そのじゅうきゅう
――19――
――水音。
水滴が水面へ落ちる音。
波紋が水面を揺らす音。
静寂が僅かにひび割れる音。
「ぁ、れ」
その静かな音に、目を覚ます。
「こ、こは?」
きらきらと輝く天井。
月の光を閉じ込めたような水晶が、洞窟の中を照らす。洞窟? 何故? なんで私は、洞窟にいるのだろうか。疑問符ばかりが駆け巡り、意識がハッキリとしない。
地面は白。白から延びる格子は、頭上で一つの点に結ばれている。蔦のように絡まっているのは、美しいが人を寄せ付けないような雰囲気のある、白銀の薔薇だ。
『む。目覚めたか、ボスよ』
「ポチ? ええ、と、ここは?」
『鳥籠の中だ、ということ以外はわからん。だがあの階層よりも下であることは確かであろうな。我らごと地に沈み、ここに移動させられた』
「かいそう、階層……そうだ!」
霧がかっていた思考が晴れる。
第四階層フロアボスの間で鳥籠に囚われて、眠らされた。それから、どれほど時間が経ったのだろうか。
「ポチ、あれからどれくらい経った?」
『半日といったところだな』
「そう……ここはおそらく、“海底洞窟”ね。なんの目的があって、こんな」
『海底洞窟?』
そう、通称“海底洞窟”と呼ばれる区域。
たった五百メートル四方で完結された縦長の洞窟は、それだけで一つのフロアとなっている。
卵形の洞窟の中、およそ三分の一を満たす海水。足場とも言えないような尖った岩が乱立しているだけの空間は、水中戦闘を強いられる中層最後の難所である。
私たちが納められたこの鳥籠は、その海面から少しだけ浮いているようだった。
「私を閉じ込めて、どうするつもりなのだろう」
『それは……ボスを、雌を閉じ込めてすることなど一つだろう』
「そういうのはいいから。まぁ、それが目的なら、最悪変身すれば五秒ではじき出されるのだけれどね」
『む、そうか』
「なんで残念そうなのかはリリーも交えて今度じっくり聞くとして……まずは脱出、ね」
格子に近づいて手を触れる。
格子の幅は広く、顔を出すくらいだったら出来る。けれど、横に入った格子が絶妙で、身体を外に出すことは出来ない。
「ポチだけなら出られるかしら」
『無理だな。格子に“祝福”が施されている。悪魔にとっては結界だ』
「それって……犯人は、その、神官ということかしら?」
神官、あるいは司祭といった聖職者。
神や天使の力を借りて行使される力は、祝福、あるいは“天力”と呼ばれる力を帯びる。天力は妖力に強く、妖力と霊力は互いに影響を及ぼす。魔力はこの法則には当てはまらず、どれにも均等に力の効果を及ぼす。
つまるところ、三すくみではなく、天力>妖力=霊力←魔力という奇妙な公式となるのだ。まぁ、魔力は言わば魔法から生まれた後付けの法則だからね。霊力に至っては、単純に天力の下位互換という見方が強い。
『いや、この力はもっと上位のモノだろう』
「……また、天使化、あるいは神獣化が関わっている?」
『あるいは――いや、回答の方から来たようだぞ、ボス』
「っ」
ポチの言葉に、警戒を強める。
服の下の術式刻印をいつでも発動できるように意識を向け、ポチが睨み付ける方向に目を遣った。
――「なるほど、魔に類いするモノといえど獣。鼻は利くようだ」
そして。
『来たぞ、ボス』
声が、響いた。
「ふむ、大人しく待っていてくれたようだね」
空を“割って”出現したのは、純白の翼を持つ天使。
だがそれ自体はまだ良い。天使薬の存在もある。手段がある以上、彼のように“翼が二対四枚”ということもあるのだろう。
だがそれ以上に、その顔が見知ったモノだったことに目を瞠る。
「オズワルド、さん?」
「ああ、覚えていてくれたんだね、Ms」
そう微笑む、スーツ姿の男性。
クラウン社のCEOにして、先日の強盗事件で縁を持った方。
確か名を――フィリップ・マクレガー・オズワルド。その彼が、一連のコトに関わっている?
「あなたが、私を?」
「ああ、そうだ。手荒な真似はしたくなかったんだがね……巻き込まないためには必要なことだったのでね」
憂いがかった表情。
顔を覆う手は悲しそうに。
「巻き込まない?」
「ああ、そうだ」
ふわりと翼を羽ばたかせ、鳥籠の直ぐ前まで降りてくるオズワルドさん。
美しい顔立ちで神秘的であるとは、思う。けれどその目はどこまでも酷薄で、突き放したような冷たさがあった。これなら、ロードレイス先生の方がよほど感じが良い。
「君たちの、そう、悪魔の気配のする“異端者”だ。私は神に託された使命を果たすために、正義の鉄槌を下さねばならないのだよ。悲しいことだがね」
その全てがどこか、そう――“芝居染みた”ような仕草で、オズワルドさんは言い放つ。
「なっ」
それは、つまり――鈴理さんを、害する?
「やめて、やめなさい!」
気がつけば、考えるよりも先に叫んでいた。
鳥籠の格子に縋り付き、足掻くように手を伸ばす。
「――やはり貴女は優しいひとだ。貴女もまた“魔導術”などという異端の力を宿しながらも、それに溺れていない。貴女のような正しい人ならば、Trueを持つのはどちらか、直ぐに理解してくれることだろう」
けれど、どこか酔いしれた姿の彼には、私の声は届かなかった。
「ッ、なに、を。ここから出しなさい!」
その、まるですべてを同価値に――そう、無価値に定めているような目に悪寒が走る。
彼は見えていない。その目に、本当の意味での優しさも愛も、あるいは怒りも憎しみも宿していない。まるで人形に向けられているかのような、ガラス玉の視線。
「だからこそ、Understandingして欲しいのだよ。――“異端者”で、かつ“魔”に溺れてしまった人間は、既に人間として扱ってはならない、ということをね」
それは――違う。
その考えは違う。
このままならない現実で、それでも足掻いてきた人間に、言って良い言葉ではない。
「それは違う! どんな人間にだって、どんな存在にだって誰かとわかり合う機会はあるべきです! それを頭ごなしに否定してしまうことこそが、傲慢だとは思わないのですか!」
悪魔とだって、共存できる。
神だ、天使だと名乗るのであれば、信じて欲しい。人間たちの、あるいは悪魔たちの可能性に目を向けて欲しい。
「あなたが……あなた方が、神の使いだというのならば、人間の可能性を見守るべきではないのですか!」
人間と悪魔だって、“同胞”になれた。英雄と魔王だって、“家族”になれた。だったら、誰だって、可能性さえあれば共に歩く良き隣人となれるはずだ。それを頭ごなしに否定して、可能性の芽を摘んでしまうことを――傲慢と、横暴と言わずなんというのか。
「Ms……君にも直ぐにわかるさ。それまで、そこで待っていてくれ」
「待って、お願い、待って、待ちなさい――」
けれど、その声は、ガラスのような彼には届かない。
手を振るだけで空間を割り、その中に消えていく姿。手を伸ばしても、届かない。
「――止まって、やめて、オズワルドさん!!」
「また、片付いたら迎えに行くよ」
そして、彼は……空の割れ目に、消えていった。
あとにただ、息苦しさにも似た絶望の爪痕を、刻み込んで。
「そん、な」
『チッ、言いたいことだけ言って行きおったな』
「ポチ、どうしよう、このままだと鈴理さんが……!」
『我が口出しをするとこじれそうだから黙っていたが……あれほど聞く耳のない男ならば、吠え掛かるだけでもすべきであったか。だがボスよ、今はここを抜ける手段を講じるぞ!』
「っええ!」
そうだ、ポチの言うとおりだ。
後悔と絶望に酔いしれている時間は無い。一刻も早くこの場を抜け出して、鈴理さんたちに追いつかないと!
『変身して弾かれ、一度外界に出る訳にはいかないか?』
「そうね……いや、だめね。結局は変身前の状態でなければ異界に入れない。鈴理さんたちの速度なら四階層にたどり着いているでしょうけれど、それに追いつくには、外界に出た上でオズワルドの目を誤魔化しながらたどり、鈴理さんの元に辿り着かないとならない」
『この鳥籠を抜ける手段がなければ、結果は変わらない、ということか。ならば』
「ええ、この鳥籠を破る方が確実よ。彼は、私が鳥籠を破れないモノだと思っている。なら、その裏をかいた方が遙かに、鈴理さんたちの救出ができるはずよ。だから、なんとしてでもここを切り抜けないと――!」
白い格子と白銀の薔薇を睨み付ける。
猶予はどれほどのものか、わからない。そしてだからこそ――英雄としての力を封じられるこの異界が、恨めしい。
「ポチは、格子に触れるとまずいのよね?」
『ああ。あくまで後方支援になる。許せ』
「いいえ、あなたを失うわけにはいかないもの」
取れる手札は魔導術のみ。
ステッキで殴りつけるというのは――だめだ、異界の認識がどこまで作用するか解らない。なら、できることは、この身に宿した魔導術で、鳥籠を破ることだけ、か。
「お願い、鈴理さん――どうか、無事でいて」
魔力を練りながら、ただ、強く祈る。
その祈りを確かなモノにするために、私たちは格子に向かって踏み出した――。




