ニコは気分が良かった
ウルの口調はワザとです。
「君は、己が両親に見知らぬ場は危険で在る場合が多い、と教わった事は無いの哉?」
グリファイア王国が王都、ソレムニオン某所、昼時の事。
「まぁ、其の様子では、こっそり我が家を飛び出して、冒険をしようと思い立ったが故、注意力が散漫としていた事も在る様だけれど」
見たことのない、でも識っている場所を歩くことが楽しかった。それが自分に危険を招く事だと、知識では識っていた。だが知らなかった。
「だが、今度遣ろうと思い立った折にはもう少々、気を散らさない様にする事だね」
どうしようも無い状況を助けてくれた、目の前の人は笑って言った。
「扠、君の冒険に、少々割り入って仕舞った非礼を詫びようと思う、のだけど。君は、君の冒険に突然入って来た異分子をどう扱いたいの哉? 非才の身では在るが、君の望むが侭に今日は尽くそうと思う」
助けてくれたその人は、それなのに謝ってくる。
「では、改めて。俺の名はアーリック・ノア・ヴィンツェンツ。今日ばかりは、気軽にウル、と呼んで呉れ。今日の俺は、君の願いを叶える事が役割なのだから」
変な人。
変な事。初めてのこと。
でもニコは、そんな彼の手を取った。
……そも、事の始まりは。
グリファイア王国が王都、ソレムニオン某所、昼前。
ニコ、ことヴェロニカ・シルヴェスターは気分が良かった。
偉ぶった親戚や堅苦しいお稽古、厳しい教師に喧嘩ばかりの両親、そんな嫌なものから逃げることが出来たからだ。
それに、あの家から一人で逃げ出せたということも少し以上にニコの気分を上げている。なにせ前々から少しずつお金やカバンといったものをコツコツと秘密の場所において準備した、その努力が報われたからだった。
右手には、いっぱいのお菓子。左手には可愛いリボン。どちらもニコが自分で買った初めてのモノ。
歩く道も初めて、街を直接見るのも初めて、ものを自分で買うのも初めて。初めての事をしてみるのは、ちょっと怖かったけれど、それ以上に楽しいものだった。
「暴れ馬だああああああ!」
「キャアアアアアアア!」
「逃げろ! 道の端に行くんだ!」
アバレウマ。聞いたことがない単語だった。アバレウマとはなんだろう、とニコは首を傾げる。馬、なら知っている。ニコの両親が何頭か飼っているし、ニコも父親とともに乗ったことがあるから。
でも、アバレウマ?
わかんない。
ニコにはさっぱり意味がわからなかった。わからなかったが、どうやら逃げろ、と叫んでいる人がいるので、なんだか危ないモノだと思う。だからちょっと道の端に行こうかな。
ニコの認識はそれ程度だったが、まあ問題はない。危ないものから逃げることは全く間違いではないのだから。
そう、だった、筈なのだが。
「押すんじゃねえ! 俺を殺す気かテメェ!」
「早く! 早くアッチ行ってよ! 邪魔じゃない!」
「いやああああああ! どいてえええええ!」
人が多い。ニコは今年で十一歳になる。一歩大人になった、と本人は思っている。が、所詮は十一歳の子供。脅威から逃げようとする人混みの中を、ニコは掻き分けて進むことなど出来ない。ジタバタもがくのはニコの美意識に反する。
なので、ニコは一旦動くのをやめてみた。
うん、スマート。
「子供が! 取り残されてる!」
「誰か止めてくれ!」
あれ?
くるり、と振り返る、と。そこには、なにか、黒い、陰、が。
あれ?
「キャアアアアアアア!」
聞いたことのない音がした。
しんじゃうのかな、わたし。
ニコはぎゅっ、と目をつぶった。
……。……、……。……?
あれ? いたく、ない。
はぁ、となんだか息を吐く音がした。
「お嬢さん、叫ぶのは構わないが、もう少し前を見ては呉れないか?」
「え?」
恐る恐るニコは目を開く。なんだかすごい眩しい気がして、何回も目を瞬かせ、ようやくニコは声が聞こえた方を見る。
……方向を間違えたのかしら、馬しか見えない。
「お嬢さん、上だ、上」
声の通り、上を――馬の上を見ると、そこには、月のような人。白、と言うより夜の月のような髪と、深い湖に浮かんだ月のような瞳を持っている。うん、月みたい。
その人は随分と綺麗だった。
女の人なのだろーか?にしては声がちょっぴり低めだけれども。
その人はさっと馬から降り、ニコの前にしゃがむと、じっと全身を見てくる。……へんたい? なのかしら?
「怪我は、無い様だね。怖くは無かったかい?」
「あ、うむ、じゃなくて、はい。そう、ケガはないわ。ちょっぴり、コワかったけど!」
月の人がにっこりニコに笑いかける。それにちょっとどもってから返事を返すニコ。
へんたい、とか思っていたのはヒミツである。笑顔が素敵。へんたいとか思ってゴメンナサイ。心のなかでその人に謝る。
と。
「其れは重畳。で、だがね」
その人は笑顔でお説教をし始めた。
「君は、己が両親に見知らぬ場は危険で在る場合が多い、と教わった事は無いの哉?」
そんなこんなで、冒頭に戻るのである。