そのはち
――8――
静岡県沖に存在する、最新技術の粋が集められた人工島。
これこそが、遠征競技戦の会場――“パイオニアシティ”だ。
「もう一年か。早いなぁ」
生徒たちを乗せた大型客船の甲板で、そんな風に呟く。
鈴理さんに出会って色々あって、それから更に色々あった遠征競技戦からもう一年。時の進みの早さを、自覚せずには居られない。光陰矢のごとし、だ。
「未知、そんなところに居たんだ」
「あ、七。どうかした?」
「未知と一緒に居たかったんだ。それではダメかな?」
「ふふ、ずいぶんと甘えん坊ね」
「よしてくれ。僕だってもう、子供じゃ無いんだよ」
そういえば去年は、ここでこうして七に迫られたことを思い出す。
あのときはわてわてと慌ててしまったけれど、うん、七はけっこう初心なところがあるし、“へたれ”……いえ、うん、そう、だから慣れてきたというか。
「今、失礼なことを考えていなかった?」
「ふふ、さて、どうかな?」
「むぅ、せめて否定してくれよ」
拗ねる七に、思わず笑ってしまう。
海風に当たると、七の鮮やかな青髪がよく映えた。七も、獅堂とは別のベクトルで整っている。獅堂が野性味溢れるイケメンなら、七は神秘的な雰囲気があった。
七曰く、“精霊の血が混ざると整うのは普通”ということなんだけどね。七のお母さんも、すっごく可愛らしい方だし。いや、綺麗、か?
「妹さんは元気?」
「ああ、もちろん元気だよ。“未知義姉さんに会いたい”って言っていたよ。今度、一緒に行かないかい?」
「まだ、“お姉さん”って呼んでくれているんだ。でも、そうねぇ……精霊界は空気が綺麗だものね。一度くらいは足を運ぼうかな」
「そうそう。ついでに、住処を移してくれても良いんだよ? ほら、通勤は“ゲート”を使うから」
そんなにぽんぽん、高難易度の転移陣なんか起動させていたら、色々なところから怒られてしまいそう。うーん、でもそうだね、隠居先には悪くないかも。
……それにしても、七とこんなにゆっくり話をするのは久々だ。それこそ大戦時代は二人で行動することも多かったんだけどね。人間を信用せず、それでも私に懐いてくれた七。あの頃はごく少数で閉じてしまっていた弟分の世界が、今はこんなにも広い。ふふ、なんだか嬉しいな。
「未知、今、とても優しい目をしているね。何のことを考えていた?」
「七のこと、かな」
私がそう告げると、七は僅かに目を瞠る。
――それから、いつかの日々のような無邪気な笑顔で、嬉しそうに喉を震わせる。
「本当に? ははっ、嬉しいよ。君にそんな顔させられたのが僕であると言うことが、こんなにも嬉しいなんて思わなかった」
「大げさよ、もう」
「大げさなもんか。あのさ、未知」
頬に触れる手。
優しく眇められた瞳。
「いい加減、自覚してよ。君ほど惹きつけられる人間なんて、いないんだよ?」
「買いかぶり」
「なら、“鏡七”にとっては、って、そう自覚してくれても良いよ。僕だけ見ていれば、良い」
さっきまではどこか子供っぽいような表情だったのに、途端に、大人っぽい横顔を見せる七。優しい瞳に映り込むのは、似たような笑顔を浮かべていた私の姿。
彼の瞳に映り込むのが、全て私であると言うことは、こんなにもどぎまぎとすることだっただろうか。なんだか少し、こう、悔しくさえある。
「今日はなんだか、変ね」
「僕を変にさせられるのは、君だけだよ。ほら、少し心を入れて考えてみればわかるさ」
「あら、恋にでもしてくれるの?」
「月が出ていないからね。君に勝るモノはなくとも、例えるのなら海辺の夜が良い。僕だけの世界に、“月”が浮かんでいるようだろう?」
なんだか、言い回しが獅堂みたい、なんて。
ぐいぐいと押してくるわけでは無い。ただ、言葉で、態度で、全力で好意を示す七の姿に熱を覚える。あなたのそれは、なんの感情? 精霊が示す愛は、親愛も友愛も恋愛すらも、ひとまとめだ。だって彼らは、最大級の信を置く存在にしか、そもそも愛を示さないから。
海風が頬に当たると、冷たいソレが余計に熱を自覚させる。まるで、海が熱を運んでくるようでさえあった。
「ね、未知? ドキドキしている?」
「へんなコト、聞かないの。どうしたのよ、もう」
「へんにもなるさ。もうすぐ、世界中のひとが君の魅力に気がついてしまうんだ。そうなってしまう前に、約束が欲しくなる」
「約束?」
七の指が、私の手を取る。
いつの間に、こんなに大きな手になったのだろう。男の人なのにきれいな手だ。骨張ったところのある、力強い男の人の手だ。
「そう、“約束”だよ。色は銀が良いな。瑠璃をはめ込むんだ」
「瞳の色みたいに?」
「そう。僕の銀と、未知の瞳」
どくどくと、血の流れが早くなる。
早鐘を打つ心は、私の意思を許してくれない。弟を守れる姉でありたいという昔日の誓いを、別の誓いで塗り替えてしまおうと、逸るように。
「未知。どうか一つ、許して欲しいことがある」
「許す?」
「そう。どうか、君の薬指に口づけを交わすこと、許して欲しい」
七の指が、私の薬指を撫でる。
途端、背筋を奔るような熱に、咄嗟に目を閉じた。
「委ねてくれ。そうするだけで、僕は未知を閉じ込め――」
耳に。
音が。
――どぽんっ!
どぽん、と、届……あれ? どぽん?
指先から離れた熱に、首を傾げながら目を開ける。あ、あれ? 七がいない?
「よう未知、海風に当たりすぎると風邪を引くぜ?」
「あれ? 獅堂?」
ずいっと身を乗り出してきたのは、見慣れた無駄に整った顔。
赤い髪と赤い目の、炎のような男が、何故か息を切らして立っていた。
「あの、七は?」
「ああ。甲板でふざけていたからな。どうも、揺れにバランスを崩したみたいだぞ」
「え? それって――まさか!」
慌てて柵から身を乗り出して、下を見る。
そこには上半身だけ海から出て、慌てて泳ぐ七の姿。えっ、落ちたの?!
「な、七ーっ! 大丈夫?! ゆ、揺れなんかあったかなぁ」
流石に、客船から下を覗き込んだところで、七の姿を捉えることしか出来ず、救出は難しい。けれどさすが、水遣いというべきか。少しすると七は水のロープを作り、柵に縛り付けた。
良かった、なんとか這い上がれそうかな?
「未知、タオルをとってきてやってくれ」
「ええ、わかったわ」
そうだよね、水に濡れていたら風邪を引いてしまう。
獅堂はなにやら七に声をかけてくれているようだし、急いで取ってこよう。
それから、生徒たちに勧告も出さないと。近くに人が居れば大丈夫だとは思うけれど、海に落ちるような揺れがあるのなら、それはそれで問題だ。とりあえず、瀬戸先生に端末で、内容を送信、と。
『揺れで甲板から教員が一人落下しました。生徒への勧告をお願いします』
『艦橋から拝見しておりました。九條特別指導官グッジョブとお伝えください。勧告も直ぐに』
グッジョブ? ああ、七への救出作業のことかな。
こういうのは、手早く行動することが一番だからね。獅堂へグッジョブを送りたくなる気持ちはわかる。なんだか、瀬戸先生と獅堂たちって、けっこう仲良くして居るみたいだしね。
「さて、これで大丈夫かな。あとはタオルを、と」
胸に手を当てる。
高鳴りは、きっと走ったせいだろう。
「はぁ……気が多いのかな、私」
誰の答えも保留にして、誰にも応えずいられはしない。
卑怯なことをしているのはわかる。でも、迷わずには居られない。教師としても未熟な私が、今、恋や愛と一生懸命に向き合える気がしない……なんていうのは、なんと醜い言い訳なのだろうか。
「気持ちを、切り替えないと」
でも、本当にそれで良いの?
あの日の私が、あの日の“あの子”が、私に告げる。
『信じてたのに』
『未知先生のこと、信じてたのに』
『もう、信じられないよ――』
群青色の長い髪。
黒く澄んだ大きな瞳。
魔導科の生徒で、私が担任だったクラスの、教え子。
「これが償いになるとは、言えないよ。それでも、あなたのような失望を、子供たちに与えたくない」
最後の試験。
世界一の魔導術師になると告げた彼女に、私が見せた一つの魔導。
それに苦悩して、やがて、笑顔を消してしまった彼女と最後に会った、あの日。
『――嘘つき』
強い雨に掻き消えること無く告げられた、その言葉を。
「葵美さん……私は」
胸に刻まなかった日などない。
私に刻まれた、拭いきれない罪の証。
立ち止まっている暇など無いのだと――胸の高鳴りが、疼くように痛んだ。




