そのじゅうに
――12――
――雪の降る日だった。
――しんしんと降り積もる雪が、うつくしい日だった。
岩石地帯が暴力によって抉られる。褐色肌のひげ面の男、赤木の持つナイフが地面に触れると、それだけで岩石が爆散。石つぶてが襲いかかる。
『狼雅“ブレス=オブ=ロア”!』
それを弾いたのは、座り込むわたしを守るポチだった。
嵐のような岩石を、食い止め、弾き、いなす。
「おいおいおい、こっちを忘れちゃ困るよォッ!!」
『ゥオンッ!! ――グッ、ぬぅ!?』
薄ら笑いの児童虐待犯、久坂が、赤黒い水を放つ。
津波のように襲いかかるそれを、ポチは一吼えで散らした。けれど僅かな飛沫が当たると、低く唸って、痛みを堪える仕草を見せた。
「はっはー! 見たかコレが“赤痛水”! 過去の痛みを呼び起こす、悪夢の水さぁっ!」
『この程度で、我が肉体、押し通せると思うたかッ!!』
「ブツブツ……“窃瞬”……ブツブツ……ひひっ」
吼えて飛びかかろうとするポチ。
けれどその一歩は空振り、滑るように転ぶ。だめだ、助けないと。わたしはポチの同胞なんだ。わたしが、ポチを助けないと!
「【速攻術式】!」
「――凜々しいねぇ」
「っ」
耳元。
肩に置かれた手。
「うぁ、やぁぁぁぁぁっ!?」
振り払う。
けれどそこには、何もいない。
「どうした?」「ここだよ?」「そんな方を見ないで」「オレだけ見るんだ」「ほら、こっち」「こっちを見ろ」「可愛いよ、鈴理」「ああほら、逃げないで」「あの日の続きをしようよ」「手を出して?」「良いだろう?」「おまえだって」「その気だったから」「オレに」「着いてきた」「んだろう?」「いまさら」「知ってるんだよ」「実の祖父に」「おまえが」「穢いから悪い」「綺麗にしてあげよう」「服を脱いで」「愛してあげよう」「良いから」
声。
声。/記憶。
声、声。/扉が開く。
声、声、声。/薄ら笑い。
声、声、声、声。/手が触れる。
声、声、声、声、声。/わたしを呑み込むように。
声、声、声、声、声、声声声声声声声声声声声声声声声――――声。/音。
「いや、いや、いやだいやだいやだいやだいやだ――信じて、たのに」
ああ、そっか、なんで忘れていたんだろう。
なんで、わたしは、“乗り越えられた”なんて思い違いをしていたんだろう。
おじいちゃんの時は、世界を知らなかった。ショックだったけれど、心のどこかで、“どこもきっと、苦しい。わたしだけじゃない”と思っていた。
でも、“先生”のときは違う。みんなが当たり前に幸福なんだと知った。わたしだけが特別に“運が悪かった”のだと思い知らされた。だから世界が怖くて、だから優しい先生のことを信頼して、だからあっさりと裏切られて。
心のどこかで。/わたしの心の中で。
何かが。/小さな“すずり”という女の子が。
壊れる音がした。/バラバラになって、死んだ。
――雪の降る日だった。
――しんしんと降り積もる雪が、うつくしい日だった。
――雪で冷え切った手を、先生はそっと包み込んでくれた。
――“あたたかいココアを飲もう”とかけてくれた声が、嬉しかった。
――閉じられた扉。
――横抱きにされ、ベッドに運ばれる。
――“運命の出会いだったんだ”なんて。
――先生は、わたしの服に手をかけた。
――まるでおじいちゃんのような目をしていたから。
――“いや”“なぜ?”“こんなこと、したくない”。
――顔が、熱かった。
――なにが起こったのか理解できずに呆然として。
――“ここまで来て、なにを言っているんだ?”。
――もう一度、熱くなった時に、叩かれたのだと知った。
――服に手をかけられた。
――抵抗して、叩かれた。
――なにをされているのか、わからなかった。
音。/着信音。
――“待っていてね、オレのお姫様”。
――逃げられない。強く叩かれた。
――雪の降る日だった。
――肌を焼くような、冷たい雪だった。
『鈴理! しっかりしろ! ――貴様、精神汚染の異能か』
「ひ、ひひ、さぁてどうだろうねぇ? オレのお姫様にだったら聞かせてやっても良いがね。犬っころ、おまえは駄目だ」
息が苦しい。
頭が痛い。
震える手で、立ち上がって、失敗する。
『それに妙だな。他の三人も“強すぎる”。振り回されている、と言っても良い』
「ご名答。知ってもどうにもならんから教えるが、ドーピングさ」
わたしに向かって、樟居先生が笑みを浮かべる。
それだけで呼び起こされる恐怖感。ちがう、わたしは、なんでこんなに怯えているの?
『鈴理、気を強く持て。良いな?』
「ポ、チ」
『苦しくなれば友を思え、師を思え』
「わかっ、た」
ともだち。
そうだ、友達、だ。
カフスからは何も聞こえない。ノイズ? 妨害されている?
どうしよう。だめだ。助けて。違う! 師匠、夢ちゃん、リュシーちゃん、みんな。
「おらァッ! 腑ぶちまけて死ねぇッ!!」
「おい赤木、回復させられる程度にしておいてくれよ!」
褐色の男が、ナイフを振り上げる。
ポチは他の三人に足止めされている。
わたしは何が出来る? 異能で、魔導で、避けられる早さ、なのに。
逃げられない。
死が、牙を剥く。
――「臓物をぶちまけて死ぬのはオマエだ」
ザンッ、と、音がする。
如何なる手段か、赤木は防いだようだけれど、防ぎきれずに腹を押さえながら吹き飛んだ。
「発現型最強の異能者を前に、よく刃物を持ち出せたものだと褒めてあげる。でも、ここでゲームオーバー。ものみな血を吐き、両断されろ」
ぼうっと、右手が熱くなる。
右手に宿るゼノが守ろうとしてくれていて、一歩、風子ちゃんが早かったんだ。
「風子、ちゃん」
「誰に泣かされたの? ああ、答えなくて良いや。全員、細切れにしてから考えるから」
『ちょうどいい、風子。足止めをしてくれ。ああ、だが、スーツの男は殺すなよ』
「はいはい。可能だったらとっとくわ」
風子ちゃんが手を払うと、射線上のなにもかもが両断されていく。
全員が何かしらの手段で避けているが、それだけだ。圧倒的な攻撃力を前に、死なないようにすることで精一杯に見える。
『鈴理』
びくりと、肩が震えた。
「ごめん、ね、ポチ、わた、わたし――失望、したよね」
友だと言った。
同胞だと、言ってくれた。
なのにわたしはこのざまだ。逃げて怯えて、膝を突いて。
『鈴理、よく聞け』
「――」
ポチは、四足で立ったまま、座り込むわたしを見つめる。
『――逃げたいのならそれでも良い。その時は、我は群れの長として、おまえを慈しみ守り抜こう』
「え……?」
『逃げても良い。それでも見捨てはしないと、そう言った』
ポチは、誇り高き狼の王様だ。
群れの長で、強く気高い狼王で、だからこそ同胞を――いや、違う、そうじゃない。
「それ、は、“なに”として?」
『……群れの仲間だ』
子分として、守ってくれる。
それは。
『だが』
「?」
『我が対等なる友として、未だ錆び付かぬ牙があるのだとしたら、鋭い爪を折っていないのだとしたら――相応しい“誇り”を示せ』
「誇り……」
樟居先生が怖い。
それは、なんで?
本当に、立ち向かえないほど、怖いの?
『選べ、我が友よ』
選ぶ。
選ばせて、くれる。
『一つだけ、助言をしよう。大ヒントだぞ、鈴理』
ふと、その刹那だけ、ポチが“いつもの調子”に戻る。
ニィ、と、釣り上げる口角。獰猛だが悪戯っぽいような笑み。
『おまえが立ち上がる時は、いつも友の為だった。今日、立ち上がるのであればそれは、初めての“自分だけのため”の一歩だ。どうだ? ――格好良いだろう?』
助言って、えっと、それ?
「――ふふっ、なに、それ?」
なんだ、そんなこと。
そんな風に言われたら、わたしはもうどうしようもない。
そうだよね。わたしはきっと、ずぅっと格好悪かった。逃げて怯えて、きっとどうしようもなかった。それで今、こうしてとんでもなく躓いている。
手を見る。
カタカタと、震える手。
拳を握りながら、顔を拭う。みっともなく、泣いていた。
「ねぇ、ポチ」
『なんだ?』
「わたし、立てるかな」
『さぁな』
「もう、なに、それ」
『――立てるさ、我が友ならば』
「ふふ、そっか」
『ああ、そうだ』
大きく息を吸う。
知覚領域が拡大。超覚が、万物の流れを捉える。
大きく息を吐く。
感覚領域が進展。魔力循環が、魂の奥底を暴き出す。
目を閉じる。
死んだ、なんて言ってごめんね、小さなわたし。
目を開ける。
いいよ、許す。そんな声が、聞こえた気がした。
「息を潜め、牙を研ぎ、爪を揃え、獲物を捉え」
立ち上がる。
「思考を回すは冷たき意思を、思念を燃やすは灼火の意志を」
もう、手は、震えていない。
もう、心は、渇きに満ちている。
「摂理に満ちるは、我が矜持」
もう、誰にも、わたしの矜持は汚されない。
もう、誰にも、わたしの誇りは穢させない。
「【“霊魔力同調展開陣”】」
最初に、無茶をして使った時とは違う。
全てを理解して、全ての摂理を呑み込んで。
「【“心意刃如”】」
翡翠の力が満ちる。
蒼玉の力が巡る。
「ポチ」
『うむ?』
「ポチをイメージして、創ったんだよ、これ」
『クッ――それは、楽しみだ』
“干渉制御”。
わたしが過去と決別して、今と向き合う力。
「【“創造干渉”】――」
力が巡る。
それはまるで血液のようにぐるぐると循環して、形作られる。
「――【“狼雅天星”】!!」
そうして、光が弾けた。
髪と眼は黄金に。頭に生える狼の耳と、尾てい骨から伸びる黄金の尾。
両足を包むのは銀の脚甲、両腕を包むのは銀の腕甲。犬歯が鋭く伸びて、狼のように。
『風子! 道を空けろ! 我が友の狩りだッ!!』
こわいよ。
うん、正直に言うとね、すごくこわい。
でも、そんなことよりも、わたしはわたしが大切な人たちと歩いた道を穢されることが、何よりも怖い!
「ひ、ひひ、おいおいコスプレか? オレのお姫様」
一歩。
――霊視。異能が伸びる。これはきっと、一瞬の思考を盗み切り取る異能だ。
「ブツブツ……ひっ、避けられ? ……ブツブツ、なんで、ブツブツ」
二歩。
――赤黒い水。解析。当たる水の量が少ないほど、蘇る痛みが強い。全部浴びて蒸発させれば、ただの水になった。
「条件がバレている?! 何故!?」
三歩。
――倒れ伏す赤木は捨て置く。
四歩。
――引きつる顔の樟居。
五歩。
――平面結界を“無詠唱”展開。
六歩。
――足場にして、跳び、迫る。
「コスプレ程度で、調子に乗るなよッ!!」
見える。
樟居の異能は、共存型。樟居を守るようにとぐろを巻く、真っ黒な双頭の蛇。能力は四つ。幻覚を見せる目、気配を消す目、毒を吐く頭、炎を吐く頭。
毒の頭が顎を開く。けれど拡大された知覚領域は光景をスローモーションのように捉えていた。その上で、七魔王クラスに底上げされた身体能力が、蛇の額に蹴りをたたき込む。
「は?」
それだけで、蛇の片首が吹き飛んだ。
「嘘だろ!? は、はは、オレが怖くないのかよ!」
こわかったよ。
でも、“幻覚”はもう、解けた。増大されていた恐怖心は掻き消え、自己分析により戦力差を完全に理解。魔力も霊力も総動員したトラウマ克服。
それは、わたしの内側に燻っていた不安も恐怖も不信もなにもかも、完全に吹き飛ばした。
だからもう、怖くない!!
「【心狼雅――」
大きく振りかぶった手が、黄金の爪を纏う。
「やめろ、来るな、来るな来るな来るな、やめろ」
「――“エンド=オブ=ロア”】ァァァァッ!!」
「ォォォォォオオオオオッ!?!?!!」
黄金は、極限まで圧縮された霊魔力。
あるいはきっと、“魔法”と呼ばれるこの力は、師匠のように幻想を紡ぐ。
振り下ろされた巨大な爪は、樟居に着弾と同時に蛇をかき消し、樟居の“魂”に楔をつける。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ」
「鈴理! ……なんかそれ、格好良いね」
「へ、へへ、でしょ? 風子ちゃん」
岩石地帯“ごと”吹き飛び、数十メートルにも及ぶ巨大な爪痕の奥で倒れ伏す樟居。
少なくとも“死にはしない”ように調整したから、大丈夫だろうと思う。ちゃんと、罪を償えるだけの元気はあるだろう。
一息吐くと、身体に纏っていた黄金が、粒子となって消える。前のわたしだったらこの時点で倒れていそうなモノだけど、うん、なんだか大丈夫だ。これ以上発動させられないけれど。
『ククッ、さすがは我が同胞だ』
「……ポチ。うん、ありがとう」
『だが、些か詰めが甘い。見ろ』
「へ? ぁ」
言われて周囲を見回してみる。
時折痙攣しながら倒れ伏す三人は、血みどろと表現しても間違いでは無い。
……で、そうではなく。吹き飛ばされた樟居が、ゆっくりと立ち上がる。その目にはなにも映っておらず、足下には割れたペンダント――って、まさか。
『第二ラウンドは総力戦だ。鈴理、我らのチームワークで天使の度肝を抜いてやろう』
「あっ、はははははっ、良いね。鈴理、それで行こう」
「――うんっ!」
樟居の身体から生える天使の羽。
歪な二対四枚のそれは、ところどころに黒が混じっている。
樟居の下半身が、真っ白な蛇になる。
尾は二股に分かれ、それぞれに頭がついていた。
「ひ、ひひひ、みんなみんなみんな、殺してやるァァァァァッ!!」
逃げ場は無い。
逃げるつもりも、無い。
「行くよ、風子ちゃん、ポチ、“みんな”!」
第二ラウンドが、幕を開ける。




