7月29日 ―10―
「彩も太郎も、準備はいいか? そろそろ行くぞ」
譲司さんが俺達に声をかける。
「私はアリアの手紙を読むだけだもの。太郎さんも大丈夫よね?」
「うん。もう、大丈夫です。いつでも行けます」
彩さんに応えて、譲司さんへ言葉を続ける。
「じゃあ行こうかー。太郎君、会場覗いて無理そうだったら言うんだよ? 無理するより少し時間を貰って、しっかりと入った方が皆も満足してくれると思うから」
「わかりました。無理はしないです」
気負いはなくなった。
それでもあの会場に人が沢山入っている様は、俺の弱過ぎる心臓を鷲掴みにしてしまうかもしれない。そうなったら素直に言うべきだろう。俺が無理すればことが上手く運ぶ場面じゃない。無理をした分だけ来た人達を落胆させてしまう。
「なら大丈夫かなー。僕と譲司さんは脇で見てるから。ほどほどに頑張るといいよ」
「はい」
その後、会場へ向かいながらもう一度今日の流れの確認をする。
「オケもない訳だし、太郎君の間で歌い始めていいから。曲の合間に一言、二言あるといいと思うけど、それも無理してしなくていいよー」
曲のリストを確認している時に佐橋さんが今回はこんな感じでと言って話してくれた。
普段のアリアちゃんがどうしているか知らないし、佐橋さんも無理はしなくていいと言ってくれているので、お言葉に甘えて喋る量は極力減らす方向にしようと思う。
会場に着いた。先程使った部屋の後ろの出入り口ではなく、前の出入り口の方へ向かう。
中を覗くと、先程佐橋さん言っていた通り部屋一杯に人が集まっていた。
これだけの人がアリアちゃんの歌で集まるのか。改めて集まった大勢の人達を見て、アリアちゃんの凄さを感じる。用意された椅子にはお年寄り達が座っていて、部屋の後ろでには介護士らしい人達が立っているのが見える。
「一応、アリアが出れないことは伝えてあるが、来てくれている人全員に伝わっている訳ではないだろう。そのあたり、彩が最初に説明をしっかりやってくれ」
譲司さんが彩さんに確認するように言う。
「わかったわ。それにしても父さんがやったって良かったんじゃないの? 挨拶」
「俺は今回、亮に任せてるからな。亮がやれって言うならやったさ」
「わざわざ譲司さんにやってもらうくらいなら僕がやったけどねー。挨拶くらい出来ないと厳しいかなって思ってたから、太郎君にやってもらおうと思ってたんだよ。言う前に話が出来ない状態になっちゃってたけど」
「なら、太郎さんが挨拶出来ないと問題抱えたまま歌い始めることになるんじゃないの?」
「それは大丈夫。伊達に太郎君と毎日顔を合わせてないよ。彩ちゃんが来てから、いつもの太郎君に戻――」
佐橋さんの言葉が切れる。ずっと会場を覗いていたが、気になったので振り返るとこっちを見ていた。
なんだろう?
「太郎さん。ここ。また大変なことになってるわよ」
彩さんが自分の額を指さしながら慌てた風もなく言う。
「……え?」
「太郎君。いつも通りだから大丈夫、って言ってるそばからそれは止めて欲しいかなー。不安にしかならないよー」
佐橋さんに言われてやっとわかった。どうやらまた、軽く呑まれていたみたいだ。理解するのに時間がかかったのもそのせいだろう。とはいえ、すぐには平静を取り戻すのは難しそうだ。思考は回るが、指摘されて気付いてからは指先から力が抜けて行く感じがする。だが、もうあれだけ人が集まっている。無理をするなという佐橋さんの言葉もわかるし、その言葉に甘えさせてもらおうとも思ったが、集まっている人を見たら開始時刻を遅らせる気にはなれなかった。
「さてと、開始を少し待ってもらうように言って来るよー」
佐橋さんがそう言って会場に入っていこうとするので慌てて引き留める。
「待って、下さい。もう、満場ですし、すぐに、行けます」
佐橋さん相手でも少し声が強張ってしまっていた。これじゃ説得力ないな。
「もう、太郎さん。そういう気負いは要らないって言ってるじゃない」
近づいてきた彩さんが、親指の腹で俺の額をグリグリと撫でつける。寄ってたシワでも伸ばそうとしているのだろうか? そんな彩さんは少し怒っている風だった。
「でも、大丈夫だから。始まってしまえば、何とかなるよ。彩さんが、居てくれるおかげで、割とすぐに、落ち付けるし」
言っている間も彩さんは手を休めない。もうすぐ人前に出るので痕が残ると困るのだけど。でも、額のシワが解れたかはわからないが、緊張は解れてきていた。
「そう言ってくれるのは嬉しいけど。本当に?」
「彩さんのおかげ、って所までね」
冗談ではなく、彩さんと話していたら本当に落ち着いてきた。魔法にでもかかっているみたいだ。
「うん。僕から見ても太郎君はもう大丈夫そうかなー。彩ちゃんのおかげで。でも、そろそろグリグリするのは止めてあげてもいいんじゃないかな?」
佐橋さんが俺の様子を見て言う。俺のされるがままの姿に苦笑しながら「やっぱり、彩ちゃんが来てくれて助かったなー」と付け足した。
「だって太郎さん。わかったって言う割に聞いてくれないんだもの。無理はしないって言っておきながら、そんな顔で出て行こうとするし」
「ごめん」
「本当にわかってるのかしら? 謝るだけじゃなくて行動で示して欲しいわ」
そう言いながらも、やっとグリグリするのは止めてくれた。
「わかった。この後、ちゃんと見せるよ」
彩さんに心配をかけないように、笑って答える。もう顔も強張ったりしていないはずだ。自分でもびっくりするくらい落ち着いていた。
「そう。楽しみにしてるわね。じゃあ行きましょう。時間、ちょっと過ぎちゃったし」
「うん」
大丈夫だ。一昨日はアリアちゃんに救われた。大げさな物言いかもしれないが、間違いじゃない。そして今日は彩さんに。
その二人が、俺が誰よりも今日を楽しむことを望んでくれていると言っていた。なら、俺も望もう。母さんのように、アリアちゃんのように、今日の公演を誰よりも楽しむ。それで、来てくれた人が喜んでくれたら最高だ。
彩さんと顔を合わせ、互いに頷きあい揃って会場に入る。