そのさん
――3――
頬に落ちる水滴に、意識が浮上する。
「っ――あ、れ?」
目を覚まして被りを振り、起き上がって周囲を見回す。
昏い森だ。見渡す限り森だらけで、鬱蒼と茂る木々が陽光すらも遮る。ずっしりと重くのしかかるのは、混ざり物だらけの霊力だろうか。異能者の違法実験施設や、悪魔に穢された聖域で感じたことのある気配だ。
いったい、私はどうしてこんなところにいるのだろうか。思い出そうとすると、記憶に霧がかったようにぼんやりとしていて、思い出すことが出来ずにいる。
「とにかく、この森から……」
「おい」
「……っ」
かけられた声に、身構える。
頭上から降り注ぐ音。見上げた先、太い枝の上に立つ、黒いコートの、たぶん男性。頭からすっぽりと被る頭巾のようなコートに、口元にも黒い布。腕甲や脚甲も、薄汚れた黒い鎧だ。ただ、腰に見える銀の剣がどこか印象的だった。
「女。そこでなにをしている」
「えっと――」
どう、答えたら良いのだろうか。
自分のことはわかるのに、ここに来た理由のみが思い出せない。ええっと、確か、今日はなにか理由があって浅井理事長に有給を貰って……で、それで?
「答えられないのか。なら、死ね」
「っセット……って、あれ?!」
魔力がない?!
空間に魔力がないから、魔導術を扱うことが出来ない。だから、なにもする事が出来ず、のど元に突きつけられた剣に息を呑むことしか、できなかった。
「避ける力もないのか――おい、女、おまえ本当になにをしにこの森に来たんだ?」
「あの、ごめんなさい。この森、というのはどの森なのでしょうか?」
「はぁ?」
男性の呆れた声。
顔が羞恥で熱くなる。きっと今の私は、耳まで赤いのではないだろうか。
「嘘――じゃあねぇみたいだな。記憶が曖昧なのか?」
「はい。どうやら、そのようです。自分の名前などはわかるのですが……」
「チッ、面倒事か」
「はい、ごめんなさい……」
もう、この男性にはなにも言い訳することが出来ない。
だって今の私、どう考えてもお荷物の厄介事だからね……。
「まぁ良い。話が楽になる。所属だけ言え」
「へ? 所属?」
「おいおい、マジかよ。――これも嘘ではないのか」
所属とは、ええっと、関東特専所属?
いやでも、普通は勤め先を所属とは言わないよね。彼は特別な意味で所属という言葉を使ったのだと思うのだけれど……所属、ねぇ……?
「仕方ねぇな。おい、女、名前は?」
「み、観司未知です」
「みつかさみち……知らねぇな。まぁ、ついてこい、女」
お、女呼びで固定なんだね。
それよりも、状況にまったく追いつけない。いや、私にとってキーとなるのはもうこの人しか居ないから、ついて行くしかないのだけれどね?
「あの!」
でも、その前に、一つだけ。
「あ?」
「あなたのことは、なんとお呼びすればよろしいのでしょうか?」
「なんでもいい、好きに呼べ」
好きに呼べって、ええ……。
ど、どうしよう。そんなことを言われてもなぁ。ポチ、は、被るし、黒、は、猫っぽいし、ええっと……そうだ!
「えっ、では、ええっと――ま、まっくろさん、とか?」
「馬鹿にしてんのかてめぇ」
会心の出来だったのだが、どうやら男性にとってはそうではなかったらしい。
「ええっ、馬鹿になどしていません!」
「嘘……じゃねぇのか、素なのかそのネーミングセンス」
「うぅ、ごめんなさい」
彼は大きく、それでいていやに重いため息を吐く。
それから面倒そうに額を抑えて天を仰ぎ、頭を振った。
「まぁいい。なら――オレのことは、“サーベ”と呼べ」
「は、はい! お手数をおかけします、サーベさん」
「呼び捨てでいい。それから、気持ち悪い敬語もやめろ。“アイツら”みたいで吐き気がする」
「アイツら? ……わかった。なら、そうするわ、サーベ」
そう、呼ぶと、不思議とすとんと胸に落ちる。
なんだろう、聞いたことがあるのかな? 不思議な感覚に、思わず首を傾げた。
「早くしろ。置いていかれたいのか、女」
「わ、ご、ごめんね。今、直ぐに!」
「チッ」
いやでも、これ、これからどうなっちゃうんだろう。
彼の名前以外の何一つ、わからないままついていく。ただこの先に、答えの断片でも見つかれば良いのだけれど、と、期待をして。
ただ昏いだけの森かと思っていたのだけれど、進んでいくと、そうでもないことがわかる。
墓標のように突き立つ剣。木々に食い込む銃創。なにか深くは考えたくない白骨。大地に刻まれた爪のあと。
――そう、ただ昏い森ではなく、“とても重くて昏い森”だったのだ。こんなこと、発覚してもなにも面白くはないのだけれどね!
「戦争の痕……?」
「おまえ、どこの世間知らずだ?」
「えっ、あっ、大戦のあと?」
そ、それだったら知らないような風だったら、“世間知らず”の誹りも免れない。
まぁ、武力も持たずにこんな森にいたら、確かに世間知らずだよね!
「大戦のあと? はぁ? なんだオマエ、タイムスリップでもしてきたのか? 戦争なんて、現在進行形で起こってることだろうがよ」
「へ?」
「おいおい、いい加減、オレの許容量を超えるぞ。また、嘘じゃないのかよ」
現在進行形で起こっていること??
ええっとそれってつまり、二十年前の大戦時代に、トリップしたということ?!
「ね、ねぇサーベ、今って西暦何年?」
「知るか。チッ、マジで“迷い人”じゃねぇか。良いか? 今は“新暦十五年”だ」
「え――しん、れき?」
「そうだ。アイツらの暦で表すのなら、“神歴十五年”。地球に侵攻してきた悪魔の軍勢を、遅れて出てきた天使共が追い返し、あのクソッタレの羽根付きどもが人間界の支配者にすり替わって、十五年だよ、古代人殿」
悪魔の軍勢を、天使が追い払う……?
それって、えっ、まさか、天使が間に合った世界ということ?
いやいやいや、待って、待って、そうなるとここって過去とか未来とかそういうことではなくて、ひょっとして!?
「ええええええええええええええええええっ!?」
「うおっ、うるせぇ!」
「ごごご、ごめんなさいっ!」
別の世界に来てしまった、と、そういうことで間違いナイのでしょうか。
いや、もう、本当に? 魔法少女の力なら帰れないかなぁ? いやでも、ここで出すわけにはいかないし……なんだかんだと言いながら、助けてくれている彼に、何も帰せては居ないし。
いやでもどのみち、私がここに来た原因がわからないまま、戻ってはならない。なんだかそんな気がするから……うん、ここは、もっと情報を集めないと。
「サーベ」
「あ? 悪いが泣き言は――」
「ここのこと、今のこと、できる限りのことを教えて。なにも知らないままでは、きっと、進めはしないから」
「――ほぉ? ははっ、中々肝が据わってんじゃねぇか。ああ、良いぜ、オレは今、機嫌が良い。知りたいことを教えてやるよ、女」
唯一見える目元を崩して、たぶん、ニィッと笑って居るであろう彼。
声も体格もなにかも、全部が全部違うことだらけなのに、どこか獅堂に似ている気がして苦笑する。今、無性に、あの格好付けた横顔が見たい。
「ありがとう、サーベ」
「礼は要らねぇ。オレはやりたいようにやるだけだ。だが、まぁ」
「だが?」
そう、サーベは足を止めて指を差す。
「これ、は」
森を抜けた先。
後天的に出来た巨大なクレーターのような窪地に築き上げられた、石と鋼の要塞都市。
街全体を覆う水の膜は、結界だろうか。目に見えて活気づく街の声が、僅かたりとも聞こえてこない。
「ようこそ。反天使対抗組織前線基地、“アルハンブラ”へ! 歓迎するぜ? 運の悪い、迷い人」
ぜ、前線基地?
思わず、乾いた笑みで頬が引きつる。こういう反応を期待していたのだろう。どこか、楽しげな気配が漂ってくる。
「どうした? 来ないのか? ――逃げ帰っても、良いんだぜ?」
「っ冗談。エスコート、してくれるのでしょう?」
「ククッ。ああ、任せておけ。来い!」
ああ、もう、腹をくくろう。
どうせ私に他の選択肢なんかない。だったら私の持つ“一番”の選択肢は、立ち向かうことだけだから。
水の膜を切り抜けて、一歩踏み出す。
サーベの背につき見渡す光景は、鉄錆臭くとも、どうしてか、美しかった。




