そのご
――5――
自我、という言葉がある。
自分を自分と認識すること。自分自身に意味を持つこと。
わたしに自我が芽生えたとき、わたしにとっての世界は二つあった。
ひとつは、優しい世界。
お父さんがいて、お母さんがいて。
わたしを褒めて、叱って、笑って、大切にしてくれるひと。
もうひとつは、怖い世界。
わたしを怒って、否定して、見下して、意地悪をしてくるひと。
『苦しむ顔を見せておくれ』
「やだ、やだよ、“おじいさま”」
『嫌だ? どうして拒否するんだ! このグズめ!!』
怒鳴られるのは怖い。
『お気に入りの人形?』
「そ、それはだめ、おかあさんが」
『おまえには必要ないな』
物を壊されるのは怖い。
『痛ましい声をあげておくれ』
「ひっ、や、やだぁっ、やめて、おじいさま!」
『うるさいッ! 黙れッ! おまえのような人間は――』
理不尽に叩かれるのは、怖い。
いつしか顔色を窺うようになった。
いつしかどうすれば喜ばれるのかわかるようになった。
いつしか、なにを望むのか、手に取るようにわかるようになった。
そして。
『ごめん、ごめんな、お父さんとお母さんが、気がつかなかったから……ッ!』
優しい世界に戻ってきても。
優しいその世界は、壊れていて。
優しいだけの世界が、そこにあった。
見ていたら、わかるよ。
わたしを大切にしてくれる、お父さんとお母さん。
いつだって罪悪感に満ちていて、痛ましいほどに悲しんでいて、わたしを腫れ物のように扱うから、わたしが悪いことをしても叱ってくれなくなってしまった。
だから、観察しなければならない。お父さんとお母さんを悲しませないためにも、“常識”は全部、“観察”して学ぶ。
そうやって生きてきて。
あの日、“また”、おじいさまに会った。
『うひ、ひはははははっ、見つけたぞ、鈴理ぃぃぃぃっ!』
逃げて。
逃げて。
逃げて。
捕まって。
『ずっと見ているぞ! おまえが幸福にならないように、ずっとずっとずっとォッ!!』
わたしを捕まえて。
首筋に噛みついて。
怨嗟の言葉を投げつけて。
笑いながらどこかへ走り去り、交通事故でこの世からいなくなって。
『やっと、やっとだ』
あの日。
師匠が、四国へ旅立った日。
『忌々しいあの女がいなくなった。蓄えてきた力だけでは復活はできない。おまえの体を使うぞ、鈴理ッ!!』
わたしの“中”からおじいさまがあらわれて。
わたしの“体”を、のっとった。
わたしの“肉体”に干渉をして。
わたしの“意思”を残したまま。
わたしの“行動”を強制する。
「おじいさま、いやです。わたし、こんな」
『そうだ、拒絶しろ。きひひひっ、おまえの恐怖が私の糧となる!』
「おじいさま、解放してください。できないのなら、殺して」
『いいや、だめだ。おまえの恐怖に歪む顔が、私のなによりの糧なのだ。だから今までも、おまえを好む男を集めてやった! おまえは私に扱われることを感謝すべきなんだ! あひっ、ひゃっははははははっ』
わたしを絶望させるために、わたしの意識は残しておく。
わたしを失望させるために、わたしの希望は残しておく。
『そうら。その犬畜生が目を覚ませば、助かるかもしれんぞ? きひっ』
おじいさまが“異能”で眠らせた、ポチ。
わたしの手の中で眠る彼は、否応なく縋り付いてしまうわたしの希望だ。
『いいか。“流れ”は誘導する。だからおまえは、“アレ”を誘惑しろ』
いやだ。
いやだ。
いやだ。
でも。
『そうすれば、その犬畜生を殺すのだけは、やめてやろう』
やらなければ、ポチが。
わたしを襲って、仲直りして、守ってくれて、導いてくれたポチが。
わたしの、“友達”が、いなくなってしまうというのなら。
『観察してきた中で、“アレ”がもっとも干渉しやすく、弱い。だから、いいな?』
「――はい、おじいさま」
『きひっ、ひひひひっ、それでいい、それでいいのだよ、鈴理。わたしの可愛い玩具』
ああ、どうか、せめて。
誘導なんか撥ね除けて。
わたしのことなんか忘れて。
『さぁ、復唱してごらん。鈴理よ。“わたしの時間はここで終わり”』
わたしの時間はここで終わり。
『くひっ“おじいさまが目覚めてしまったから、わたしは明け渡さないとならない”』
“おじいさま”が目覚めてしまったから、わたしは明け渡さないとならない。
『そう、そうだ。“わたしがおじいさまに与えられた時間は、もう使ってしまった”』
わたしが“おじいさま”に与えられた時間は、もう使ってしまったのだから。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ごめんなさい。
ああ、どうか。
それ、なのに。
足音。
気配。
わかってしまう。
それでも
お願い、どうか。
わたしを――。
(見つけないで)
「鈴理!」
青い髪。
灰銀の瞳。
幼さの残る整った顔立ち。
表情には心配、焦り、安堵。
「こんなところに居たのか。みんな探していたよ」
鏡七、先生。
英雄の一人。“特性型”の異能者。
強大な力を持つ英雄たちの中で、“一番弱く”て、“一番干渉しやすい”異能者。
「かがみ、せんせい」
「さ、帰ろう。事情を聞きたかったけれど、先に医務室だ。いいね?」
「あの、せんせい」
こんなわたしを、こんなに心配してくれるのに。
わたしは、“おじいさま”、ああ、はい、わかって、います。
「もうすぐ未知も四国から戻る。僕に話しづらいことなら、未知に話すと良い」
「は、い」
師匠。
大好きな、未知先生。
わたしに希望を、くれたひと。
(『迷うな。犬畜生が惜しくはないのか』)
(はい、わかっています)
もう二度と、会えないひと。
「先生」
「鈴理? っと、雨の下なんかに居たから、ほら、熱がある」
よろけたわたしを、鏡先生は受け止めてくれる。
そんな優しい鏡先生の首に、抱きつくように手を回して、口づけをするように近づいた。
「ごめんなさい――いただきます」
(『そうだ! 喰らえ! 英雄を喰らえば、私は復活できる! より多くの、あどけない子供たちの絶望を、味わうことができる! おまえとその男は、私の、きひっ、礎となるのだよッ!』)
狙うのは、“霊力”。
その力で、おじいさまは肉体を得て、蘇生する。
強力な霊力を手に入れるためだけに、わたしにすら気がつかれないように、“超常型”の異能を使って隠れていたおじいさま。
そしてついに、師匠がいない隙をついて、ここまで追い詰めたおじいさま。全ては、ここで英雄を、英雄の中でも一番“弱い”鏡先生を、喰らうためだけに。
「え……なっ」
鏡先生の目が、見張られる。
その瞳に映るのは、空ろな目をしたわたしの姿。
(『そうだ』)
(『それでいい』)
(『おまえのような人間は』)
(『私に全てを投げ出して』)
(『全てで奉仕して死んでゆくのだよ』)
ごめんなさい。
ごめんなさい。
誰か、わたしを――殺して、ください。
「その願いは、ちょっと聞き届けられないかな」




