GENE2-11.世界を壊す旅に出た
師匠の豊満な胸に口を塞がれ、息苦しさで目が覚めた。
リサ達の部屋に敷かれている布団は三つになって、抱き枕をスーと師匠が取り合っていた。リサの服は着替えさせられて、三人とも深い青の浴衣姿である。掛け布団ははがれ落ちて、部屋の隅に転がっている。
スーの寝相の悪さは知っていったが、ランの寝相もまた酷いらしい。しかし、一体どうしてこんな体勢になっているのか。早く抜け出さなければならない。
声を出そうとしたがうまく喋れず、足にはスーが巻き付いていて、上半身は師匠にがっちりと固められ、二人の力強い腕の力で、身じろぎ一つできなかった。
それでも何度か身体を揺するように動かして、右腕一本だけなんとか自由にできた。
腕を使って頭の位置をずらす。やっと落ち着いて呼吸ができる。師匠の胸を触ってしまうのは不可抗力だ。まるで見せつけるように目の前にある。腹立たしい。
悔しい気持ちで見上げると、師匠が気持ち良さそうに寝ていた。言おうと思っていた文句も忘れてしまうほどの幸せそうな寝顔で、こんな近くで見たのは初めてだった。殴られることもない。闘う彼女の姿しか知らなかった。
昨日の夜流れ込んできた師匠の記憶は残っている。世界で大暴れした鮮明な思い出を知ってしまった。邪神のような人物像とのギャップで、その寝顔の麗しさはさらに極まってしまう。
しな垂れる髪は滑らかな栗色だった。
腕を伸ばして触れてしまった。指先で撫でると確かに存在している。昨日の今日でどこか安心してしまう。自分の能力が成功した証だった。
「っ!?」
髪に触れた途端、師匠の抱きしめる力が強くなって、再び顔がその胸に埋まる。彼女の胸をもっと小さくしておけば良かったと後悔した。遂に顔がのめり込んで窒息しそうになる。じたばた手足を動かしても、二人は一向に起きなかった。
「ちょっ――起きっ――!」
叫んでも声はくぐもり、誰の耳にも届かない。
「皆殺しだ!」と頭の上で師匠の声。寝言らしからぬ寝言であり、夢の話であって欲しい。過酷な戦闘を思い出すにしては、嬉しそうな表情だ。
人を窒息死させるには胸があれば良いのかと、リサはこの後思い知らされる。爽やかな朝の静かな戦闘は、二人が起きるまで続いた。
朝食の時間はすぐだった。三人ともとてつもない空腹に襲われていて、能力を酷使したリサと四百年何も食べていない師匠は特にそうだった。しばらく無言で喰い漁り、ようやく食べるペースが落ちてきた。
「うまいのう! あー、笑いが止まらん!」
「身体の方はどうですか?」
「問題もない。力にも異常はない。まぁ、妾は元々プレイヤーだからのう。この世界の住人のスーよりも大きな変化はないみたいじゃ」
師匠は数百年分のエネルギーを補給するように、何度もおかわりをしていた。しかし、よそうのが面倒になって、最終的におひつを抱えてごはんを食べている。
師匠の外見は、投影されていたイメージと相変わりなかった。リサの想像できるのは稽古を付けていた彼女であるので当然だった。
「お姉様には、変化はないんですか?」
「うーん、自分の能力が発動しやすくなったかも……。スーや師匠のもこれまでよりも使いやすくなってる? のかな?」
「あー、そこら辺はじっくり試せ」
何度も使って、能力のコツのような物が掴めたのかもしれない。
持っている朱色の箸を黒色にする。簡単なイメージの投影だった。スーの力を借りるように意識すると、見える風景の解像度が上がる。
「でも、同じ能力の併用はできないみたい。あっあと、師匠の記憶が……残っています……」
師匠の頭の中を覗き込んでしまったようで、どこか申し訳ない気持ちがあった。おひつから顔をあげて、リサをじろりと見る。
「別になんとも思わん。もともと渡すつもりだと言ったろう」
「まぁ、小娘には刺激が強すぎたかの」とニヤリと笑った。
昨晩、師匠の力が流れ込んできて、師匠の『物語』を強制的に見せられた。この世界の狂気を見てしまった。
壊れかけた世界の中での、神の駒との戦い。朽ちたものを汚水で浸し、刈った頭を血で洗うような、壮絶な戦い。力の乱用で世界が終わる一歩手前まで近づく。それも何度も何度も。
この世界が維持できているのが信じられない位だった。
本で読んだ事実と、実際に見てきた人の実感は大きく違った。
そうなのだ。この世界は歪に回っていた。
「あの、師匠!」
「どうした?」
口に出そうとした、言葉を直前で止める。いや、まだだ。自分の中でまとまっていない。
「いえ、何でもないです」
「……なんじゃ、煮え切らん奴じゃのう」
「師匠はこれからどうするんですか?」と慌てて話題を変えた。
「妾はこれから屋敷を片付ける。完全に消えるつもりだったからのう。準備して主達に合流する」
「準備って? エアさんですか?」
「うむ。まさか自分で助けにいけるとは思わなんだ。あいつを助け出して、お主に加勢する」
「私も早くエアさんに会いたいです」
これからの旅に師匠がついて来ないと聞いて、嬉しさと悲しさが心の中で入り乱れる。そう、ついて来ない不安もあるが、解放されるという喜びもかなりある。師匠には不安そうな表情に見えたらしい。
「そう、心配するな。ゲームの記憶を見て、恐れる気持ちもわかる。じゃが、主ならなんとかなる。大丈夫だと思うから、主と別行動をとるのじゃよ」
自分の中のモヤモヤも固まって、答えは出た。でも、なかなか言えず出発の時間になってしまった。何も予定が入ってないと、流れる時間も早い。追加でいくつかの装備をもらう。薬剤の入った瓶、神子術式が刻み込まれた指輪などだった。
「ありがとうございます」
「ちょっと時間があれば、道具なんぞ簡単に作れる。それはあくまで見本じゃよ。均一な素材なら妾の能力ですぐに生み出せるからの。練習でお主もやってみればいい」
「はい!」
新たな餞別をバックパックに詰め込んで、旅の支度は本当に終わってしまう。師匠とスーと三人で屋敷の玄関まで来た。暗色の木目が途切れて、幅広の石畳が門まで続いている。大きな寺社の入り口を思い出した。
「この屋敷はどうするんですか?」
「小さくまとめるつもりじゃ。祠と書庫だけ残す。ああ、あと露天風呂もな! あの効能はもうないがの。この広い屋敷は見納めじゃ。また創ればよい。こんなハリボテすぐできる」
「もう見れなくなっちゃうんですね――あのお風呂の効果って原理は一体どうなっていたんです?」
「妾のコードをお主に分ける、それだけじゃよ。風呂だと全身から効率良く与えられるからのう。あの実験の下準備みたいなもんじゃ、あんな便利な回復装置、外にはないぞ?」
「気をつけます」
「名残惜しいか?」
「少しだけ。でも、ちょうどいいです」
どこかホッとしたのは、あの薬効は、師匠から生命力を分け与えられていたからかと納得してしまう。
外で力を使い切れば死ぬかもしれないのだ。あんな便利なものもない。そして、管理人の分身はもう世界のどこかにいる。もう動き出してもおかしくない。運悪く巡り合って、弱っているところを襲われる可能性だって十二分もある。
リサはこれから、世界の厄災が振りまく異常を見つけて処理しなければならない。そして、リサは世界が四百年の間にどう変化したのかわからない。だから、調べなければならなかった。
やることは決まっている。
これから街へ向かって、四百年分の情報を集める。世界の歴史を知らなければならない。
不安はある。しかし、それだけじゃなかった。
未踏の新雪に第一歩を刻む時のような胸の高鳴りが止まらない。
近くの街まではだいぶ距離がある。あくまで四百年前の予想なので、どうなっているかわからない。世界地図がどう塗り変わっているか楽しみだった。
師匠からもらった純白の外套に腕を通して、同色のブーツをしっかりと履く。真っ白な修道女のような洋服で全身を固めて、本当に知らない自分になったみたいだ。着る服も替わると、心まで一新する。
ただ、それだけじゃ足りない。『高遠』のリサと決別する時だった。
これからを考えると、これまでの自分を残すつもりもなかったのだ。
「師匠お願いがあります。師匠の名前をちょっと借りても良いですか?」
「いいぞ? むしろ良いのか?」
「良いんです。私たちは本当の『家族』になっちゃいましたから」
今の自分はきっと笑っている。
ブーツの履き心地を確認して、立ち上がる。顔をあげて師匠と向き合う。玄関の段差の分、いつもよりも高い位置から見下ろされる。でも、怯むわけにはいかない。
「もう私は『高遠リサ』じゃあ、ありません! 『リサ=トラオラム』です。そして、スーも、同じ家族です。スーは『スー=トラオラム』です。ファミリーです」
「お姉様!」
メイド服を着た美少女は、横で小さく飛び跳ねる。格式の高いメイド服が、それだけでたちまち可愛さを帯びた。その姿を見ただけでリサは感電死するほどの衝撃を受けた。修行で自制心を身に着けたリサは、妹を優しく抱きしめる。
「名前は人を縛ります。師匠から沢山のものをもらって、私は覚悟を決めました。もう昔の私じゃありません。これは一つの決別で、『高遠』の私とは、おさらばです」
そして、自分の能力を行使する。これまで自分に対する制限を飛び越えた。自らの『生命』に干渉する。
能力で自分の姿を創り替えた。
服に合わせて自らの髪を透き通るような白にする。髪を伸ばそうかと思って止めた。師匠が整えてくれたままにしたい。以前の私とは、もう似ても似つかない。師匠の外見も混ぜて、背も少し高くなる。
「あっはっはっは!! お主はやっぱり面白いことをするのう」
「ふふふ、私も夢見がちな乙女なんです」
そうかそうかと、師匠は嬉しそうに何度も頷く。
「では聞きなさい。リサ」
「はい!」
「これから踏出す世界は、初めての世界じゃ。どんな歴史が発達したのか全くわからん。でも、それが面白さなのも事実ではある」
世界の有事を楽しんできた師匠らしい台詞だった。
「考えることを止めるな、自分で判断して行動しろ。お主の場合は『つながり』が強さになる。歩いて、巡って、沢山の出会いを重ねればいい。もしもどこに行くか迷っていても――いや、もうやめよう。もう会えないわけじゃない。また会えるのじゃ。言いたいことは一言にまとめよう」
この時だけ彼女は偽りのない、素直な表情になる。あの妖艶さは消え、おばあちゃんのような笑顔になった。
「いってらっしゃい」
「はい、師匠、いってきます!」
屋敷の玄関を出ると、屋敷の門が正面にある。まるでどこかの寺社のような、純日本風の門だった。そして。この門は様々な境界線だった。
その門は何も知らない世界へ繋がっている。向こう側には、おそらく知っていることなんて何もない。そして、ゲームをしなければいけない。身がちぎれるような思いもするのだろう。
「スー、また二人だね」
「あの時とはだいぶ違います。でも、私はずっと一緒です。昔のお姉様も、これからのお姉様も最高です」
「ありがとう、スー。そうね、もうあの時とは違う。出発だ」
チュートリアルは終わったのだ。ゲームが嫌だとははもう言わない。むしろ、ゲームを利用しようじゃないか。覚悟は既に出来ていた。いつ元の世界に帰れるかはわからないが、不安はこれっぽっちもなかった。
スーです。お姉さまの能力について補足です。
どのプレイヤーにも言えますが、まぁ、神様みたいな力です。その名称は教えてくれないので、できることをお教えします。
可能なこと
・生命干渉
→従者強化
→従者の能力が使用可能
→肉体操作
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始まりは雨の街。
私はもう人じゃないのだ。
三章 道化の一線