遅れたように怒りの気持ちが湧いてきた。
いきなり向けられた凶器の理由に心当りはなかった。