そのに
――2――
――ツ――ザ―ザザ―ザッ
「見逃さないで」
――ザァ――ジジ――ツ――ジザッ
「残業?」
「えっ、は、はい。みっともないところをお見せしました」
「あはは、いいのいいの。気にしないで。はい、ココア。好きでしょ?」
「ぁ……ありがとうございます――黄地先生」
「あれ? 時子お姉ちゃん、とは呼んでくれないの?」
「と、時子さん、それはその」
書類とにらめっこしていたら、突然、背後から声をかけられる。
彼女は、黄地時子さん。学生時代からの知人であり、お世話になった先輩であり、私が姉のように慕っている人だ。
時子さんは私の仕事の邪魔にならないようにか、私を振り向かせないよう椅子を押さえて、ココアの缶をくれた。
「頑張るのはいーけど、根を詰めすぎないように。未知は昔っから無理するんだから」
「うぅ、昔のことは置いておいて下さい」
「えー」
猫のよう、とは私の友人談、である。
時子さんは飄々とひとをからかって、でも本当に辛いときは寄り添ってくれる。そんな、年上のおんなのひと。
私はそんな彼女に、もう二十年近く助けられて――
――ヅッ
――そう、大学生の時から、“八年”近く、助けられている。
出逢いは。出会いは、なんだっけ? まぁ思い出せないということは、たいしたことではないのだろう。
「悩み?」
「い、いえ。寝不足かなにか、みたいです」
「そっかー。じゃ、お姉ちゃんからのアドバイス」
「はぁ……?」
「頭を悩ませるようなモノってね、気になるところにはなくて。気にならないところにはあるものだよ」
気になるところにない?
気にならないところに、目を向ける……。
「よく、わかりません」
「それならそれで、良いんじゃない? ただ、頭の片隅に置いておいてくれれば、ね」
「わかり、ました」
「それで良し。今日一杯どうかと思ったけれど……うん、また今度にしておこうか」
「え、でも」
そんな機会、ないのに。
ない? あれ? 時子さんは賑やかな空気が好きなひとだ。飲み会くらいこれまで何度もあったような気がする。
ない? あれ? 気になるなら気にしないで良い?
なんか、違う。
「今のは、アドバイス前だったらさらっと流してたよ。私が“ここ”で“こう”なのは、それもあるんだろうなぁ」
「なんの、話、ですか?」
「未知ちゃんの、話」
「え?」
「じゃ、“また”ね」
引き留めようと振り返り、“違和感”を覚える。
パンツスーツ姿の女性。ボブヘアの白髪。すらっと高い背。背? あれ?
おかしい。なんで。記憶は“問題ない”と訴えているのに、違和感が付きまとう。
「気がついて」
「ッ!?」
声。
どこから?
だれの、こえ?
弾かれるように職員室を飛び出て、廊下に出る。
視界のずっと先。階段の前。白いワンピースの、女の子。
見覚えのない子だ。笠宮さんたちのグループでもない。もちろん、クラスの子でもない。
探せ。
どこかで見たことがあるはずだ。
どこかで、覚えがあるはずだ。
「あのひとは、おねえちゃんにとって大切なアドバイスをくれるひと。だから誰しも役割を全うする中で、あのひとはその枠組みをこえてきた」
声。
聞き覚えがある音。
遠くて顔がよく見えない。
近づく? だめだ、足が竦んで動かない。
「思い出して。大丈夫、おねえちゃんなら、できるよ」
思い出す?
何を、思い出せば良いの?
あなたのこと? でも、私は――
――ザザッ
「観司先生じゃないか。こんなところで寝ていると、風邪を引くぜ」
「っ、あ、れ?」
職員室。
さっきまで、そう、仕事をしていて、デスクに突っ伏して寝てしまったのか。
うわぁ、やってしまった。お恥ずかしい。
「ごめんなさい、東雲先生。起こしていただきありがとうございます」
「はっはっはっ、お気になさらず。それより観司先生、せっかくだから校庭でも見ながら仕事をしたらどうだ? 部活動の真っ最中だ。子供好きな観司先生なら、元気を貰えるんじゃないか?」
「……そう、かもしれません。ありがとうございます、東雲先生」
言われて、窓際の空きデスクに座る。
外はなるほど、部活動の真っ最中なようだ。
サッカー部で動き回っていた九條君が、無駄な動きでドリフトを決め、無駄なポーズでシュートして、見事点数をゲット。
最近は中二病行動も減ってきて寂しいが、確かに昔はあんな感じ――
――ジッツ――ザザザッ
――ええっと、そう。無駄なポーズが好きで、あれらは全て意味がある行動らしい。
そう語る九條君の姿は、どこか誇らしげで、微笑ましい様子だったように思える。
そんな九條君は、職員室で仕事をする私に気がついたようで、手を振ってくるので振り替えした。
あ、楠君に怒られている。喧嘩にならないと良いけど……うん、大丈夫そう。なんだかんだで、九條君と楠君は仲が良い。
九條君。
楠君。
名前が近いから、出席番号順で並ぶとほとんどの場合で前後に並ぶから、だろうか。
いやぁ、でもやっぱり、男の子は元気が良いなぁ。
うん……怪我、しそうだから保健室に先回りしておこうかな? 心配だし。
仕事は――あ、終わってる。ってこれ、時子さんの字が混じってる。うわぁ、寝ている間に手伝って貰っちゃった?!
今度、時子さんの好きな和菓子、買ってこよう……。
置いてある宿題を片付けて、保健室に向かう。
保健室の先生は、私の古い友人で、七といって……あれでも、七は獅堂よりも年下で――
――ザ――ジィッ――ジッ
――わた、し、の、弟分で、昔、世話をしたら懐かれた、というような関係だ。
なんて考えているうちに、保健室にたどり着いていたようだ。考え事をしていると、妙に早く感じるなぁ。
「七、いる?」
保健室の扉を開けて中に入るも、誰も居ない。
席を外しているのだろうか。誰も居ないようなので、白いベッドに腰掛ける。
「いつもは、この時間にいるのに」
七は保健室の先生だが、同時に児童カウンセラーでもある。
カウンセラー室はこことは別だから、もしかしたらそちらにいるのかもしれない。
先日も、お友達と喧嘩をしてしまった三年生の手塚君の、お悩み相談に明け暮れている様子だったし。
「良い天気」
ぼんやりと外を眺める。
平和だなぁ。平和、平穏、うん、好きな言葉だ。
父さんと母さんが、好きだった言葉だ。特に父さんは小学校の先生で、教員免許をとったときも、喜んで――
「ぁ」
――息が、苦しい。
だって、あれ。おかしいよ。
お父さんとお母さんは優しかった。“――”のせいで早熟だった私にもすごく優しくて。大好きだった。
でも、小学生の、十歳の時に二人とも事故でこの世を去ってしまった。せっかく、“平穏”が許される世界に、なったのに――
――ザザッ
――なった、のに、いってしまった。
父さん、父さんは小学校の先生で、母さんは中学校の音楽教師だった。歌を唄うのが好きで、成人を迎えても歌とピアノを聞かせてくれた。
――ザザッ―ジ―ザザザッ
そんな二人に憧れて、教師になろうと思った。
父さんと母さんみたいな先生になりたくて――
――ザザザッ――ジィッツ――ツ―ザ―ザッ
――なりたくて、教員免許をとって。
ああ、そうだ。
思い出した。
晴れた日だった。
こんな風に、澄んだ空の、心地の良い日だった。




