GENE3-2.彼の夢は叶わない
血は力である。この不文律は世界に深く根ざしていた。歴史に、政治に、経済に、文化に。『血』が世界を創り、代々引き継がれてきた。
『血』とは、過去の神様の代理人の血筋である。
発現者とは特殊な能力を持つ者であり、かつてのプレイヤー達の子孫だった。『神の血を受け継ぎし者』、『神の子』など、様々な名前で呼ばれ、『血』は純粋な力に直結した。
長い年月を通して、しっかりとした形で能力を発動できるものは、子孫の中でも一握り。その中でも、兵器として用いられるのはさらに少数であった。
二人の所属する特殊部隊の通称は朱い山猫。帝国の使徒直轄の部隊である。そこに所属している軍人は全て、発現者であり、帝国内でも有数の名家の出身者が集まっている。俗に言う血統書付きの彼女達は、子供の頃から顔見知りだった。
思い出したように謝りの気持ちが浮かんできて、リルは手元のトランシーバーを見つめる。ゆっくりとスイッチを入れるが、その黒い機械は無言のまま。
アイゼンはそろそろ会敵する。交戦するまでおよそ一五秒。彼女の能力で手に取るように、対象と彼の位置がわかる。
(……あの先輩に関しては大丈夫。スキップで地雷原を渡りきるような人なんだから)
鉄の雨のアイゼン=ジリル。
帝国内でも圧倒的なその強さ。能力自体はそこまで特殊な物ではない。一騎当千の戦闘力を裏付けるのは、その戦闘のセンスだった。
死ぬ姿なんて、リルは想像できない。負傷したこともない。いつも無傷で帰ってくるのにどうしても心配してしまう。
願いを込めて、チョコレートを囓る。その味は少しほろ苦い。彼女はいつも見ることしかできなかった。
レーゲンの街には水路が張り巡らされて、氾濫を防ぐように街が設計されていた。全ての雨水は一本の大型河川を集積し、地下や待ちの外へ分散されていく。
街の真ん中を貫くように流れる大型河川。その濁った音が川辺まで轟いていた。その音で気配を見失わないように、アイゼンは民家の上で待ち構えていた。
「あの甘味中毒者、トランシーバーのスイッチ切りやがった」
対象が来る方向、反応のないトランシーバー、また対象の方向を向く。
警戒の態勢に入る。
彼等の任務は討伐だった。第四研究所の実験動物が逃走して、この街に潜伏。被害が出る前に駆除しなければならない。
闇のものは闇の中に。光のものも闇の中に。
山猫の中でも処理専門のチームにいるアイゼンにとってはいつも通りであり、違和感なんてない。悩まない。迷わない。
なぜなら、それが彼の仕事だから。そのため息は今日も重い。一日中、事務仕事したいという彼の願いはいつ叶うのだろう。
河川の轟音から、川辺の遊歩道を跳ねる雨音、そして雨が街路樹から滴り落ちる音を聞き取った。
限りなく集中し、感覚を研ぎ澄ましていく。彼は早く仕事を終わらせたかった。
接敵。
遊歩道の奥で蠢く黒塊。真っ黒な狼。
最後の討伐対象だ。他の対象は討伐済み。奴を倒せば任務は終了だった。魔物ではなく、身体の構造を根本から変形させられた実験動物だった。
かつての実験対象を示す服は破れて、腰に辛うじてその切れ端を纏っていた。
黒い体毛は所々毛が抜けている。実験後の継ぎ接ぎが痛々しい。まるで全身に刻まれた呪いのようだった。
上半身が異様に発達して、細い脚で直立して走る。生物として不自然な動き方だ。
元々は昔の戦争で負けた種族だった。街の外に点々と集落を作って棲息する。人にあらざる者――のなれの果てであり、兵器として改造されたのだろう。処理を任せるくらいであるならば、最初から製造しなければ欲しい。
アイゼンは文句を言いたかったが、歯を見せて笑顔になる。それは自分を偽る仮面かもしれない。
人間離れした脚力で地面を蹴る。
その狩りの対象へ向かって、一つの弾丸のように突っ込んでいく。
「はっ」
アイゼンが腕を突き出して宙を掴むと、二メートルの戦斧が出現した。
長い柄、刀身、その全てが彼の生成した金属で出来ている。その金属は余りにも黒い。真っ黒な武器は夜の闇で見えづらい。
アイゼンの能力、黒い雨。
それは単純な黒色の金属の生成。魔力を物質に変換するシンプルな能力だった。
その速度を全て破壊力に。一点に集中させて振り下ろした。
舗装された道路に亀裂が走る。鈍い爆裂音とともに、刀身が地面にのめり込む。
「ガアッ」
斧が標的の鼻先を掠める。
辛うじて残っていた野生の勘が働いたのだろうか。狼人はその二本足で後退、その一撃を避けた。
埋まった斧を放置して、アイゼンは対象との距離を詰める。
その素手から武器が生み出されていく。限りなく無駄な動作を削った連続攻撃だった。それぞれが意味をもって、形になって、狼に襲いかかる。
付きだした腕から鋭利な槍が現れて、狼人の右肩に突き刺さる。
力量差は明白であり、一方的な狩りとなる。意志のみで動き続ける、壊れかけた生命体は口を開くが言葉は出ない。まるで人の言葉を思い出せないようだった。
「惜しい。元の方が強かっただろうな」
アイゼンとは対照的に、悲鳴のような唸り声が暗闇の中で響く。力に圧倒されて、狂わされた本能のままに狼は逃げるしかなかった。
背を見せた対象へ、ナイフを投擲して追撃。刃を掴んでアンダースロー、振り上げた後、すぐにナイフを生成して、オーバースロー。
連投されたナイフが刺さる。
それでも狼は止まらない。アイゼンに背中を見せたまま、その足は止まらない。棒きれのような脚部を必死に動かしていた。
「遅い」
冷たい声だった。
両手に刀身が黒に染まったフランベルジュ。波打つ刃が特徴のその剣は、肉を引き裂いて、治ることのない傷を与える。
ボタタッと、大量の赤い血が散らばって、濡れた遊歩道に滲んで行く。
黒い刀身が赤く濡れた。
狼は地べたに這いつくばって、苦悶で声が震えていた。動くことさえできていない。
それを見つめるのは目を輝かせた軍人の男だけ。
アイゼンがフランベルジュを宙に放り投げる。まるで泡のような白い粒子となって消え、付着していた血は雨に混ざる。
「悪いが念のためだ」
アイゼンの両手に真っ黒なレイピアを現れて、狼人の両腕に突き立てる。それは標本生物を地面に貼り付けにするまち針である。
自分の仕事を終えて、トランシーバーのスイッチを入れた。
「――やれやれ、やっと終わった。ソナー。こちら、スコール。対象の討伐を完了。そして、喜べ。市街地の被害はほぼゼロだ」
道にある斧の跡。屋根の亀裂。それくらいは被害に入らない。彼等の被害に数えられるのは、民間人の犠牲、建物数軒。その街の朝刊の見出しを飾らなければ問題はなかった。
『スコール。こちら、ソナー。やればできるじゃないですか! 対象は?』
「身体が丈夫だから問題ないと思ったが、こりゃ保つか微妙だな」
アイゼンが地面に剣で縫い止められた獲物を観察して、その状況をリルに報告する。対象は瞳を閉じて、断続的な息であった。傷口から溢れ出る大量の血は、雨に濡れて辺り一面に滲んでいる。
『これでようやくこの街からおさらばですね』
「ああ――」
アイゼンが一瞬眼を離してしまった時である。
その隙を待っていた。狼人は怨念を込めた唸り声をあげた。川の濁流にかき消されずにはっきりと形になって、響き渡る。
憎しみだった。苦しみだった。
それは何かに対しての恨み言。
それは怨念だった。執念と言っても良い。でも、ただの妄念かもしれない。
「――なっ!?」
腕は地面にレイピアで縫い付けられている。腕が千切れても構わないようだ。狼人は咆吼をあげて、立ち上がる。串刺しになったまま、両の腕を自由にした。
「このっ!」
ただの暴れる怪物ではなかった。
仕留めなければならない。処理しなければならない。アイゼンが一撃を振り下ろす。
重力にまかせて全てを叩き潰す、黒い鉄槌。直径五メートルはある金属の塊が、石で固められた遊歩道に突き刺さる。
瓦礫がガラガラと川に飲み込まれていく
対象の亡骸はそこにない。ぽっかりと隠しきれない大きなクレーターがあるだけ。明日のこの街の朝のニュースは決まってしまった。
アイゼンは頭を抱えて、力なくトランシーバーを口元に近づける。
『どうしました?』
「すまん、逃げられた。深手を与えた。生存する可能性は低いが……」
『が!?』
「あと遊歩道が大破。流石に隠せそうもない。処理を頼む」
『はああ!??』
ノイズ混じりの悲鳴が響いた。
これだけの被害状況を隠蔽するためには、やらなければいけない電話と書類は死ぬほどある。悲しいことにそれはアイゼンの部下の仕事だった。
『今、見てます。かなり遠くへ離れています。ああ、圏外にいきました。もう! バーカ! 先輩のバーカ! 筋肉馬鹿! 少しは部下の私の身にもなって下さい。申し訳ないと思うなら、事務仕事をできるよう努力して下さい! この戦闘狂!』
けたたましくトランシーバーが騒ぎ出す。アイゼンの願いは当分叶うことはないだろう。雨の勢いが増してきた。面倒に思ってトランシーバーのスイッチをオフにした。