7月29日 ―8―
俺の額に何かが押し当てられた。
それに合わせて声がする。最近、知ったばかりの声だ。
「もう、なんて顔してるの、太郎さん」
顔を上げると、彩さんが居た。中腰になって俺の額に人差し指を置いている。「しょうがないなぁ」と呟いて、呆れたような顔を浮かべていた。アリアちゃんに見せていた優しい印象を受ける。その顔を見ながら、声を出そうとする。
「……、ぁ、……、あ、彩さん、何で?」
やっと声が出た。
「私がここに居る理由は、いいじゃない、別に。私が馬鹿だったってだけよ。それよりもね、太郎さん。また、凄い顔してるわよ」
彩さんが、可笑しそうに言う。
――?
まだ先程までの様に外からの情報がちゃんと頭に入って来ないからか、彩さんの言っている意味をいまいち理解出来なかった。
「太郎さんを一人にしちゃ駄目だったてこと。早くに気付くべきだったのよね。初対面の私とアリアにあんな様子だったんだもの。こうなるのは、ちょっと考えればすぐにわかることだったのに」
初めて二人に会った時。確か、一番最初は俺が全然言葉にもならないことを喋って、アリアちゃんが俺に都合よく解釈してくれて、それを見た彩さんが驚いていたなあ。
確かに、そうだな。あれが俺の標準だ。俺は緊張であっさりと喋れなくなってしまう。
一昨日は、アリアちゃんや彩さん、出会った皆が親しみやすい人達だったから割と普通に接することが出来たけど。
「それにしても、その顔。何をそんなに思い悩んでいたの?」
「何を? えと、緊張で、……、声、出なくなって、もう駄目だって。アリアちゃんと、約束したのに。譲司さんや、佐橋さんに、任せて、もらえたのに、って」
取り繕う気力もなかった。さっきまで考えていたことをぽつぽつと語る。
「もう、そんなこと気にしてたの?」
「いや、そんな、ことって」
「それは、太郎さんが気負うほどのことじゃないわ。それより、大事なことがあるでしょ? 太郎さんは、湊さんみたいになりたいんでしょ? 自分で言っていたから、わかってるものだと思ってたのだけど?」
彩さんが、また呆れたように溜息を吐く。
「大事な、こと?」
確かに、母さんは俺の目指す所ではあるけれど。昨日知ったばかりなのに、母さんのことをわかっているような言い方だ。
「そう。『楽しいは正義』。何事も楽しまなきゃいけないんでしょ? 太郎さんが楽しめなくちゃ意味ないのよ? それに、あなたが楽しまなくちゃ、他の誰かのためになんて出来ないわよ? でも、楽しめばなんだって出来る。皆に喜んでもらうことだって」
一番大事な所を押さえているみたいだ。確かにそれを知っていれば母さんを語れる。
俺が言ったんだったな。一昨日アリアちゃんに言われたことを、そして俺の目指す所を、もう一度彩さんから教えられた。
「それにね、アリアは、……私も、今日は、太郎さんにこそ楽しんで欲しいと思ってるの」
「俺?」
「そう。『彩』で歌いたいって言ってくれた太郎さんの初めての公演。他の誰よりも、太郎さん自身に楽しんでもらいたいわ」
彩さんが微笑む。
「そろそろ、いいかしらね」
そう言って、ずっと押しつけていた人差し指を退けてくれた。
「あら、本当にこんな痕つくのね」
俺の額を見てクスクスと笑う。
アリアちゃんの代わりを務めると決めたときから、今日は何としても成功させるという思いばかりが先行していたと思う。自分が楽しむことなんて考えもしなかった。とどめに、あの会場を見て、アリアちゃんの今までの成果を目の当たりにして、呑まれてしまった。
彩さんが来てくれて良かった。もう大丈夫、かどうかはわからないけど、楽しめそうな気がしてきた。
「あの、彩さん」
「なにかしら?」
「まだ、シワ寄ってる、かな?」
自分の額を指して聞いてみる。
「大丈夫よ。だから、皆に太郎さんの歌、聞かせてあげて。太郎さんが楽しんでいれば、きっと皆も、ね」
「うん。ありがとう、彩さん」
「いいのよ。私が間違えてたの。気にしないで」
間違えたのは俺だ。……彩さんは何を間違えたんだろうか?
「それと、太郎さんに最初の挨拶を任せると大変なことになる気がするから、私がやるわね」
「挨拶?」
「ええ。挨拶。いきなり歌い始める訳にはいかないでしょ?」
「確かに。全然考えてなかった……」
「そうなの? なら丁度いいわね。私にやらせて」
「お願いして、いいの? 助かるけど」
「アリアが、歌うだけなら太郎さん一人でも大丈夫だけど、それだけじゃないからって言ってたわ。私もそう思うし。それが、私がここに来た理由の一つだから。アリアから、来てくれた方達への手紙も預かってるの。あの子、起きたと思ったらお手紙書くって聞かなくて」
アリアちゃんは、手紙を書けるくらいには体調が良くなっていたらしい。何よりだ。彩さんに寝てなさいって言われて、それを「ヤダ!」って突っぱねるアリアちゃんの姿が鮮明に思い浮かぶ。
「ちなみに、何て、書いてあるの?」
「まだ見てないわ。アリアが、太郎さんには見せるなとも言ってたわね。アリアが言うには、これを読むだけで素敵な挨拶になるそうよ」
「嫌な予感が、するね」
俺に見せられない素敵な挨拶……。碌なこと書いてないんだろうな。
「それも込みで太郎さんが楽しんでくれたらいいって、アリアは言っていたけど。……言葉よりも顔が嫌そうにしてるわね、太郎さん。調子は戻って来たのかしら?」
「わかんない。けど、彩さんのおかげで、今日は、楽しめそうだよ」
「私のおかげじゃないわ。アリアのおかげ。お礼はアリアに言ってあげて」
「アリアちゃんの、おかげでも、あるんだろうね。でも、今こうして、話してくれているのは、彩さんだから。これだって、アリアちゃんに、言われた訳じゃ、ないんでしょ?」
そう言って、額の痕をもう一度指さす。まだ痕が残っているかはわからないけれど。
「それは、ね。確かにアリアには、手紙もらって、太郎さんの代わりに皆の前で喋ってきてって言われただけだけど。来てみたら、……ねぇ?」
「……ごめん。だから、やっぱり、彩さんのおかげ。ありがと」
「太郎さんがそう言うのなら。どういたしまして」
彩さんがそう言って伸びをする。「腰が、……」って言ってたのは聞かないことにした方がいいのだろう。そういえば、ずっと中腰で、顔が目の前にあったな。思い出したら気恥ずかしくなってきた。誤魔化すようにして、彩さんに別の話題を振る。
「そういえば、譲司さん達は?」
「え? 来る時にすれ違って、エントランスに行くって。太郎さんには一応、どこに居るか言ってから出てきたって」
「ああ、俺に話しかけて、たんだ。二人で、ずっと話してるのかと、思ってた」
あの時の二人が話していたことは何一つ覚えていない。聞こえてはいたのだけど、俺の中で意味をなさなかったから。
「周りの声が聞こえなくなるなんて、相当大変な状態だったみたいね。さっきの太郎さんは」
「かなり、やばかったと、自分でも、思う」
「じゃあ、エントランスに行こっか。二人とも心配してたわよ。もう大丈夫よね」
「うん」
「それと、挨拶は太郎さんの様子見て大丈夫そうなら、一言二言、お願いしてもいいかしら? やっぱり、いくらなんでも少しくらいはしないとね」
「大丈夫。それくらいなら、問題ない、と思う」
ソファから立ち上がり、先を歩く彩さんに続いて部屋を出てエントランスに向かった。
冒頭のシーンは7月27日 ―4―と合わせて、書き始めた時に唯一決まっていたシーンだったりします。




