そのに
――2――
――青森・白神山地。
人の手を入れていない原生的なブナ森林であり、私の前世の時と違わず世界遺産にも登録されている。
それもそのはず。あの大戦の中で、当然のように自然や環境にも大きな打撃を受けた。けれどこの地は、悪魔たちの力や人間の兵器で干渉できる場所ではない。神聖さに満ちあふれ、可視化できるほどの純粋な霊力が、蛍のように浮き上がる。
異能至上主義者たちが“聖域”として神殿を建てようとして、全員呆けて出てきた、なんて話もある高位次元と亜次元の、狭間の領域。それがこの、白神山地である。
「未知、気をつけて」
「ええ」
七に手を引かれ、船から下りる。
水辺とも霧ともつかない中を航行し、三時間程度。船から下りると霧が晴れ、気づけば森の傍に佇んでいた。精霊はこうして人を惑わすというのだから、空恐ろしさすらある。
「決まったルートを決まった手順で進むことで、精霊の住処に繋がる」
「それはつまり、手順そのものが“結界”として機能している、ということかしら?」
「さすが。ご明察だよ、未知。手順を踏まなければ、進めば進むほど迷うんだ」
まだ年若い精霊が、自身で迷うことすらある。七はそう、苦笑を交えて教えてくれた。
純粋な精霊と人間の血をその身に宿すことで、人と同じように暮らしているという七も、そうやって、年若い頃は迷っていたことがあるのを知っている。
なにせ、私と彼が出会ったのも“そういう時”であったからだ。精霊の住処から迷い出て、悪魔に襲われていたところを助けた。悪魔は悪魔で、精霊を攫って洗脳教育しようとしていた、というのだから、本当に間一髪だったのだ。それ以来、私は彼に姉のように慕われ、私も彼を弟のように思っていた。
「はぐれないように気をつけてね」
「ええ」
「精霊の悪戯は……僕が傍に居れば、さすがに仕掛けては来ないと思うよ」
精霊の悪戯。
つまり、気まぐれで気ままな精霊が、突発的に仕掛ける災害のことだ。七のように突別な事情がない限り、実体を持たない精霊は、不可視だからこそ悪戯を仕掛ける。
冗談で済むものからギリギリ冗談で済むものまで。大惨事は引き起こさないけれど、しっちゃかめっちゃかにはする。それが、精霊という生き物だ。
「霧が出てきたわね」
「そうだね。……でも変だな、もう霧が出てくるなんて」
「もしかして、なにか?」
「一応、確認してみるよ。――【声は風に溶ける】」
七はそう、特性型の異能で術を用いて、連絡を取る。
けれどいつまで経っても返答はなく、七は訝しげに眉を顰めた。
「だめだね。通信が途絶えている。高濃度の霊力が空中に溶けているから――母さんが、なんらかの術を使ったのかも知れない」
「なら、急がないと!」
「ああ、そうだね。母さんに限って万が一はないことだろうけれど、最悪、森が更地になる」
森が更地になるのか……って、更地?!
これは本当に急がないとまずいのかも知れない。
「未知、低空飛行で行こう」
「ええ。【速攻術式・飛行制御・展開】」
「【風は翼に】」
手を繋いで、ふわりと浮き上がる。
……なんだろう。術式が不安定だ。高濃度の霊力に満ちているから、だろうか。出力が安定しないと、いざというときに威力を間違えるかも知れない。
今は極力、七に牽引して貰いながら感覚を覚えておこう。
「――昔はこうして、よく、君に手を引いて貰ったね」
「ええ、そうね。ふふ、懐かしいね」
「あの頃は、未知に護って貰ってばかりの自分が嫌だった。今は、中々護らせてくれない君に、振り回されてばかりだ」
「もう、どの口が言うのよ。どの口が」
「クス――さて、ね」
飛翔展開。
ブナ森林の狭間を飛びながら、幾つもの光を越えながら、あの日の幼い七の姿が脳裏に浮かぶ。自分を攫おうとした悪魔、悪魔と協力し、金銭のために七を襲った人間。その頃の七は、人間という生物を信用していなかった。
ただ、救い出した私にだけは心を開いてくれて――うん、思えば私は、当時、彼の信頼を崩さないように必死であったようにも思える。憧れてくれた彼に、格好悪いところは見せられないから。
「よし、抜けるよ!」
「っ、ええ!」
霧の膜。
水面を抜けるような、独特な感覚。
視界が開けると、そこには、ブナに囲まれて輝く、吸い込まれそうなほどに鮮やかなセレストブルーの池。
ほとりに立つだけで、駆け抜けるような純霊力に、力が抜けそうになる。実のところこの霊力波、とても美容と健康に良いのだけれど、普通の異能者が傍に立つと霊力過剰現象と呼ばれる現象で発熱。判断能力が低下し、歩けなくなる。
こんな場所でそんなことになれば、精霊の善意で連れ去られて妙ちきりんな加護を貰って返されるか、“まっさら”にされて精霊の家族になるか、“まっさら”な状態で妙ちきりんな加護と変な異能に覚醒して放り出されるか、と、命に別状はないが命以外に様々な別状が張り付くことになる。
実のところ、過去の経歴不明なクロックのあんぽんたんは、こうした精霊の被害者なのではないかと疑っているほどだ。
「ゲートを開くよ。少し、離れて」
七に言われて、一歩下がる。
七は風の刃で指の先を傷つけると、それを、池に一滴落とした。するとどうだろう。その波紋は徐々に大きくなり、ゆっくりとせり上がるように、円柱状の水膜を生み出す。水は流れを作り、波紋を浮かべ、そこに不可思議な形状の池があるのかと錯覚させた。
「我が意に倣え、精霊の門よ――さ、行こう」
七に手を差し出され、苦笑しながら手を取る。
ゆっくりと水の膜に吸い込まれていく七。次いで、私も水の膜に吸い込まれていく。本当に、水中を進んでいるような、奇妙な感覚だ。
「七?」
不意に、繋がれていた手が途切れる。
「どこへ? 七。七!」
名を呼んでも、返事がない。
ただ、周囲は闇で閉ざされ、叫ぶ度に水泡が口が零れる、水泡は上へ、横へ、下へ。水面がどこかなど、わかりっこない軌道。
――『そう、選んでしまったのね』
誰の声だろう。
いや、どこかで聞き覚えのある声だ。直ぐに思い出せるはずなのに、頭には靄がかかっているかのように、鈍い。
――『これからの戦いは、きっと熾烈を極める』
――『なら、貴女は観ておかなければならない』
観る?
いったい、なにを?
――『ならこれは、きっと試練』
――『私がただの一柱として与えられる、唯一の試練』
試練?
なにかを、試されようとしている?
――『じゃあ、形式に則ろうか?』
え? ん?
なんだか急に、こう、口調が変わったような気が?
――『加護を望みし勇気ある者よ』
――『加護を臨みし欲望を抱くモノよ』
――『汝のノゾみは受け取った。故に我は、試練を与えよう』
――『見事乗り越えし暁には、“精霊神王の名に於いて”、その望みを果たそう』
――『ここに、契約は成った。ゆけ、己を懸けるものよ!!』
視界が、思考が、身体が光に包まれる。
そして、私の身体はただ、海に沈んでいくように。
(いったい、何、が……?)
わけも解らぬまま、意識が、途絶えた――。
――/――
(ごめんなさい、七、未知)
(でも、きっとこれは、乗り越えなければならないモノだから)
(きっと、知っておかなければならない、ことだから)
(だからどうか、乗り越えて、未知)
(我が愛し子の、恋しい人)




