GENE1-1.私は課題をやらなきゃいけないの
Goodbye,my world.
風の音が煩わしい。水平線まで続く草原、緑の砂漠と呼べばいいのだろうか。風は涼しく、照りつける日差しを和らげる。
雨が降った後の水たまりのように、ぽつりぽつりと血だまりが点在していた。憩いの泉とはかけ離れた光景である。この世界に紛れ込んだ自分が一番、異質だった。
「ねぇ――」
リサがこの世界に訪れて、二日目の昼である。あの気怠げな大学生活をいくら渇望しても、時間は逆行しなかった。
足下に横たわる兎人の子供を見る。彼女を包んでいた繭はもう消えていた。
純白の糸の上に、羽化した彼女が横になって寝ている。
毛むくじゃらの彼女は半人間の少女に変わっていた。頭には小ぶりになった兎耳だけが残っている。不可思議な力を使った結果なのだろうか。
見渡すと、赤い液体が誰の血かわからないほど散布されていた。
血液を浴びた雑草は風に吹かれて揺れている。
千切れて転がった生首は、明後日の方向を向いていた。
獣人達の首や手足が四散して、もうどの部位が誰のものだかわからない。
「――私どうなっちゃったの?」
風の音が弱くなり、元の姿へと戻っていく。思い出したように頭の激痛と、鈍い恐怖がやって来た。この惨状は誰かが起こしたものじゃない。自分自身がやったことなのだ。
独り言には誰も答えてくれない。現実から逃げるように、意識がぷつりと途切れてしまった。
彼女がこの世界に訪れて二日目の出来事である。
******
夏だった。気怠さが倍増しているのは、全て夏のせいだった。
うだるように暑い。あと一日で夏休みなのに何も楽しくない。小学生の頃の浮き立つような興奮は失った。彼女――高遠リサは欠伸をしてしまう。
刺激もない一日を繰返し、手帳の八月のスケジュールはバイトとテストと自動車学校だけである。
世の中のニュースは、朝ベットで寝ぼけている間に見尽くした。印象に残らない学食を食べ、本日最後の講義に出席していた。講義中だろうか構わない。先生の声をBGMに下を向き、居眠りするようにスマホで見知った世界を探索する。
小さな端末の画面に膨大な情報が流れていく。しかし、暇つぶしになるものはなかった。今日の朝みた情報を最後に見て、画面の電源を落す。
机の上や教室も見飽きて、どうしようもなく窓の外を眺めてしまう。
ここは都内にある鹿鳴館大学のキャンパス。
講義棟二階からはメインストリートに植えられている銀杏並木が見えた。青々とした扇状の葉が生ぬるい空気に晒されて、思わずため息が出る。
先生の声だけが響いていた大講堂に、学生の声が溢れ出して、つまらない授業がようやく終わることを知らせてくれた。
「――なあ、課題どうした?」
「昨日出した。テストじゃないから楽だよな」
何か不吉な単語が聞き取れた。突然の奇襲に、寝ぼけていたリサの脳が覚醒する。
嫌な予感がして喉元が疼く。慌てて教室を見回すと、名前も知らない同級生達が席を離れて、教室を去って行く。みんな笑顔で、リサはその笑顔の理由がわからなかった。
焦燥感を晴らしたくて答えを探そうと、さらに今置かれた状況を読み取っていく。
クリーム色の固定長机と椅子、非常口に高い天井と蛍光、物々しい教壇、そして授業の残骸が残る巨大な黒板。
「あっ」
そして、その驚きが暗い絶望に変わっていく。人口密度が下がる教室で立ち上がれない。突きつけられた現実に体感温度が五度下がる。
視線の先には先生からの連絡事項があった。大学特有のスライド式の黒板の上段の隅。リサを見下ろすように書かれていた黄色いチョークの最終勧告。
『課題、明日十二時締め切り』と残酷な短文のメッセージが書いてある。
学生が晴れ晴れとした表情で教室を出て行くのが憎たらしくなって、鞄に押込めている分厚い教科書は鈍器に見えて、リサはゾッとしてしまう。
円弧状に配置された長机が空になって、騒がしかった大講堂が嘘のように静かになった。百五十センチに満たない身長から見える風景が、余計に広々と感じてしまう。冷房の空気が体温をさらに奪う。
「や……やばっ……」
完全に油断していた。言い訳なんてできない。レポートの締め切りは来週だと思っていた。
そして、この授業を落とせば、リサは留年。普段はくだらないことを考える脳細胞がフル回転して、留年するまでの過程を何度も入念にチェックしていく。
この授業は選択必修科目、これ以外で履修している選択必修はない。この授業を欠席した数は四回。出席点がギリギリで、入念にレポートを書かなければならないのは馬鹿でもわかる。なのに、これまでの授業内容は砂粒一つ分すら覚えていない。さらには、締め切りに厳しい教授だとも聞いている。
心臓の動悸が激しくなって、その音が喉元を通って鼓膜まで届く。
いや、落ち着け、まだ終わったわけじゃない。リサは自分を落ち着かせていく。自分は一人じゃないのだ、この授業を一緒に受けている親友がいるじゃないか。
そう、隣の席にはミナミが座っている。リサの大切な、とても大切な友人。唯一無二の親友と言ってもいい。
「リサ、私帰るね!」と、状況を察して笑顔で帰るリサの親友。
「――!?」
無音で席を立っていた彼女は、大きなトートバッグを軽々と持ち上げる。机の上にあった筆記用具は既に片付けられている。勘のいい女だった。
「まっ待って、ミナミ!!」
「やだ。待たない」
「お願いだから!!」
このまま易々と逃がしてはいけないと本能が叫ぶ。使い勝手の良い親友の助けがなければ、リサは本当に笑えない状況になってしまうのだ。
渾身の生命力を注ぎ込んで、その腕を必死に掴み取る。勢いよく腕を伸ばしすぎて、椅子からずり落ちそうになる。日常でお淑やかさを心がけているリサだったが、今はそんなことは言ってられない。
「あのさー、リサ――」
ミナミはリサの上目遣いを見て、面倒くさそうに口を開けた。本気のトーンにリサの背筋が固まった。でも、それは課題を終えてからにして欲しい。後でいくらでも罵倒してもいい。ここで怖じ気づいてはいられない。リサは何か言われる前に矢継ぎ早で言葉をぶつける。
「お願い! お願いだから、行かないで! 見捨てないで! たまたま締め切り勘違いしてただけなの! 想定していれば回避できた! もうこれ以上迷惑かけないから!」
絶対に離さない。これを離せば本当に終わる。いくら怠け者で、リサでも留年したらヤバいことくらいわかるのだ。そして、母に殴られる。渾身の鉄拳で殴られる。
「……」
「ねぇ! 本当にお願い! ランチ一食!」
「……この前もレポート見せたよね?」
「参考資料だけで良いから! お願い! 助けて! あと先輩の過去の課題のレポートを!」
「――たった一食だけ?」
ミナミの表情から面倒臭さすら消えた。ゴミを見る眼になる。
長年の付き合いから察するに、本当に危機迫る事態だった。もうなりふり構っていられなかった。
「……わかった! わかったから! さらに好きなケーキ屋連れて行ってあげる! 何ならハシゴでもいい!!」
「本当に?」
「うん……」
「嘘じゃない?」
「わかった! わかったよ! 全部奢る、奢るから!」
「――よし、問題ない。取引は成立だ。ありがとう-!! 行きたいお店いくつかあったんだよねー、予約もお願いね」
真顔が憎たらしい笑顔に変わっていて、リサの知っているミナミに戻る。このパターンも知っている。何度引っ掛かったかわからない、いつものやつだった。
騙されたと気付くまでに、数秒の沈黙が続く。ミナミは釣られた魚を見るように、にやりと笑った。
「みっミナミ……!?」
「あったりー!」
「もうやめてよ! 本当に焦ったんだから!」
「ごめんごめん、泣かないでって。可愛い顔が台無しだよ」
「泣いてないから!」
なんだ、ミナミはいつも通りだと、リサはホッと息をつく。本当に見捨てられたかと思った。安堵と恐怖が入り乱れて、机の上に突っ伏した。もしかしたら本当に泣いていたかもしれない。
そして、何か言ってはいけないことを口走った気がして、恐る恐るミナミを見上げた。
「あの……、ミナミ?」とはにかみながら聞いてみる。
「成立だよ」
リサの提案は却下だった。後で通帳を確認しようと脱力して、机におでこをぶつける。そのまま、ミナミに頭を撫でられて慰めらた。もうぐうの音も出なかった。ミナミの方が一枚も二枚も上手なのは、少し腹が立って頬が膨らんでしまう。
「それにしても、リサを弄るの楽しいね。いとこと遊んでるみたい」
「……あんたのいとこ、小学生でしょ」
机に突っ伏したまま、顔だけあげた。彼女の笑顔が目についた。
想定以上の報酬が提示されたのだろう。ミナミは筆箱からUSBを取り出して、焦らすようにリサの頭の上に乗せた。飼い犬の気分になって、噛みつくように奪い取った。
しかし、ゆっくりはしていられない。茶色の無地の手帳を取り出して、ミナミの口から繰り出される参考図書の名前をメモしていく。訳のわからない呪文に聞えてしまうが、リサはめげなかった。
明日の締め切りまでの予定を逆算して、今夜は徹夜になりそうだと算出結果が出る。今日を乗り切れば、人生最大の災難を乗り越えられると、自身を奮い立たせていく。
「ねぇ、夏休みどこか行かない?」
「ミナミ、私はね。今それどころじゃないの! もう! 見てわかるでしょう!」
「うん、リサの長所は無駄な体力と根性と集中力。後追い込まれたときの容量の良さは一級品! 伊達にだらけていないよね! たぶん大丈夫だからさ」
「褒めてない! 絶対それ褒めてない!」
「リサ、小さいから留年しても気付かれないよ。後輩になってもよろしくね」
「やっぱり褒めてない!」
「ふふふ、明日もこれで遊ぼうとしよう。ねぇ、奢るのは明日のランチで良い? 徹夜明けだと思うけど……」
とリサの親友は嬉しそうに顔をほころばせた。
確かに二人きりで御飯に行くのは久しぶりだった。徹夜明けのランチだが、頑張った分、派手に美味しいものを食べるのが良いかもしれない。
「いいよ。問題ないよ。むしろ頑張れる!」
「やった。あ――ごめん! 手伝ってあげたいけど、バイトあるから私は先に帰らなきゃ」
リサがプレゼントした腕時計を見て、ミナミは焦った様子になってトートバッグを持ち上げる。
「明日、同い年の後輩と夏休みの計画を立てるのはごめんだよ?」
「それはないよ、私やればできる子だから! 誰かに拉致されない限り大丈夫だって」
「ふふ、そんなことある? じゃあ、またね。リサ頑張って!」
「うん、またね」
電車の時間が近づいてきてるのだろう。ミナミは駆け足で教室を出て行った。親友とおしゃべりする時間はもう終わりだ。リサも気合いを入れなければならない。やることは決まっていた。目的の本が図書館にあるとは限らないので、一直線に図書館へ走り出す。やる気を出してからの行動は早いのだ。図書館と講義棟の二階を繋ぐ渡り連絡通路を早歩きで駆け抜けて、本が置かれている棚へ向かう。
棚の分類は『自然科学』だった。下段には大判の図鑑や写真集、中段から上は新書、教科書などの専門書が並んでいた。不規則な間隔で白板が挿入され、大まかな分野がさらに細分されている。
メモした手帳を片手に、ジットリとした圧迫感のある書架である。
多くの学生が勉強する空間に長居はしたくない。昔から図書館は苦手な場所だった。足取りは重く、本は分厚くなるほど嫌いだった。しかし、のんびりしている暇はない。歩速を緩めずに突き進む。
生化学、微生物学、遺伝学と、本の背表紙を撫でるように目的の分野を探す。メモに書いてある一冊を見つけた。他の参考図書は見当たらない。辛うじて残っていた最後の一冊で、運命のようなものを感じてしまう。喜んで、果敢に手を突き伸ばす。しかし、明らかに届かない位置にあった。
先日髪をばっさり切って、整えられたばかりのボブカット。ジャンプする度に軽くなった髪が上下する。擦りもしない。数ヶ月寝て身長が数センチ伸びれば届く距離なのにと、リサは小さくため息をつく。
誰にも気付かれないように足台を持って来て、ようやく目的の本を得ることができた。普段は嫌悪感を抱いてしまう分厚い本も、こうやってじっくりと見れば可愛らしい。勘違いだろう。
そこには『種の起源』と背表紙に書かれていた。
「よし!」
これで後はレポートを仕上げるだけである。
図書館から脱出し、電車に飛び乗って、家に着いたのは午後五時過ぎだった。これから部屋に戻って十時間以上の作業ができる。だらけきった生活のおかげで、体調も万全だ。
リサの住む家はオートロックのマンション、一人娘を心配する両親が見つけた住まいだった。鉄筋のビルをかき分けるように電車で移動して、学校から二十分の時間で辿り着く。
エントランスの集合ポストには、小さな紙切れが入っていた。配達のお知らせ票だ。心当たりはなく、首をかしげて、荷物が預けられている宅配ボックスへ向かう。
「お母さんかな……?」
当たっていた。送り主に実家の住所と母の名前が記入されていた。両手で抱えられるほどの小さな段ボールだ。荷物と共にエレベーターに乗って、重い荷物を持ちながら片腕を伸ばして四階のボタンを押す。
玄関で開けると食料品が詰められていた。不定期で届く支援物資。実家で食べていたお菓子や、頼んでいた地元の特産品、七味唐辛子まで入っていた。
さらに、地元の特産品をモチーフにしたキャラクターのぬいぐるみが押し込められている。リサを励まそうと母が送ってくるもので、独自のセンスが光っている。
「やった! 七味――」
飛びつくように取り出すと、「何か」がフローリングの廊下に転がり落ちた。
カランコロン。
高い金属音が鳴り響く。
サイコロサイズの立方体だった。全ての光を吸い込むような黒、はじめて見る質感だった。親指と人差し指で摘まむと、羽毛のように軽くて驚いてしまう。金属特有の光沢もなく、墨で塗りつぶされた木材のようでもある。
気になって聞いてみようかなとスマホを見ると、その前に母からメッセージが来ていた。
『非常食送りました!』
一度疑問符の着いた質問を打ち込むが、別に聞くほどではないような気がして、書いた文章を消去していく。代わりにお礼のスタンプを送った。
「うおっし!」
リサは自分を一喝して気合いを入れる。のんびりはしていられない。まだ課題を提出したわけじゃないのだ。頭を振って、まだ寝ぼけている身体に活を入れる。
「ん?」
端末の振動音のようなものが聞えたけれど、リサのスマホではなかった。きっと気のせいだろう。ノートパソコンを起動して、もらったデータを読み込ませる。
長い長い夜の始まりである。