そのご
――5――
わたしは、小さい頃から運がなかった。
悪い男の人や、時には女の人に声をかけられて、連れ攫われそうになる。不幸中の幸いか、決定的なことはなにもなかった。でも、それだけ。ぎりぎりなんてことは何度もあった。
諦めていた。恐怖と戦うこともせず、諦めて、逃げていた。いつも助かる。だから大丈夫。そうやって、助けてくれたひとの気持ちも、わたしを見てくれていたひとたちの気持ちからも、逃げていた。
でも、でもね、観司先生。
あなたに出逢えたから、わたしは戦うことを選べたんだ。
「きひっ、さすが相棒だぜ。あのくそ恐ろしいババアから、こうも簡単に逃げおおせるなんてさ」
『いいから、さっさと印をつけろ。得意だろう? 相棒』
「ひひっ、りょーかい」
森の奥深く。鬱蒼とした木々の狭間。
黒くて大きな狼と、あの、変質者の男。
これからわたしになにをしようとしているのか、悲しいほど磨かれた観察眼がわたしに告げる。
「【術式開始・形態・攻勢展開陣・様式・平面結界・展開】」
わたしが身体の前面に薄くて平らな結界を張る様子を、男はにやにやと視ていた。
スタンガンを持ち歩いていたとき、にやにやとそれを見ていた変質者と同じ顔。わたしの抵抗を無力化してから襲うことを、愉しむ男。
「ぺらぺらの結界で、なにができる? へっひひ、諦めちまえよ、なぁ?」
「――ない」
「はぁ?」
「諦めない。もう、なにがあっても……!」
観司先生、ご存知ですか?
襲われてばかりのわたしに、面倒がらずに接してくれたひとは、貴女だけでした。
自分でも嫌になるほど、ひとの感情を見抜くことが上手になってしまったわたしに、心の底から“わたしのため”だけに、自分自身を引き裂いてまで助けてくれたのは、貴女だけでした。
だから、わたしは決めたんです。
貴女みたいな、心の底から誰かを助けられる人間に、なることを!
「先生と二人で組んだとっておき――【術式変換・形態・操作陣・付加・術式持続・展開】!!」
――通常。
幾つもの公式がある魔導術式でも、オリジナルで新しく作る事なんてまずできない。それは一般常識で、異能者でも知っていること。
でも、わたしの“先生”は、そんな“常識”を、いつだって覆す。机上の空論と呼ばれた速攻術式。ワンフレーズで天才と持て囃される短縮術式を、息をするように二つ。そして、“非常識”なオリジナル術式の考案。
攻勢能力――攻撃に用いる際でも使用可能という術式が込められた平面結界が、その在り方を変える。
操作陣の力により、わたしの手の動きに合わせてふわりと動く、平面結界。
そう、これが常識を覆す一手。
サポート系魔導術に適応していると判明したわたしのために、観司先生と考案した、わたしだけの攻撃手段!
「無駄なあがきを! 手を出すなよ、相棒!」
「【回転】!」
結界が回転し、男の振り上げた爪をいなす。
他人の機微を読む観察力と、憧れの“魔法少女”が組んだ魔導術は、奇妙なほどにかみ合った。
「ちぃっ、テメェ」
「【反発】!」
「ぎっ!?」
衝撃の瞬間に僅かにたゆませて、威力を跳ね返す。
すると男は、自分の攻撃のベクトルに従うままに弾かれた。
「調子に」
「【回転】!」
「グッァッ」
回転させたまま振り上げ、飛びかかろうと浮いたすねを打つ。
弾き。
打ち。
跳ね返し。
打ち返し。
いなして。
かわして。
「ああああああああっっ!!」
その頭上に、“縦”に振り下ろした。
「ギャインッ!?」
蹲る男。
わたしを睨み付ける目は、憤怒に満ちている。
「はぁ、はぁ、はぁっ……鼠だって、猫を噛むんです。あなたなんかに、わたしの心は侵されない……!」
「キヒッ、そうかい、そうかよ! なら、たっぷりと絶望させてへし折ってやるよ! 相棒!」
『手を出すなと言うから……まぁいい。恐怖の糧となれ』
男と、狼が混ざり合う。
まるで彼自身が狼になっていくかのような光景は、なによりも不気味だ。
『これがおれたちの本当の姿。“悪魔憑依”さァ』
闇よりも黒い、二足歩行の狼。
その姿はまるで、物語の中の“狼人間”。
『さぁ、絶望しろ』
振り上げた手に合わせて、結界を移動。
「え?」
でも何故か、狼人間の姿はその場からかき消えていて、わたしの背後に忍び寄っていた。
「きゃぁっ」
背中の、制服を切り裂かれる。
ぴりっとした痛みに思わず悲鳴をあげると、いつの間にそうしたのか、太ももが薄く切り裂かれて血が滲んでいた。
『目が追いつかねえだろう? 悪魔と合体するっていうのは、そういうことだ。今まで制服を切り裂いて連中に植え付けた恐怖は、マーキングだ。おまえを嬲り終わったら、その次は逃げ切れたと勘違いした雌ガキを、たっぷりと味わうのさァッ』
歪んだ笑みで笑う男は、まさしく化け物のようだった。
絶望的な状況かも知れない。でも、それでも。
「わたしは、諦めない。戦うって、決めたんだ!」
『はっ、じゃあ、最後まで元気に抵抗してくれよ――!』
諦めない。
たとえ、どんなことがあろうと、絶対に!
「【回転】――きゃぁっ!?」
『キヒッ、それでその面倒な結界も終わりだ! そらァッ、次はどうする? どうするも、暇なんかやらねぇけどなァッ!!』
結界が切り裂かれる。
振り上げた手で、お腹周りの制服が切り裂かれる。
頬が裂かれて、血が、顔を汚す。
痛い、痛い、痛い、でも!
「諦め、たく、ない!」
『ヒヒヒヒヒヒヒヒヒッ』
振り上げた手は、頭上に。
そして――
「よく頑張りましたワン」
――声が、響いた。




