メタバグ
いちはやく反応したのはクゥだった。危険を察知したほかの男たちも続いて走り出した。一瞬の差が明暗を分けた。
深い谷の底、闇の中から猛烈なスピードでせり上がってきたなにか巨大なものが一本橋を下から突き上げた。クゥたちはとっさに橋の表面を蹴って向かい側までジャンプしたが、7人が絶叫しながら崖の側面に叩きつけられて、橋とともに谷底に消えた。残りは6人となった。
クゥは受け身をとって向かいの崖際に着地すると、素早くヒンメルを抜いた。目を見開いた。
そこには異様なものがいた。
秒速100メートル以上で現れたそれはヒトに近い姿をしていたが、全長が5メートルほどある巨体で、わき腹に当たる部分からヒトにない一対の腕が生えていた。関節部分はヒトのそれと構造がことなり、球体をふたつ組み合わせた軟骨の無いかたちだった。顔部分には緑に発光する複眼が規則正しく並び、口にあたる部分は顎が左右に開く構造だった。背中からは巨大な羽のような器官が左右に広がっていたが、羽ばたくためのものではなく、周囲の物理法則に干渉して飛行するための硬質なものだ。
「――こいつは!?」
ヒンメルが驚愕した様子を見せた。
「撃つよヒンメルッ!」クゥが怒鳴る。
「待て、撃つな!」
「なんだぁコイツはぁ!? 重次、撃て!」少し離れたところで重蔵が叫んだ。ヒンメルが止める間もなく、ほかの五人は現れたそれに銃を向け、次々と発砲した。
放たれた銃弾たちはしかしそれには当たらなかった。数十発のライフル弾は途中で軌道がねじ曲がり、惑星と衛星のようにそれの周囲をまわりはじめた。その様を見た重蔵たちがあっけにとられていると、それは四本の腕で、重蔵とクゥ以外の四人を指差した。
直後、それの周囲をつきまとっていたライフル弾たちが発射されたときの何倍にも加速されて射手のもとへと帰っていった。重次たちの体が吹き飛んだ。
「重次ィ!?」重蔵が悲鳴をあげる。
「こいつは『メタバグ』だ!」ヒンメルが言った。
「逃げろ! 普通の人間が手におえる相手じゃない!」
ヒンメルは叫んだが、重蔵は重次の体を背負おうと苦労しているところだった。
「ヒンメル、どうすれば!?」とクゥ。
「俺でヤツを撃て、引きつけろ! 俺と繋がれ!」
クゥは耳裏のプラグを抜き出してヒンメルに繋いだ。すると彼女の脳に人間の感覚器官では感じられない無数の情報がなだれ込む。感覚の拡張に伴い、身体制御のリミッターが限定解除され、クゥの動きと思考は、まるで引き伸ばされた時間のなか、ただひとり自分だけがその影響を受けないかのように加速した。
ヒンメルの出力を絞り、メタバグを側面から狙う。閃光と銃声があって、光線が敵を襲う。
メタバグは避けた。素早く体を反転させ、上昇した。そのとき、メタバグはたしかにクゥを見た。
「重蔵さん、逃げて!」
クゥは叫び、重蔵から離れるように走り出した。メタバグはクゥを追いながら、頭上から見下ろしている。
「ねぇ、まだ!?」
「今演算してる!」
クゥがヒンメルに話しかけた直後、クゥは地面を蹴った。彼女がいた空間をメタバグの頭部から放たれた光線が貫いた。光線の当たった場所はきれいな円筒形に消失していて、まるではじめからそうであったかのような美しいかたちだった。
「ヒンメルと同じ……!?」
ぞっとするクゥ。着地し、さらに逃亡する。メタバグは追う。重蔵たちははるかかなたで、もう姿が見えない。
「――よし! いけるぞ!」ふいにヒンメルが行った。
「どこ!?」
「308メートル先!」
クゥの視界にマーカーが現れた。クゥは300メートル先のマーカーに向かって走ると、10秒もかからずたどり着く。ブレーキのために踏ん張った右足がきしんで砕けた。クゥは舌打ちし、身をかがめると左手の指で床を引っ掻いてブレーキをかけたが、勢いは止まらずにマーカーを行き過ぎた。
振り返ったクゥは、メタバグがすぐそこまで迫っているのを見た。メタバグは全ての複眼にクゥの姿を映しだし、明確な殺意をもって今にも光線を放とうとしていた。
しかし、クゥはにやりと笑った。
「――よし、今だ」
クゥがヒンメルをメタバグに向けた。ヒンメルのエネルギー・ラインは明るく強烈に輝いている。彼女の視界には、ヒンメルによって算出された、周囲の構造物を崩壊させずに効果的な射撃できる線が見えていた。メタバグはその上にいた。
クゥが撃った。ヒンメルの銃口から放たれた光線は正確にメタバグの頭部を貫き、跡形もなく消滅させた。メタバグの体は急に脱力し、バランスを失ってめちゃくちゃな方向にはねてから墜落する。火花を散らしながら地面を滑った。突然現れた脅威は、驚くほどあっけなく動かなくなった。