そのろく
――6――
――PM:6:00
降りしきる雨の中、おじいさまはわたしの体を使って大きく後退する。
「クスクス……あれ? 食べてくれるんじゃなかったの? どんな大口なのか期待していたのだけれど」
鏡七先生。
青い髪と灰銀の瞳の、物腰の柔らかい先生。
英雄の中ではサポート型。直接戦闘をこなす人間ではない。そして、“流れ”を扱う異能者であり、水使い。雨の日とはいえこの場は“流れ”と“水”におじいさまの異能で介入しているから、鏡先生にできることはなにもない。
はず、だった。
「鈴理、じゃないね。表層は鈴理だけれど、魂に別の存在を感じる。妖魔化した人間、悪霊かな?」
「せん、せい?」
違う。
ちがう。
チガウ。
あれは誰?
わたしの知っている鏡先生じゃ、ない?
(『探れ!』)
なら。
おじいさまの叱責に頷いて。
己の本心にすら蓋をして。
あの人に届ける。
「は、い。おじいさま」
おじいさまにわたしの意図が伝わらないように、あくまで機械的に。
機械的に、唇を動かして“おじいさま”に頷いた。
「なるほどね。君も難儀だ。未知はつくづく厄介な存在を引き寄せる。まぁ、それは僕もなのだろうけれど」
鏡先生は、こんな状況なのに肩をすくめて笑っている。
その手には……あれ?
「おじいさま、ポチが」
(『犬畜生……なッ?!』)
いつ?
当然、近づいたときだろう。
わたしの腕に抱かれていたはずのポチが、鏡先生の小脇に抱えられている。相変わらず目の醒ます気配のないポチを、鏡先生は先生の後に“投げ”た。
「あっ」
投げられたポチは地面に激突――することはなく、“水”のベッドに優しく寝かされる。
「おじいさま、干渉は……?」
(『やっておるわ! くそっ、なんだあの“水”は?!』)
「ああ、あの水が不思議?」
鏡先生は世間話でもするかのようにそう言うと、クスリと笑って一歩前に出る。
「教えてあげるのも面白くないからね。当ててみなよ」
(『仕方あるまい。わかっておろうな、鈴理。おまえが拒めば雨水を針に替えて、学校を襲う』)
「はい、おじいさま――【速攻術式・平面結界・展開】」
操作陣。
術式持続。
そう続けば、いつものわたしの武装が現れる。
「なるほど? 意思はどこにあるのか、確かめる必要があるね――【姿は形なく】」
鏡先生が手を広げると、集まってきた水が形を変える。
それは大きな蛇。角の生えた、水の大蛇。蛇は鏡先生の周りをぐるりと這うと、二つに分かれて宙に浮いた。
「【投擲】」
(『【重力操作】』)
とんっと軽く地面を蹴ると、慣性を無視して高速で動く。
動き方は覚えている。“リリーちゃん”がやって見せて、くれたから。
「蛇よ」
鏡先生の周囲を守るように、残像すら残さず高速移動。
風を切るほど早く飛来する盾を、鏡先生は見もせずに蛇で防いだ。
「【返投】」
(『ヤツは後衛型だ。接近しろ』)
はい、おじいさま。
軌道を悟られないように、左右にステップしながら近づく。鏡先生には泥の跳ねる音しか聞かせない高速移動。
「【反発】」
足の裏で盾を反射。
奇襲。風切り音。蛇に防がれる音。
「【精霊は怒りに倣う】」
――ドンッ
「っ」
衝撃。
風が、体の“面”を押し返すようにわたしを弾く。
「休ませないよ【水精の鞭】」
飛来するのは水の鞭。
けれど、飛来してくるようなものであるのなら、あるいは。
(『チィッ、【流歪除去】!』)
おじいさまが、鏡先生対策に練り上げた技。
あらゆる“流れ”を切断する波動は、けれど水の鞭をかき消せず、“反発”による跳びのきで咄嗟に避けた。
(『何故だ! 何故きかん!?』)
流れ。流体。物事には全てに“流れ”がある。
鏡先生はその“流れ”を操作することができる、と聞いたのだけれど、違うのだろうか。だが、おじいさまが“観察”をしていた限りでは、危機に陥っても、“流れ”を遮断する術からは逃れられなかった様子だった、と、寮にいたわたしの中から、“この場所での戦い”を観察していた限りでは、できていなかったという。
なら、なぜ? その答えはきっと。
(おじいさまの観察に、気がつかれていた)
(『ばかな! チッ、もういい! かわいい鈴理よ、わかっておるな』)
「っ……はい、おじいさま」
盾は体の後ろ側に。
そもそも視線から外しておいて。
「【回転】」
(『屈折迷光』)
盾の姿が視覚できなくなる。
そのまま高速制御を維持。複雑に動き回る軌道の中、不意に、鏡先生の方向へ足を向けた。
「何を狙っているのかは知らないけれど、そう簡単にはやらせないよ」
鏡先生の蛇が一体、爆発する。水煙による視界の封じ。
けれど、鏡先生がその場から動くよりも僅かに、わたしの方が速い。
(『やれ!』)
(はい、おじいさま)
足音のみを響かせて。
わたし自身を囮に。
ただ一撃のため。
踏み込んで。
跳び上がり。
盾を頭に。
振り。
「斬る」
ヒュンッという鋭い風切り音。
煙の中、鏡先生の驚くような顔。
わたしの体に巻き付く、残りの水蛇。
おじいさまの――自分の体ではないからできる、“命”を囮にした一撃は、水煙の奥に居た鏡先生の体を、脳天から真っ二つに引き裂いた。
(ああ)
(ごめんなさい)
(ごめんなさい、師匠)
わたしは、あなたのたいせつなひとを、ころしました。
『よくやったぞッ! 鈴理! ひひっ、ひゃっははははははっ』
“わたしの口”から聞こえる嘲笑。
おじいさまの声がわたしを満たす。わたしはただ瞳から零れる熱を拭うこともできずに、物言わぬ骸と果てた鏡先生を――。
「やっと捕まえた」
ぱしゃり、と、真っ二つになったはずの鏡先生が、水の形になって溶ける。
それでもわたしの体には、蛇が纏わり付いたまま。身動きできないわたしの“背中”に置かれた、手。
「水気に満ちる精霊よ、王の代理たる我が請う――」
「え?」
『なに?!』
「――彼のものから悪しき呪いを断ち切れ。【糸を切る手】」
体の中をかき回されるような不快感。
脊椎の裏側を剥がされるような違和感。
その全てを束ねたような恐怖感が、わたしの理性を剥奪するかのように襲いかかり、そして。
『なんだと?!』
わたしの“中”から、“おじいさま”の形をした黒い液体が、ずるりと抜き出された。
「ぁ……うそ」
ぺたりと地面に座り込み、手を握って、開く。
一から十まで自分の意思で動くことに、心が、震えた。
「よく頑張ったね。でも。そうしていたら風邪を引いてしまうよ」
「へ? は、はい」
慌てて立ち上がって、水を払おうとする。けれど鏡先生がわたしの頭に手を置くと、それだけで水が離れていった。
『ナゼダナゼダナゼダナゼダァァァァァッ!!!!』
「おじいさま……」
頭をかきむしりながら、おじいさまは形だけ、生前の姿に戻っていく。
白髪頭に白い髭。擬態をしていれば優しそうに見える目は、大きく見開かれてぎょろぎょろと動いていた。
「何故って、当たり前だろう? 本気で、“精霊王の息子”である僕の上位互換になれるとでも思ったのかい? おめでたいなぁ」
『精霊……高次元生命体、だとッ!?』
「上手く隠れていたよね、本当に。おかげで、今まで要らぬ手加減を強いられたよ」
高次元生命体。
人間と寄り添うように生きながら、人間とは違う次元で暮らしているという、わたしたちでは想像もできない高次元の存在。いくら“超常型”の異能といえど、存在から上位互換の相手には通じない。
それが……鏡、先生? えっ、でも王って?
『鈴理ッ! 私を裏切って、ただで済むと思うか?! おまえの父も母も友も、みな殺し尽くしておまえの前に、その首を並べてやろうッ! きひっ、ひゃっははははははっ』
体が、びくりと震える。
昔からそうだった。わたしの苦しむ顔こそが己の人生の悦楽だと、そう、わたしに手を上げたおじいさま。そのころと何も変わらない。
抵抗すれば、差し出されるのは大好きな人たちの――
「僕たちが、君の大切な物を護るよ。だから、言いたいことを言ってごらん」
――頭に置かれた、手。
鏡先生が人とは違っていても、変わらず優しい手。
「おじいさま」
『戻る気になったか、かわいいかわいい私の鈴理』
「いいえ」
『なに?』
前に出る。
震える足を叱咤して。
あの日、師匠に誓ったように。
戦うことから、逃げない!
「わたしはもう、あなたに縛られない! 笠宮装儀! あなたは既に死んだ身です。このまま冥府に帰りなさい!!」
『き。キキキキ、キサマァァァァッ!? 刃向かうか、刃向かったな!? 玩具の分際でェェェッ!!』
「あなたの玩具はもう、ここにはおりません! とっとと地獄に堕ちてくださいこの変態痴呆老人っ!!」
『グッ?! ……ロス……コロス……コロスコロスコロスゥゥゥッ!!!!』
発狂したように叫ぶおじいさま。
そんなおじいさまに、一歩引きたくなる気持ちを抑える。
わたしはもう、逃げないから!
「くっ、はははっ、良い啖呵だ、鈴理。ほら、君の一歩が幸運を引き寄せた!」
「え?」
おじいさまは黒い水を手足から噴出させると、それを大きな斧に変える。
そして、大きく振りかざして、わたしに向かって走ってきた。
『オォォォォオオオォッ!!』
その斧は、盾を翳すわたしの、前で。
「【速攻術式・切断・展開】」
切断され、はじき飛ばされる。
「私の可愛い愛弟子に、手を出そうとは笑止千万!」
見たこともないほど、怒気を滾らせるその姿。
その声が、その言葉が、わたしの中を温かく満たす。
「地獄の釜で後悔させてあげます。立ち上がりなさい、下郎!」
ああ。
あなたに出逢えたことが、わたしの世界にとって、一番大きな幸運だったんですよ?
師匠。




