GENE2-5.ダメ、無理、死にそう
戦闘区域である中庭から、露天風呂までスーに担がれて、脱兎のごとく運ばれる。彼女は兎耳の少女であるので、この比喩は少なからず当たっていた。小さな背中が妙に大きく見える。リサを運ぶその姿は急患を病院へ運ぶ救急車のようだった。これも少なからず当たっている。リサの命はまさに風前の灯火だった。
死にかけたのは何度目だろう。
師匠が稽古で張り切りすぎた結果だった。あの人は力の加減を知らない。もし知っていても、加減する気はないのだろう。一応、殺さないように注意はしているといっていた。リサは全くもって信じられない。
現状は、ランのうっかりで訪れるリサの死を、妹のスーが辛うじて救っていた。
もう怒りの感情すら薄れてきた。正真正銘の命の危機である。
「お姉様! 大丈夫ですか!? お姉様」
スーの言葉に反応すらできない。目にもとまらぬ速さでスーは服を脱がせる。彼女の脱衣技術はかなり向上していた。もう恥を感じる気力もない。
水面から立ち上る湯気は力なく揺れる。
熱いエネルギーが全身を包む。暖簾をくぐって三秒足らずで、学校のプール程の巨大な露天風呂に放り込まれた。今日のお湯の色は乳白色だった。色は変わっても、その強烈な効能に変化はない。
リサの身体は、充電が残り数パーセントの電池のようだった。急速にエネルギーが注がれて充電が完了し、切れかけた意識が覚醒した。
「がばはっ!」
酸素を求めて、水面に顔を出し、湯船の縁の岩を必死に掴んで、息を整えた。
どんなに死にかけても、この風呂に入るとたちまち治る。師匠が調合した特製の薬湯だった。身体が溶けてしまわないか疑わしい。しかし、命には代えられなかった。
「やばっ、ヤバかった! 今回はほんとにヤバかった! 綺麗なお花畑が見えた!」
「もうあんまり無理しないで下さい。死んでしまったかと思いました。本当に心配しました」
「だってだって、今回は師匠があんなに張り切るなんて思わなかったからさ! もう疲れたよ! ああー!」
「良かったです。今回はもう駄目かと」
「生きてる! 私生きてる!」
やっと動くようになった両手で、身体の各部分を確認する。あの修行の中で負った大量の傷は跡形もない。むしろ毎日温泉に入っているからか、以前より肌は綺麗になっていた。
「では、私もご一緒に」
「うん、一緒に入ろう」
スーは服を脱いで、リサのすぐ隣にちょこんと浸かる。リサよりも一回り小さい彼女の頭は、ちょうど肩の位置にある。リラックスした彼女の兎耳は垂れ、リサの肩に当たりをくすぐった。
「このお風呂の成分が気になるんだよねー。死にかけてもすぐ復活する。身体に絶対良くないもの入ってそう」
「腕が千切れても簡単にくっつくと言っていました」
「それは薬とか、そういうものじゃないって! もう毒だって。まぁ、ありがたく浸かるけどさ」
白い湯気がモクモクと立ち上る。中毒性がないことをリサは祈った。
「修行はどうでした?」
「今日はね今日はね! ついに師匠に一発ぶち込めた!」
スーが勢いよく振り返る。濡れた黒髪から水滴が飛び、頬に当たった。妹は今日も可愛らしい。黒髪が水にしたたり、その可愛さに唾を飲む。その愛らしさはマスコットの域を超えていた。
「ほんとですか!」
「ほんとだよ! そのせいか、師匠の攻撃の威力があがったよ! 十倍くらいに……」
あの人はおそらく同じ生物ではない。リサと同郷と言ってはいるが嘘だ。リサは信じていなかった。ちなみに師匠は高ぶった感情に対して、指数関数的に攻撃の威力が増す。リサの体感した中で、本日の威力は最大記録を更新した。首と胴体が繋がっていることに安心してしまう。
「……だから、今日は久しぶりに死にかけたんですね」
「でもね、ちょっと成長したかもしれない」
スーを抱きしめる力が強くなる。初めて師匠という壁に手が触れた。ちょっと触れたと思ったら、その壁はさらに高くなった。師匠はプレイヤーの先輩であり、リサの目標だった。あの神々しさや、千年以上蓄積してきた知識の重みには勝てる気がしない。
人よりも神に近い存在だと、師匠が自分で言っている。本当にそうだとリサも思ってしまう、あんな化物みたいな人と人間を、同じ種に分類してはいけない。だからこそ、手が届いた瞬間が嬉しかった。
「うん、とってもね。死ぬかと思った。ああー! 師匠をもっと殴れないかな……」
「お姉様? 師匠は――」
「わかってるって。師匠の愛情は感じてるよ」
そう師匠の愛情は痛いほどわかってる。死にかけるほどわかっている。
しかし、それとこれは話が違う。まず、現段階の目標は生き残ることだった。そのことは修行を始めてから変わっていない。ゲームで死ぬよりも、師匠で死ぬ確率の方が高い。ゲームが修行よりも過酷だとは思えなかった。
「スー、私って、この世界にもちょっとは慣れたかも」
「そうですよ! 最近、稽古している姿、楽しそうですよ?」
「それはないって! 絶対ない! あり得ないよ!」
稽古中はずっと悲鳴上げている。殺虫剤から逃げる蠅の気持ちだった。どうしようもない力の差を見せつけるように師匠は追いかけ、リサの息の根を止めようとする。少なくともリサはそう思える。この世界で生存できているのが奇跡だった。
「嘘じゃありませんよ、近頃のお姉様は輝いています!」
「うーん、エアさんのおかげかな? 確かに単純な力の強化よりも、神子術式を使い始めてからの方が楽しいし、ちょっとあの人はうるさいけどね」
頭の中のエアさんが騒ぎ出す。人の話した情報を何百時間も覚えさせられると、簡単に想像できてしまう。教科書に不要な情報を挟んでくるからタチが悪かった。
「やはり、お姉様の世界とは違いますか?」
「全く違うねー。世界の原理が違うんだもん。根本がおかしい。こんな変な力があるんだもんね。エアさんの本もそう。師匠の力もそう。自分も人間かどうか怪しくなってきちゃったね」
「……お姉様はお姉様です! どんなに変わってもお姉様です!」
「ふふふ、ありがと」
スーは熱くなったのか、頬が赤くなっている。ウサギ耳が少し垂れ始めてきた。
「……お姉様。……お姉様は今大丈夫ですか?」
「スー?」
「ああ、私が何を見ても、お姉様に着いていきますから! でも時たま心配になってしまうのです」
「うん、ありがとう。知ってるよ。大丈夫」
「ええと、ですね。お姉様は無理矢理この世界につれてこられて、この世界で訳もわからず神様の代理人になって、私はお姉様のお気持ちが心配です!」
「……」
「お姉様はゲームやこの世界について、どう思ってるんですか?」
「うーん、どう思っているって聞かれてもね」
リサの身体は、この世界にだいぶ染まってきた。これまでの自分を上書きするように、数々の出来事によって、肉体の根本から更新されていく。師匠の実戦に近い稽古で、怪物に近い力を研ぎ澄まし、エアの本で世界の真理とも言える情報を刻み込んでいる。
リサの精神的な基盤はまだ人で、ランにはまだ甘いと言われてしまうだろう。ただ肉体的な基盤は既に人外だった。スーは兎耳に力が入り直立する、真剣なまなざしだ。
「複雑な気分だよね。勝手に呼ばれて、プレイヤーだって言われてさ。早く元の世界に帰りたいよ……」
「はい」と小さくスーは相づちを打つ。
「でも、ゲームは待ってくれない。師匠やエアさんの本でも、何度も言われた。ゲームを終わらせないと元の世界に帰れない。この力を使うことに馴れないといけないって。今はどうするかまだ決めれないよ。早く帰りたいから仕方ないよねって自分に言い聞かせてる。ああ、でも! あの管理人を一発殴ってやりたいって気持ちはずっとある!」
「何か悩んでいることはありますか?」
「あるように見える?」
リサが笑って問いかけると、スーは驚いて、固まってしまう。
「い、いえ、そんな風には見えないのです……」
「なんだよ、傷つくなー」
むくれたフリして頬を膨らませると、スーは慌てふためいて、あわわと手をばたつかせた。
「いっいつも笑っていらっしゃるので、逆に心配になってしまうんです!」
「ふふふ! 怒ってないよ! 強いて言うなら、自分の能力かな? なんとなく目安はついているけど」
「……予想はついているのですか?」
「うん」
能力とはこの世界に干渉する権限であり、自分の考えていたことを材料に、この世界での強い意志が実現した結果である。そして、身の回りの結果から自分の根幹を導き出さなければならない。リサの能力によって、スーがこの世界に存在しない種になった。そして、スーの力も利用できる。これが大きな鍵である。
「お姉様はもとの世界で何をしていらっしゃったのですか?」
「ただのどこにでもいる学生だよ?」
「何を勉強して……いらっしゃったんですか……」
「そう! そうなの! 私はまだちゃんとした専門は決まっていないし、なんとなくで大学に入学したんだけどね。生物を勉強しててね――」
「……」
「スー!?」
スーはいつの間にか水没していた。ウサギ耳だけが突き出ていて、その根元でぶくぶくと泡がはじけている。完全にのぼせていた。
「ごめんー! お風呂苦手だったね」
「気にしないでください……私もお手伝いしますから…サンテ」
慌ててスーを引っ張り上げて、すぐに水中から救出する。白い肌は真っ赤になって、その小さい身体を持ち上げてお風呂から出る。スーは目を回していた、話しすぎてしまうと、いつもこうなってしまう。
「この世界もなんとかしないといけないんだけどね」
エアの本で歴史を学んだ。管理人とプレイヤーの強大な力で、この世界は簡単に塗り替えられてきた。この世界は強大な力が動く『ゲーム』によって、何度も何度も滅びかけた。湯あたりしているスーには聞こえていないだろう。