GENE3-1.二匹の軍人
ゴルド帝国はロワナシア大陸最大の国家である。
その東の外れにある地方都市レーゲンは、「雨の街」として知られていた。一年を通して、どんよりとした雨雲に覆われていた。
薄暮が消えて、太陽は既に地平線に沈む。彼方まで続く、かつての戦場の痕が消えて、雨が降り続ける夜の街だけが人工灯に照らされる。
その重々しい空気を、灰色の建物がさらに息苦しくする。重厚な屋根から、石柱を経由して、石畳に水が溜まっていく。この街のほとんどの建物は石材を積み上げてできていた。
「うちの使徒様も忙しそうですよねぇ、先輩。なんでこんなにうちは忙しいんでしょう。いつ帝都に帰れるんですか? 私、早く帰りたくて帰りたくて」
「……ああ」
「先輩? 話聞いてます?」
街のシンボルである鐘楼が中央広場にある。地上から高さ四十メートルはあろうか。
その先端部。響き渡るように配置された鐘の横。そこに二人の男女が外を見張っていた。
ざっくりと整えられた金髪の男ときっちりと結い上げられた赤髪の女。
外見から見ると、彼等は二十代ほどだろうか。深い藍色の防水布で全身を覆って、無骨なデッキチェアに腰掛けている。ピクニックに来たわけではなさそうだ。
緩みのない佇まいは、明らかに一般人ではない。鋭利なその目つきで、闇の中で蠢く獣を待ち構えていた。
「――こうもジメジメしていると気分がのらん」
「やる気がないのはいつもでしょ、先輩」
先輩と言われた金髪の男、アイゼン=ジリルは湿気た煙草をレインコートの内側から取り出して、その動作すら面倒くさいというように火を付ける。
気怠げな香煙がゆらゆらと浮かぶ。
「上官に向かって失礼ではないのかね、クロイゼル君」
「敬意を払えるような上官であるべきではないでしょうか? あ、煙草を吸う時は言って下さい。私にまで臭いが付きます」
クロイゼルと言われた赤髪の女性、リル=クロイゼルは煙草を付けたアイゼンを一瞥する。わざとらしく椅子をずらして、距離をとる。強風の中でも、その真っ直ぐな姿勢は揺るがない。
街中で男の大半が振り返るような美しい外見だ。しかし、その拒絶的なオーラによって、大半の男は声をかけることを断念するだろう。
アイゼンは虚空を見つめて、哀しそうに煙を吹き出した。ほとんどため息のようなものだった。
「スパイスが効き過ぎてないか」
「今、何か言いましたか? 腹の立つこと言われた気がするんですけど?」
「……昨日の夕食を思い出しただけだ」
「私が作った料理がどうかしました?」
「……うまかった」
「なら問題ありません」
リルの退路を潰していくような問答に、アイゼンは罰が悪そうにレインコートのフードを深く被る。
雨は打楽器のように石壁を叩いていた。そのテンポが緩やかに。雑音が減り、街の影が明確に。微細な闇になっていく。
私の出番ですねと、リルは立ち上がってフードをめくる。波長の送受信に邪魔になるのだ。
彼女、リル=クロイゼルは能力者だ。自身の魔力を特殊な波長に変換して、魔力を含んだ対象の位置を把握する反響定位を使いこなす。彼女は《失くし物の見つけ方》と呼んでいた。
その碧い瞳が輝いて、幾本かの赤毛が逆立つ。
一つの方角を注視すると、遠くにある何かを見つけた。
「先輩。対象の魔力を確認。二時の方向、距離四百」
気怠そうなアイゼンの目付きが切り替わる。餌を丸二日与えられていない狩猟犬のようだ。
アイゼンは煙草の火を乱暴に消した。飛び出した勢いで、デッキチェアが倒れる。
地上四十メートルの高さの鐘楼の先端から飛び降りて、外壁を滑るように落ちていく。着地した衝撃で建物の屋根にヒビが入った。
全く気にせずに、アイゼンは対象の方向へ走り出す。民家の屋根を伝って、可能な限りの直線のルートを、最短距離で目標地点に突き進んでいく。
「何か壊したら始末書ですよ――って、いないですか。そうですか」
遅れたようにリルが横を向くが、誰もいなかった。彼女の言葉は彼の耳には届いていなかった。
不機嫌そうに口を結び、嬉しそうに口角が上がる。
先ほどまでの近寄りがたい印象の彼女はいない。厳格な雰囲気が一気に柔らかくなった。
「いない間に――」
鼻歌を歌い、巨大な鐘の横に置かれたバックパックへ。ごそごそと取り出したのは、銀紙に包まれた板状のチョコレート。
「こんな時こそ、我が帝国の伝統のお菓子、チョコレート!! 私の才能に! あと先輩の無事も一応、祈りましょう!」
銀色の包み紙が剥がされていく。現れたのは焦げ茶色の板状のお菓子だった。乾杯するように板チョコを掲げて、パキンと軽快に、一口囓る。
そして、リルは思い出したように振り返る。
「危ない、忘れるところだった」
帝国軍用トランシーバーが荷物置き場にぽつんと取り残されていた。軽やかに拾う。ナビゲートするための必需品だ。アイゼンの補佐が彼女の役目だった。
『アイゼン=ジリル』と『リル=クロイゼル』。彼等は軍人である。それも一般的な兵士ではない。
彼等が所属しているのは、軍の司令部、使徒直轄の特殊機関、朱い山猫。
非正規戦、心理作戦、偵察活動、欺瞞作戦、攻撃阻止、敵地での特殊作戦、命令されれば全てをこなす。眠らない山猫たちは、どんな『仕事』も遂行する。
他国だけではない。同じ帝国内でも彼等の存在は恐れられていた。
血で真っ赤に染まった飼い猫が、まさか大陸の東端の辺境にいるとは、誰も思わないだろう。
『ソナー。こちらスコール、観測地点に到着した』
細かい雑音が鳴り、アイゼンの声をトランシーバーが拾う。呼び出された名前は、彼等の二つ名でもある『力』の名前。
「スコール。こちらソナー。先輩ほど雨の似合う男はいませんね。その場に待機して下さい。あと数十秒で接触します。幸運を。って言っても先輩ほど応援したくない人はいないですが……。市街地への被害がないことを祈っています」
アイゼンが全力で能力を行使したら、街の一区画が穴だらけになってしまう。そのための忠告だった。
リルの声はどこか素っ気ない。事後処理をするのは、いつも後輩で部下であるリルだった。
『そんなことを言われると悲しいな。しかし、リル。チョコレートなんて食べてると――』
トランシーバーから唐突に音が途絶えた。無意識に電源を切った自分に、彼女は数秒遅れて気付く。
「あっ、切っちゃった……」
しかし、これは彼が悪いのだと、自分に言い聞かせるように彼女は頷いた。
「任務中にファーストネームで呼ぶな。アイゼンにぃは馬鹿なんですね。そうなんですね」
彼女は頬を膨らませてそう呟いた。
彼等は軍人になる前から、子供の時から知っている旧知の仲であった。