君の名は
(一)相席の女
「宜しいですか?」
落着いた女の声が若月真一郎に訊いてきた。彼は本から目を離さず、手探りでコーヒーを受け皿ごと手前に引くと、女を見ずに抑揚のない声で言った。
「どうぞ」
男だったなら無視したろう。動作だけで十分に意志は伝わるはずだ。
その日、ロビーは外国人の団体で混雑していたから、相席になるのは覚悟していた。それでもホテルのロビーはいい。いつものように散歩の途中で寄ったのだ。タバコもコーヒーも自由になるここで、彼は小説を読んで暇つぶしをする。そしてスーパーが主婦たちで混み合う前に買い物をすませ、再び、だれもいない家に帰っていく。外人客が多いロビーは、彼に海外に出たような錯覚を起こさせる。彼は一人旅する異邦人の倦怠感を味わう。退職した独り者のささやかな愉しみだ。
「恐れ入ります」
女は向かい側に座った。若月の目は活字を追い続けていたが、女の動きはぼんやりと判った。
やがて彼は、一区切りつけようとポケットからタバコを取り出した。女はブリーフケースから何やら書類を出して眺めていた。俯いている顔は艶を消したようで浅黒かった。
……日本人じゃなかったのか……。
彼が深く吸い込んだ煙を女を避けるようにして吐き出すと、女が言った。
「いやだわ」
女は書類を見たまま顔をしかめた。
「あ、失礼ッ」
若月はあわててゴールデン・バットを揉み消した。
「こりゃ、うっかりしてました」
若月は詫びを繰返した。
「あ、いえ、ごめんなさい。タバコじゃないんです。仕事のことでちょっと……。タバコはお吸いになってかまいませんのよ、どうぞ」
「そうですか。なら、失礼して……」
灰皿のなかのタバコを吸うのも気がひけて、彼は新しいのに火を点けた。二人はやっと正面からお互いの顔を見合わせた。女が軽い会釈をした。
「ん?」
彼女の眼を見て若月は、シャボン玉に手を伸ばすような、重さもない生まれたての雛を巣から取り出すような、何ともデリケートな感情にとらわれた。
……この女にはどこかで会った。いや、そんなはずないか。でも、会ったとすれば、どこで会っただれだろう?
彼は過去の記憶をさぐり始めた。ここ最近のものではなさそうだった。
(二)彼女の日本語
明らかに風貌の異なる外国人に自分のと遜色ない日本語を使われるとヘンな気がするものだ。声だけを聞いていた若月は、彼女を日本人だとばかり思って疑わなかった。『宜しいですか』と余分のない日本語が彼の耳に自然だった。日本語に慣れない外国人は『ワタシガココニスワッテモイイデスカ?』とは言えても、状況をそっくりそのまま状況として捉えて「よろしいですか?」とはなかなかならない。小さな商社でコレポン(海外文書係)をしていた彼は、ときたまヨーロッパ人を接待することがあったので、彼らが「ワタシ」は勿論、「ココ」とか「スワル」まではっきり言い切らないと不安らしいことも知っていた。しかし日本語は分かり切ったことを口に出すと諄くなるし、野暮になる。女の日本語は習ったのでなく慣れたものだ。若月は、この女なら外国人でも安心して話せると思った。
彼女は書類をブリーフケースに戻しながら若月に訊ねた。
「もうバットを吸われる方も珍しいのでしょう?」
「さあ、どうですかね。外国の方がバットを知っている方が珍しいでしょう、ははは。先日、太宰治がバットの愛好者だったと知りましてね。それから真似てます。ほんのイタズラですよ」
「ずっと吸っていらしたというわけじゃないのですね」
「残念そうなお顔ですね。ずっとバットだったなら何かご褒美でもくださる? ははは」
「いえ、亡くなった母が好んで吸っておりましたから、バットの匂いは嫌いではないのです。私が仕事でインドネシアと日本を往復するようになりますとね、日本土産はゴールデン・バットがいいって言うんですよ。それも沢山買って来いって。タバコは持ち帰れる量が決まってますでしょう? それを、セブンスターの半値なら倍は買えなきゃおかしいと言い張って。困りましたわ、ほほほ」
「ゆかいなお母上ですね」
「昔、日本の兵隊さんでも好きになって、その方から頂いたのが忘れられないとか、ロマンチックことでもあったのでしょうかしら。ほほほ」
「あ、気づきませんで。宜しかったら、どうぞ」
若月は金色のコウモリが向合った緑色のパックの頭を叩いて三本ほど途中まで出し、彼女に差し出した。
「いえ、不調法ですので……」
……不調法? 今どきこんな言葉を使う女性は日本でも珍しい。驚いたな……。
若月は今年八十五才になる母がむかし、家に招んだ父の友人から酒をすすめられ、そう断っていたのを思い出した。そのとき彼はまだ小学生で、それ以来聞いたことがなかった。たった一つの言葉がまだ若かった母親を思い出させたのも彼には驚きだった。
「不調法とは恐れ入りました。そんな日本語をご存じなんですね。ははは」
「古いですか。ぶっきらぼうに『吸わない』と言うほうがやっぱり当世風なのでしょうかしらね?」
「ほー、今度は当世風ですか、ははは。それも懐かしいですよね。いえ、決してバカになんか……。感心しているんです。もっと聞かせて欲しいもんです」
「そう仰言られても、私は言おうと思って言ってるのではありませんから」
「ふむ、お国の懐かしいお話でもしてもらえたらうれしいですね」
「昔ばなしも悪くないですが、初めての方にお聞かせできるお話って、そうはございませんでしょう? 探せば何か出て来ますかしらね。ほほほ」
そう言って彼女はハンカチを口に当てて笑った。白い歯がのぞいて見えた。若月は、笑う口もとをハンカチで押さえる女性を見たのも久し振りだ。
「お忙しいのは見て判りますが、宜しければまた晩にでもお饒舌りしませんか?」
若月が大胆にそう申し出たのには理由がなくはなかった。しかし、ビジネスで日本に来ている外国人がヒマなわけはない。
「それはちょっと……」
彼の誘いは彼女の上手な日本語で体よくかわされた。
(三)コーヒー農園の少女
初対面の女とそんな会話をしながら、若月がおぼろな記憶を辿って、やっと探し当てた人物にピントが合ったとき、あまりの意外さに思わず声をあげそうになった。
……どこかでお会いしませんでしたか、などと露骨に訊ける年齢ではない。僕が六十、彼女は少し年上だろう、分別盛りもいいところだ。下心のないイエス・ノーの質問だとは思っちゃくれまい。しかし、眼の前の浅黒い肌の女性は、あの少女の印象にピッタリと重なって、寸分のぶれも滲みもない。あの少女は僕に気づかずに消えていった。思春期の少年の片想いであったろう。あれだけ少女を受け止めながら僕には為す術がなかった。呼びかけても応えてくれない南国の少女に、なんと果敢なく失われてしまった想いだったか。そして今、こうして眼の前にいるこの女性は……。
少年の日に若月の胸を痛めた切なさが、五十年近く経った今、再び彼の胸を締めつけてきた。
……疾しい気持ちは少しもないので、誤解しないでほしい。いや、誤解してもかまわないから聞いてもらいたい。他人には他愛のない話でも、貴方ならバカにせず聞いてくれるような気がする……。
若月は思いきって切り出した。
「あの、不躾ですが、貴女のお顔で想い出した女性がおります」
「え? まぁ、そんな。ほほほ……」
彼女は期待をするでもなく無視するでもなく、ただ笑った。若月は話し始めた。
「温かい雨が降っている林の中を、ですね、裸足に腰布の少女が向うから歩いて来るんです。健康そうな愛くるしい少女です。ふくらんだ胸に窮屈そうなブラウスを直に着て、それが雨に濡れて肌にはりついているんです。薄くて平べったい大きなザルを、そう、こんなふうに腰に当てましてね、摘みたての木の実をいっぱい入れているんですね。円で大きな黒い瞳が、なぁんにも疑わずにキラキラ輝いて……。にこッと笑ってのぞく歯が、檳榔樹の実でも噛んだのかな、赤く染まって、あ、当時のテレビは白黒でしたから実際に赤かったかどうか分かりませんよね、ははは。ジャワのコーヒー園で働く少女の映像だったですね。その少女が貴女にとてもよく……」
それは五十年も前、テレビで大手食品会社が新発売するインスタントコーヒーのCMだった。彼はブラウン管に現れた少女に惹かれた。古い記憶なので宣伝文句も音楽がどんなだったかも思いだせなかったが、若月は映像の雰囲気を彼女にそう伝えた。
「初恋でした。あの娘はどんな女性に成長したでしょうか」
「…………」
彼女は一言も喋らなかった。相槌ひとつ打たなかった。話の途中で唇が何かを言いたそうに動きかけたのだが、初恋の少女を思い出せた興奮で、若月はそれを見落としていた。
「いやあ、古い思い出で、恥ずかしいやら懐かしいやら。思い出させてくれた貴女にはお礼を申さねばなりませんね」
彼女の部下らしい、やはり、同国人らしい四十代の男が現れて言った。
「専務、お時間です」
彼女は男に目でうなずくと、若月に名刺を渡して言った。
「わかりました。今日は都合がつきません。明晩七時にこのロビーで宜しいですか?」
「は、はい。僕は若月真一郎と言います。会社を辞めたので名刺はありませんが。では、明日の七時に……」
若月は彼女を見送って、話したばかりの少女の姿を思い浮かべて呟いた。
……思ったより、結果が早く出てしまったな……。
彼の手のなかの名刺には『スラバヤ食品工業株式会社 専務取締役 イルマ サカグチ』とあった。
(四)もっと知りたい
若月はホテルを出て本屋に立ち寄り、広辞苑で「スラバヤ」を探した。インドネシア、ジャワ島北東部、マズラ海峡に臨む港湾都市。ジャワ糖生産の中心地。人口四二七万一千、とあった。彼はスラバヤの名もその都市がインドネシアにあることも知らなかった。インドネシア───。
……サカグチは「坂口」? 日本人との混血か? そんな風には見えないけどな……。
彼は図書館でもっと詳しく調べようと思った。道すがら彼女との会話を思い返してみたが、彼女は母親がバットを喫う人だったこと以外これといって話してはいない。彼は苦笑した。
……僕だけが夢中で饒舌ってたのか。僕の関心はコーヒーの少女だったはずなのに、そっくりだと言うだけで、なぜ彼女のことを知りたがるんだ? それにしても、よく会う約束をしてくれたもんだな。まさか彼女があの少女なわけないし、それとも僕に何か話したいことでもあるんだろうか? 若月はこころがはずんだ。
平日の図書館は空いていた。百科事典でインドネシアの項にざっと目を通してから、視聴覚資料をそろえた三階へ行ってビデオを観た。観光客向けの編集でジャカルタとバリ島が中心のビデオにスラバヤはわずかしか出て来なかった。彼女がまた会ってくれるというのに、インドネシアの「イ」の字も知らないでは世間話もできないと思ってのことだった。彼は『あなたの知りたいインドネシア』と『トラベル・インドネシア語会話』の二冊を借りた。……丸一日あるんだ。ざっとなら読めるだろう……。
(五)極楽とんぼ
若月はヒマな男だった。定年にはまだ四年あったが、依願退職者の募集に応じて、還暦を期に会社を辞めた。仕事が人一倍できるというわけでもないので、嘱託になってまで会社に残ろうという気は起きなかった。独身のせいもあったかも知れない。
同僚たちには家族がある。苦しいにしても働く張りもある。若月と同じようにして辞めた彼らは、退職後も第二の人生を踏み出そうとしない彼のことを、独身貴族だと羨ましがり、陰では極楽とんぼだと軽蔑しながらやはり羨ましがった。不動産会社に再就職した者、自分の店を出すために焼き鳥屋に見習いで入った者、息子が跡を継げるくらいにはしたいと軽トラック一台で運送業を始めた者。しかし彼は何もやらなかった。
……周囲がどう思おうと僕の人生は一度だけだ。今までずっと独身だったからな、今さら第二の人生も第三もないさ。自分なりに過ごすだけだ。これからは干涸びていくだけの人生しか残ってはいないのだ。第二の人生などといって妙な欲は出さぬがいい。退職金を上手に使い、出費を切り詰めればやりくりがつかなくもない。野望も趣味もない僕がお茶を啜って図書館の本を読んでいるぶんには金はかからない。どう力んでみたところで一生が終わりかけているのは間違いないのだ。……空の鳥を見よ。種もまかず収穫もせず、それでも神さまは寿命の尽きるまで養ってくれる……。
神を信じているわけでもないが、彼はそう考える。体のいい現実逃避かも知れない。彼は自分がいま感じているときめきのようなものは、家族のために働いている同僚たちには巡って来ない種類のものだ、と自慢したいような気持ちがなくはなかった。
若月はよく小説を読んだが、それらは心を奮い立たせるというより、むしろ美しく滅びて行く「ものの哀れ」に同調する傾向のものだった。老境に入っても彼には、まだ少年の空想癖を抜け切っていないようなところがあった。同僚たちが「自分の殻に閉じこもっているとボケが早いぞ」と脅迫めかして言うと、「どうせボケるのに早いも遅いもあるもんか」若月はそう反論した。
(六)インドネシアの上っ面
彼は図書館から借りた本を夢中で読んだ。終戦を迎えた日本軍兵士たちのなかには、本国帰還を拒み、そのままインドネシア独立闘争の義勇軍に加わった者が千名以上もいたのだという。が、その多くはゲリラ戦で落命している。現地の女性と結婚して家庭を持ち、改宗してインドネシア社会に溶け込み、ムルデカ(独立)が成った後も日本に帰ろうとはしなかった人たちもいた。
……イルマさんの「サカグチ」もやっぱり父親の苗字だろうな。独立を目指すインドネシアの青年たちに軍事教練を施した日本の軍人だったのだろう。その坂口伍長だか坂口少尉だかも今ではジャカルタのカリバタ国立英雄墓地に眠っているのだろう……若月は勝手に想像した。
スラバヤは独立運動が始まった所だとあった。彼女はどんな子供時代を過ごしたのだろう。戦争を知らない若月は、イルマさんはCMのコーヒー園の少女のように、牧歌的な風景のなかで屈託なく笑う少女ではなかったのかも知れない、と少し暗い気持ちになった。
どうでもよい知識も本から入って来た。彼は『ハリマオとは? マレー語でトラのことである』で始まる少年向けドラマ『怪傑ハリマオ』をまだ覚えているが、インドネシア語でもトラは「ハリマウ」と言うと知ったし、故スカルノ大統領の第三夫人のデヴィさんの日本名も初めて知った。クレージーキャッツの谷啓さんのCMだった「テレマカシー」は耳が音を覚えていた。あれがインドネシア語の「ありがとう」だったのか……。
若月は大のテレビッ子だったから、ブラウン管に映し出されることがそのまま彼の現実だった。彼はヴァーチャル第一世代と言っていい孤独な少年だった。コーヒーのCMの少女に胸を焦がしたのも尤もなことだった。
しかし、やはりイルマさんが育った時代と状況を知ろうとすると、身につまされる記事も多く読まなければならずつらい読書になっていった。
……偶然にホテルのロビーで相席しただけの彼女が、身の上話まではしないだろう。僕が彼女のプライバシーを詮索する立場でもない……。若月は自分にそう言い聞かせて本を閉じた。
(七)イルマの躊躇
若月は落ち着かなかった。期待をもって人を待つなどもう何年もなかったことだ。彼女はなかなか現れなかったが、彼はイライラもしなかったし、バカにされているとも思わなかった。先ほどまで読んでいた本に、インドネシア人の国民気質を紹介して『日本人には考えられないほど時間には鷹揚です』とあったからだ。……鷹揚ってのはいいな。人生、何をくよくよ川端やなぎ、だ……。
七時を二〇分ほど過ぎて彼女が現れた。若月の方から弾んだ声を掛けた。
「ブーイルマ(イルマさん)、スラマットスィアン(こんにちわ)!」
「……?」
彼女はぷっと笑った。
「若月さん、どこでバハサ(ことば)をお勉強なされました?」
「ちがってましたかね?」
「残念ですが、スラマッマーラム(こんばんわ)ですわ、ほほほ」
「あ、それもあったような気がします。なんせ一夜漬けだもんで、はっはっは」
昨日の今日なのに、二度目の二人は打ち解けていた。彼らは席に着いた。
「ねえ、若月さん。昨日、貴方のお話を聞いて私、心臓が止まりそうに魂消ましたのよ。まさか、五十年前のコマーシャルをあんなに克明に覚えておられるとは夢にも思いませんでした。その一つだけでも幸せでした……」
「幸せって、だれが? ジャワ・コーヒーの彼女が、ですか?」
「そうです。貴方がご覧になったコマーシャルを撮影してから半年後に死にました」
「死んだ? あの娘が死んだ? ええッ?」
若月はショックで心臓でも抜け落ちてしまったように感じた。〈こころにぽっかり穴が開く〉という言葉を実感した。
「妹はまだ十四だったんですよぉッ」
イルマさんは身体をわなわな震わせて、苦しそうに吐き出した。
「妹? ええッ? じゃ、あのコーヒー園の少女は貴女の……?」
「はい、三つ下の妹です。あのコマーシャルは最初、スカウトされた私と妹の二人で出演する予定でした。それがどう見ても双児にしか見えないというので、妹ひとりだけで出たんです」
「また、どうして亡くなったんですッ?」
涙を滲まさせた若月の眼を見て、彼女は事実を告げるのが酷に思えてためらった。
……CMを撮った後、撮影クルーの男たちは妹を輪姦した。あんな獣たちにも良心のカケラがあって、それが咎めたか、出演料など比べ物にならないほどの金を渡してさっさと逃げて行った。妹は家族のだれが何を聞いても応えなくなった。どの男のものとも判らない子を身ごもっていた。妹の妊娠を知って父は激昂し、農園の白人社長の所へすっ飛んで行った。当然のパナス(いったん興奮すると見境いがつかなくなるジャワ人の激情気質)だった。父は山刀で社長の片腕を切り落とした。警察に逮捕され投獄された。生活が立ち行かなくなった私の家は妹の金で暮らすしかなかった。父親が家に戻れないのを自分のせいだと悲観した妹は、身重の身体を崖から投げた。戦争よりも酷い地獄だった。
……若月さんはいい話をしてくれた。あの頃の妹を想ってくれる人がいただけでも妹への供養だ……。
「原因不明の病気でしたのよ」
「……お気の毒なことでしたね」
若月はやっとそれだけ言った。
……そうだったのか。僕がテレビを見て憧れていたときには、あの娘はこの世にいなかったのか……。
若月は堪えきれずに両肩を揺すって「うッうッ」と呻いた。
「あの子が生きてここに居たら何と言うでしょう。いえ、私には妹の気持ちは分かってますけれど。若月さんは五十年もあの子を貴方の心のなかに生かしてくださったのですね……」
「イルマさん、貴女の口から言われたのでなかったら、僕はこの話は信じなかった……」
「若月さん、あなたには奥様もお子さまもおられませんわね?」
唐突な彼女の質問は思い出に浸ろうとする彼を現実に引き戻した。
「は? ええ。独身ですが、それが何か?」
「よかった」
「え?」
「いいんです、何でもありません」
若月ははぐらかされたような、取り残されたような感じがして、彼女が少し遠のいたように思えた。
……何でもないと言うのだから訊いても答まいな……。彼の想いはまたコーヒー園の少女へ戻ろうとしていた。
「若月さん、お酒をいただきませんか、地下にバーがあったでしょ?」
「飲みたい気分ですね。でも、宗教のことで面倒なことになるんじゃありませんか?」
「ほほほ、それもお勉強なされたのね? ムスリムもこの頃では私のように堅くない女もずいぶんおりますのよ」
「貴女さえ宜しければ、僕の方に異存はありませんよ」
(八)ホテル地下のバー
「イルマさん、お願いがあります」
「何でしょう?」
「妹さんの名前と亡くなられた日を教えてもらえませんか?」
彼女はしばらく考えて言った。
「お教えできません」
二つ返事で教えてくれるものと思っていた若月には、彼女の答が俄には信じられなかった。
「知らないほうがいいこともあります。貴方はもう妹のことは忘れなくてはいけません。むずかしいかも知れませんが……。私が意地悪で言ってるのではないことはわかっていただけますね」
「……わかりました」
納得できないままに若月はそう答えて、トイレに立った。彼はイルマのことばを反芻した。
……人は出会っては別れて行くのですね。二度と会う機会のない別れですね。私も精いっぱい、若月さんも精いっぱい。こんなお話をしていながら明日は他人ですよ……
若月がトイレから戻ると、彼女の姿はバーにはすでになかった。彼は彼女に過ぎた期待をかけた自分を嘲った。
……日本語が巧くても所詮ガイジンだな。なんだよ、挨拶もなしで。ずいぶんあっけないじゃないか……。
勘定しようとカードを差し出すとバーテンは支払済だと言い、はっと思い出したように慌てて若月にメモを手渡した。バーテンは忘れていたのだが、彼女がいなくなってしまった後では怒る気もしなかった。
イルマは十七階の自室に戻っていた。大きくカーテンを開けると眼下に東京の夜景が展がった。
……きれいねえ、光の海。宝石箱をひっくりかえしたみたい。無機物を組み合わせただけのことなのに、夜景には不思議と心惹かれる。あの一つ一つの明りの下で、私と同じ人間が愛し合ったり憎み合ったりして暮らしているはずなのに、健気に明りを点しつづける人間たちには、愛するばかりで憎しみなど知らないように思えてしまう。夜景を見ると、人間を見下ろす神様にでもなったように錯覚するからかしらね……。犬や猫はオスを憎まずにすむだけでも幸せだわ。でも、人間は愛してしまうからそうは行かない。憎んだり恨んだりしながらでないと生きられない時期もある。私の仕事も今回で終わり。調停の長かった離婚話もやっと決着した。私が愛して、憎んで、あきらめた坂口の住む東京にも、もう二度と来ることはない……。
メモは達筆な女文字だった。
『十時半に一七〇三号室へお出でください。今晩だけ私を妹だと思っておつき合いいただけませんか。イルマ』
彼の頭のなかで、コーヒー園の少女とイルマの二つの顔が、何度も重なったり離れたりを繰り返した。
……人間を出会わせては引き離す力は、人間の思慮をこえた潮の干満のようなもので、甲斐があるとか無いとか考えたところで仕方ない。出会いも別れも人間が思うほど甘美でも残酷でもない。ただ過ぎていくものだ……。
真一郎には大事をとって彼女の誘いを断る理由がなかった。思いがけず打ち寄せてきた波に身を任せるしかないと思った。明朝はひとり沖に押し流された自分をいっそうの孤独感が襲うのは間違いない。それでも彼はイルマの誘いは断れるものではない気がした。出会ってしまったということはそういうことだと思った。
若月はバーテンの差し出した水を一気に飲んでバーを出た。エレベータに入って、十七階へのボタンを押した。
「あなたも私も精いっぱい……。そうだよな」 (了)