GENE2-10.プレイヤーになる覚悟を決めた
能力は恥ずかしくて口にできない。
エアの本に書かれていた通りに言葉で縛った。イメージの形成に必要なだけで、口にする必要はない。リサは誰にも教えるつもりもなかった。
リサの能力は、生命に対して干渉できる。この世界でスーをきっかけに『助けたい』という願いができた。自分の能力の原動力は救いたいという気持ちなのだ。
衝動が背中を押した。
目の前のランの依り代の黒い立方体から、大量の白い粒子が濁流のように噴き出して、リサの周囲を煌々と照らす。師匠を閉じ込めた箱が溶け始め、原型を失っていく。
そして、宙を舞ったランを構成していた世界の断片はリサに注ぎ込まれ、全身が血液煮えたぎるように沸騰する。こんなの痛みに入らない。右手で掴んだ真っ黒なキューブを怒鳴りつけた。
「これは私のゲームです!」
もう迷わないと、リサはその黒い物体に左手も伸ばして、両手で思い切り掴んだ。
頭の中で必死にイメージを形作る。願いを力に変換する。それに呼応するように、もらった外套が光に染まる。檸檬のような強烈な黄色だった。
「師匠はそんなに望んでいるんじゃないですか! 修行中、あんなにも楽しそうじゃなかったですか。あれがただの記号だとは私は思いません! そんなこともわかんないのか! この馬鹿!!」
自らの意志で始めて、世界に干渉しようとした。
巻き上がった白い粒子は、リサの身体に染みこんで、ランの記憶を肉体に刻み込む。師匠の記憶は火傷するほど熱かった。出会ったときのように感情に溢れて、その姿は美しかった。外見じゃない、生き様が美しかった。記憶を通して、初めて接することが出来たのだ。五百年以上の思い出は鮮やかに彩られていた。
そして、黒いキューブは一回り小さくなっていた。流れ出す力の奔流は止まらない。それを止めようと、全力で師匠を形成する。初めての施行が成功するのかは誰にもわからなかったのだ。
「私が、私が! 師匠を死なせてあげます! だから、その前にもっと殴らせろ! あれだけ痛めつけて、これでお別れなんて許さないって言ってんの!!」
触れている記憶の体温がどんどん冷たくなっていく。白い粒子が映し出す記憶は、封印されてからのものへと移り変わる。凍り付くような冷たさと、自分が築き上げた世界が崩壊する物語だった。
パキンと金属音が鳴って、キューブにヒビが入る。
「師匠! ダメ! 消えないで下さい! 嫌だ! そんなの嫌だ!」
掴んでいた立方体が形を保てずに崩れ始めた。もう数センチの欠片しか残っていない。これが消えれば本当に師匠がいなくなってしまう。それを見てリサのイメージした彼女が崩れそうになるのを、歯を食いしばってリサは思考を集中させる。
彼女の辛い修行で身に着けた術だった。
そして、最後に届いた一欠片は熱い体温を帯びていた。
ほんの一瞬だ。それはリサ達との記憶だった。
そう、これは師匠が生きている証拠なのだ。彼女を助けたいのだと、何度も何度も自分に言い聞かせる。ここで死ぬなんて私が許せない。許さない。決して許しはしないのだ。
「それが私の力でしょう!? ふざけるな! 逝かないで――」
手の上で黒い欠片が全て融解して、激しい流れは途絶えてしまった。黒い立方体はもう存在しない。その欠片すら残っていない。
目の前にあった固体は完全に情報に昇華されて、何も変化が起きていない。
夏の夜は五月蠅いほど静かだった。
リサ達を囲む森に静寂が訪れ、リサの息切れする呼吸音しか聞こえない。手から注がれていた、リサの『願い』は弱々しくなって、手からひねり出された、力の渦が空しく回っている。
「そんな……嘘! 嘘だって……」
掌に力を注ぎ込むけれど、もう力を伝える対象はいなかった。リサの力が宙に放出されていく。目の前には誰もいなかった。願いは叶っていなかった。力が無意味に振り回されるだけだった。
「お姉様っ! もうやめてください! お姉様! それ以上使ったらお姉様まで!!」
「スー、私駄目だ! やっぱり何もできない。こんな力持ってても、駄目なまま! 糞っ!! くそっ」
「おっ落ち着いて! お姉様落ち着いて聞いて!!」
「スー! 師匠が、師匠が!」
手の中でランの存在が消えて、なくなってしまった。あの憎たらしい彼女にもう会うことができないのか。
もっと馬鹿にして欲しかった。けれど、いじめっ子の師匠はもういない。
帯びていた強烈な黄色がぼやけて、ただの純白な外套に戻っていく。
力を止めると漂う白色光が途絶えていく。立ち尽くして、腕を下げると身体が闇夜に飲み込まれていく。リサは力を発するのをやめた。
そして、真っ暗な闇になる。夜風の音しか聞こえない。
スーの小さな腕がリサを引き止める。暗くて何も見えないまま体温が下がり、なにか温かいものを求めるように、スーにしがみついた。
「スー? どこ? もっと近くに来て……」
「はい! もちろんです。大変嬉しいのですが……。ああ、私が全て受けとめてあげます! いえ、そうじゃなくて!」
その小柄の体躯に全身を預けるように、地面に膝をつけて、顔をうずめる。もう誰も失いたくない気分だった。
「――お姉様、強いです! 苦しいです! 良いですか、落ち着いて聞いて下さい」
「……」
「一度ですね、深呼吸して。そして、ゆっくりとです。顔をあげて下さい」
「――え?」
言われるがまま、顔をあげる。強い光を注視してたから、まだ暗闇に目が慣れない。塊のような暗闇で、数メートル先に何があるかすらわからない。
リサは指を振る。単純な神子術式で頭の上に小さな光源を創り出す。力を使いすぎてもう立てなかった。スーに寄りかかって、ぼやけた視界で眺める。しかし、そこには何もなかった。
「……」
現実を見たくない。無言になって、下を向いてしまう。
その時だ。
小さな足音が聞こえた。
光の届く範囲に大きな脚が踏み込んだ。
大きなシルエットだった。リサよりも一回り大きい女性のようだ。白い衣に緋色の袴を着ている。巫女のような姿で、妖艶な魔女みたいな人だった。そう、それはラン=トラオラムに似ていた。いや、師匠その人だった。
「ししょう?」
最初に疑念が生じてしまった。生まれ変わっても、煙に巻いたように飄々として、目が覚めるような美しさで、本当に人なのか信じられない。
「いやぁ、なんかの。声をかけづらくてのー。声をかけるつもりはあったのじゃが」
ランが頬を右手でポリポリと掻く。
目線を合わせないように下を向いて、軽やかに近づいてきた。
「いつからいたんですか?」
「さっきじゃよ。キューブが崩れた瞬間にの」
「嘘です。お姉様が能力を発動してすぐです!」と間髪入れずにスーは突っ込んだ。
「なっ、それは言うな! いきなり生まれ変わって、そんなにすぐに動けるわけなかろう! 心の準備がのう! 必要で! それと……お主が余りにも熱くての。なっはっはっは。聞いているこっちが恥ずかしい」
師匠は満面の笑みで、やっとリサと目を合わせてくれた。晴れ晴れとした、今まで一番嬉しそうな表情である。
「ぶっ殺してやる!!」
殺意を込めるが、力を使い切ったのか身体が着いていかず、前のめりに倒れてしまう。柔らかくて温かい感触だった。リサに彼女に抱きしめられてしまう。その姿は可憐だった。リサの目の前に立つ。もう一回殴ろうと手を伸ばすけれど、もう殴る力は残ってなかった。
「馬鹿……」
「おうやるか。なははははは!! もうフラフラではないか。どれだけ力を使ったのじゃ、馬鹿弟子」
「だ、だって」
師匠に強く抱きしめられる。師匠の温もりを感じる。その吐息が髪を撫でる。
美しさは投影していたイメージと変わらない。師匠の演出ではなかったようだ。背丈は相も変わらず高かった。でも、修行をしていた時と比べて、ほんの十センチほど小さくなってしまう。百七十センチほどだった。
「少し背が小さい。胸も小さくなった。どうせならもっと理想的な身体にして欲しかった」
「文句言わないで下さい」
「初めましてじゃのう」
師匠は優しく身体を覆ってくれた。耳を澄ませば、師匠の緩やかな心音が聞こえてくる。もう幻じゃないのだ。
結果も含めて全部受けとめる。自分の能力で起きた結果は全て引き受ける。それが教え込まれた、力の使い方だった。
全部背負いますと、そう言おうと思ったが、もう口は動かなかった。もう瞼を開くことさえ辛く、髪の毛一本動かせない。後は稽古が終わった時と同じだった。ここには支えてくれる人がいる。そのまま重力に身を任せるだけだ。
「後はお……願い……」
「はい! わかりまし――」
側にいるスーの元気良い返事を師匠が遮った。
「妾がやる」
狭まった視界の中で目が合った。やっぱり彼女は温かい。その生きている証拠に安心して、意識を完全に失った。
スーです。
ここでは能力とは何か。ちょっとした裏話をしたいと思います。
能力はその人の専門や生き様を『材料』に、その『願い』を反映したものです。
例えば、エアさんの解読書は、職業の翻訳家が主な『材料』、勉強家な面もかなり出ているそうです。
ラン師匠の胡蝶之夢の形は、彼女の女優としての職業や茶目っ気のある生き様を『材料』したものなんです。