そのご
――5――
――夜。
もちろん、異界の中で空は見えない。
けれど時計が指し示す夜の時間になると、自然と全員で眠りに就いた。
わたしもそれは例外ではなくて、テントに入って直ぐに寝てしまった。
「ふわぁ……はれ? んにゅにゅ、まだこんなじかんだー」
だからだろうか。
ひとり、目が覚めて起きてしまう。
「むむむ、おみず……ひゃっ、つめたい」
テントから出て、裸足のまま薄い水の上に立って、少しだけ目が覚めてしまう。
足の裏にあたる柔らかな水草が気持ちよくて、思わず、小さな笑い声をあげてしまったけれど、みんなが寝ていることを思い出して直ぐに口を閉じた。
危ない危ない。起こしちゃったら大変だからね。
「――あれ? 久遠店長?」
「笠宮か。寝なくても良いのか?」
「えへへ。目が覚めちゃいました」
「そうか。……ココアは好きか?」
「はいっ」
水草の上、折りたたみの椅子に座って飲み物を飲んでいた久遠店長。
どうやら、中身はココアらしい。久遠店長は、ポットからわたしの分も次いで、分けてくれる。
「ありがとうございます。……ふぅ、ふぅ、ん、あまい、おいひぃ」
「ク……喜んで貰えてなによりだ」
久遠店長、今、笑った?
……と、思ったんだけど、気のせいだったのかな?
いつもの無表情に戻った久遠店長は、足を組んだ姿勢でココアを口に付ける。なんだか、それだけでとても絵になる人だ。
そしてふと、久遠店長を見ていて気がつく。久遠店長はペンダント型のロケットのようなものを持っていて、どうやらそれを開いて見ていたようだ。あれだよね? 映画とかで良く見る、写真が入っている……。
「あの、なにを見ていらしたんですか?」
「ああ……。そうだな、昔、恋した人の肖像さ」
ロケットをしまいながら、久遠店長は優しげに目を細める。
――はじめて、きちんと見た、久遠店長の表情だった。
「そのひとは……」
「もう、いない。遠い人になってしまったよ」
「……っ、ごめんなさい」
「いや、気にするな。恋しくはあるが、致し方ないことだ。会えなくとも、肖像は残る」
……好きだったひとに、二度と、会えなくなる。
それはまだ、わたしにはわからない感情だ。覚えのない、感覚だ。それでも、久遠店長の瞳が優しげだからこそ、憂いの欠片もなく、ただ、純粋な慈しみが溢れているからこそ――ここまで割り切るまでに得た道程に、胸を締め付けられるようですら、あった。
「……やっぱり、ごめんなさい、です。不躾なことを聞いてしまいました」
「勝手に話した俺が悪い。――だが、そうまで言うのなら受け取ろう。それから、君の心遣いが嬉しく思うよ、笠宮。ただ、願わくば……」
「え?」
「ああ、いや、気にしないでくれ。それが一番の詫びと受け取ろう」
「はい……そういうことであれば」
気にしないのがお詫び、なら、そうせざるを得ないよね。
気になるけれど……って、だめだめ。それで言わせたくないことを言わせちゃったんだから。同じ間違いは繰り返しません!
「……さて、そろそろ明日に備えて寝た方が良い。俺も、休もう」
「はいっ――あ、ココア、ごちそうさまでした! 美味しかったです!」
「どういたしまして。お休み、笠宮」
「はい、久遠店長も、お休みなさい!」
悲しい過去を背負った人。
大切な誰かを失ったひと。
「ふぅ……ふわ、確かに寝ないとなぁ。――ん、でも」
正体不明でよくわからない方だった久遠店長のことを、良く知ることが出来た。失敗もしてしまったけれど――うん、得られたモノは大きかった、かな。
高揚した気持ちのまま、テントに潜り込む。そのままフィーちゃんの抱き枕にされると――なんだか直ぐに眠くなって、意識は闇へ、落ちていった。
――/――
――翌朝。
微睡みから浮上するように、ゆっくりと目を覚ます。
周りを見れば、テントの中には誰も居ない。首を傾げて時間を確認すると、時刻は朝の七時。けっこう、みんな早起きだったのかも。まぁわたしは、ココアを飲みつつ一度起きちゃったからなぁ。
「んっ、ふわぁ……」
ぐぐぐーっと背伸びをして、一息。
のそのそと起き上がって、着替えて、顔を洗って、歯を磨いて、やっと一息。
「おはよー……」
「ん? 起きたか、スズリ。クス……こっちにおいで。寝癖が付いているよ。整えてあげよう」
「ふわぁ、ありがとー、リュシーちゃん」
椅子に腰掛けて、櫛で丁寧に髪を梳いて貰う。
だんだんとはっきりしてきた視界の向こうでは、やっと状況が見えてきた。
「みんな、起きたばっかり?」
「いいや。ただ、シズネと君は、ほとんど変わらないよ」
「そうなんだー……だから、“ああ”なんだね」
「ふふっ、そういうこと」
椅子の上、手鏡を持ったまま二度寝をする静音ちゃん。
地図や資料を展開して、折りたたみ机の上でフィーちゃんとなにやら話し合っている夢ちゃん。
持ってきた魔導コンロで火を焚いて、料理を作っているエプロン姿の久遠店長。
「リュシーちゃんは、なにをしていたの?」
「シズネの髪を梳いてたんだよ。そうしたら、“ああ”なってね」
……たしかに、リュシーちゃんの手は気持ちが良い。
温度とか、手つきとか、伝わってくる優しさとか、その全部が心地よい。これは、寝ちゃう気持ちもわかるなぁ。
「よし。これでどうかな?」
「……うん、ありがとう、リュシーちゃん!」
「いいえ。どういたしまして」
「――そろそろ朝食が出来る。水守を起こしてくれ」
「ぁ、はーい、久遠店長!」
静音ちゃんを起こして、それから夢ちゃんとフィーちゃんを呼びかける。
朝食を食べたら、いよいよ遠足二日目――深海迷宮の本番とも謂われる、第九階層の始まりだ。
それぞれ装備をしっかりと確認して、いよいよ第九階層に降りる。
風景はさほど変わらない。けれどなんだろう。道幅がちょうど一回り分、大きくなったような気がする。
「夢ちゃん、なんだか広いね」
「ええ。なんでも、階層ごとに広さはバラバラらしいわ。ただ、風景は基本的には変わらないのよ。劇的には、ね」
なるほどー、と頷きながら、気になった言葉に首を傾げる。
「基本的には?」
「ルートによっては、他のルートの上層に戻されるような道もあるらしいわ」
「うひゃあ、大変だ」
「下層よりはマシだけれどね」
まぁ、確かにそうだよね。いきなり敵が強くなるよりは良いのかな。
でも、攻略までにすっごく時間が掛かっちゃいそうで、いやだなぁ。
「まぁこのルートは、一度は誰かが五百階層以上進んだ道だからね。そういう心配はないとは思うわよ」
「そっか。データがあるんだ」
なるほど、それならちょっと安心、かな。
……うん、でもわたしたちの場合、そういう時ほど注意した方が良いんだよね。気がついたらとんでもない罠にかかっている……なんてことも、今までにあったのだし。
「よし、攻略再開よ」
「おーっ」
夢ちゃんの合図で、薄く水が張られた迷宮を歩き出す。
慎重に、慎重に。そう思っていると、リュシーちゃんが合図のために片手をあげた。
「リュシーの消耗は避けたいわね。私が狙撃するから、フィーは撃ち漏らしをお願い」
「了解した、夢」
夢ちゃんがそう言って構えるのは、完全復活した黒風だ。
右腕の手甲を前に突きだし、ボタンでも押すような動きで親指を動かす動作によって、あらかじめ組まれた魔導術式を起動する、碓氷の秘技。
“行動展開”と、そう呼ばれた技術が、迫り来るリザードマンの編隊の、リーダーの頭を撃ち抜くという行動によってその威力を見せつける。
「まずは一つ。ついでにもう二つ」
動作のみがキーワードという力は、有り体にすさまじい。
夢ちゃんの放つ鏃の弾丸は、余すことなくリザードマンを貫通し、フィーちゃんに回ることなく打ち終えた。
「ありゃ、一匹は漏らすつもりだったんだけど、貫通でどうにかなっちゃったわね。……威力あげすぎたかな?」
「あはは、みたいだね、夢ちゃん」
三発目の弾丸が、貫通して後ろのリザードマンを討ち倒したのだ。
なるほど、確かにこれは威力が高い。確か、夢ちゃんの腕甲、黒風には刻印鋼板という形で魔導術式が刻印されているはずだ。だから、その刻印された術式を、強化しておいたのだろう。
「ま、油断大敵。慎重に行きましょう」
「あ、ま、待って、夢」
「静音?」
「あ、あれ、あそこ……トラップかな?」
そう、静音ちゃんが示した場所。
天井の一部が変色している。
「うーん、怪しいわね。少し離れて起動させてみる?」
「待って、夢ちゃん。その前にほら、魚」
トラップ擬きから一応距離をとり、泳いでくる魚を注視する。
けれどなんだろう。まっすぐに泳いでくるのではなく、なんだか蛇行しているように見えた。なんだろう、こう、酔っ払い運転みたいな?
「念のため、私の天眼で見てみようか?」
「そうね……ええ、一応――」
「む、下がれ、碓氷!」
「――へ? 久遠店長?」
声に戸惑いながら、一歩前に出ようとしていた夢ちゃんが飛び退く。
そこに発射されたのは、水の弾丸。魚がはき出したそれは、じゅうじゅうと湯気を立てている。まさか、酸?
「チッ、倒して飛び散っても厄介ね。フィー、いける?」
「ああ、任せろ。ようやく出番だな!」
そう言って、フィーちゃんはミョルニルを持っていない方の手を向ける。
すると、霊力が集まって雷撃に変換。鋭い軌道で飛来した稲妻は、魚を簡単に焼き尽くした。
「酸まで吐くのか……厄介だな」
「でも、なんとか決着――」
「いや、まだだ」
久遠店長の言葉に、周囲を見る。
そこにはさっきのような、蛇行する魚が大量に、水を張って近づく様子があった。
「わたしの結界で押しとどめて殲滅、かな? 夢ちゃん」
「採用。それで行くわよ!」
「うんっ……【速攻術式・領域結界・展開】」
魔導術を展開。
わたしたちを護るように球状に張られたそれに、魚がぶつかってくる。予想どおりに結界は乗り越えられないみたいだから、このまま殲滅すれば良いよね。
「よし、じゃあフィーちゃ……え?」
「っスズリ!!」
慌ててわたしに手を伸ばす、リュシーちゃんとフィーちゃんの声。
急にひっくり返った視界の端。変色した天井に当たる酸。リュシーちゃんたちの手はわたしを掴んでくれたけれど、だめだ。
なにせ、崩れているのはあたり一帯。――全員が、穴の底へ落下する。
「っっっ“干渉制御”――“重力制御”!!」
落下まで一瞬。
まるで、転移でもしているような感覚は、きっと偽りではない。
真っ逆さまに落ちながらも、なんとか着地だけは成功した。
「っ、みんな、無事?!」
「う、うん、ありがとう、鈴理」
「なんとかね」
「ふぅ、危ないところだったね、スズリ」
「久遠店長も……ご無事ですか、良かった」
「ああ。だが、ここは……」
久遠店長の困惑するような声に、顔を上げる。
そこは、さっきまでわたしたちが居たようなセーフティエリアだった。セーフティエリアに落ちるコトなんてあるんだね……。見れば、天井はもう塞がっている。
「――は、はは、嘘でしょ?」
「夢ちゃん?」
「なんの冗談よ、これ」
「ねぇ、夢ちゃん? どうしたの?!」
震える手で、夢ちゃんが示した先。
その先は、かの異能者が壁に残したという数字。
「へ? ――こんな、ことって」
書かれていた文字は“CDXCVI”。
ローマ数字での表記。わたしたちが普段使っているアラビア数字で表すのであれば――“496”。第四百九十六階層を、示す文字。
落ちた先は……始まりの異能者以外はたどり着いたことのない、未知の深海を指し示していた。




